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離れていても、家族

ガシャーン!と言う音で目が覚め、音がしたほうへ向かうと血だらけの母と妹が立っている。
それが25歳の私の毎朝のルーティンだった。
思春期を迎え、自分の気持ちをうまくことばで表せない妹はその気持ちを暴力で表すようになった。ひきこもりの私は毎日、毎日ただ母の泣きわめく声を聞いていた。
誰かに助けを乞うすべも知らず、いざとなったら3人で死のうか、そう話す日もあった。
ひきこもりと言っても一応週に一度のアルバイトはしていた。昔から習っていた習字教室でちいさな子どもたちに字の書き方を教える仕事だ。ここを切り盛りしている私の師匠は自身も自閉症の息子を持つお母さんで、私の良き相談相手だった。

ある夜、眠っているとやはりガラスが割れる音で目が覚めた。
母が血まみれで立っている。
誰かに助けを求めよう、こんなこと毎日続いたらお母さんが死んでしまう、私はそう訴えたが、母は妹を悪者にしたくなかったのだろう、これはうちの問題だから、と頑なにそれを拒否した。
私は心底腹が立った、うちの問題?そしたら毎日毎日それに巻き込まれてる私はなんなんだ?妹が悪いわけではないのなんて私もわかっている、だけれどこの地獄から抜け出すすべを探すことも許されないのか?

何かが自分の中でプチンと切れた音がして、気づいたら私は師匠に電話していた。ただ泣きじゃくる私の声にただならぬものを感じたのか師匠は、「すぐ行くから!」と車を飛ばして我が家まで来てくれた。
ガラスの割れた室内に靴を履いたまま入ってきた師匠は、涙とよだれにまみれた私を見るやいなや「大丈夫!?」と叫び抱きしめてくれた。なのに私は助けを呼んでおきながらそんな姿を見られた恥ずかしさで師匠を突き飛ばしてしまった。けれど、師匠はもう一度強く私を抱きしめた。「もう大丈夫!うち行こう!」

私は師匠の車に乗せられ、師匠のうちに行くことになった。母が後ろで「娘を、どうかお願いします」と頭を下げている。
師匠のうちで、私が申し訳無さそうに座っていると師匠は
「突き飛ばしたこと気にしてんの?かまへんかまへん、私は気にしてないから。それより電話かけてくれて嬉しかったよ。私はきゅうちゃんがいちばん大事やから。妹のことはお母さんに任せとけばいい、私はきゅうちゃんのことが心配やってん。一緒にこれからのきゅうちゃんのことを考えていこう。」

母は、私が中学を卒業したときに私にこう言った。
「学校行けなかったら妹の面倒を見て生きればいいよ。いつかはあんたが見ないといけなくなるんだから。」
あのとき、私に私の人生はないのだと悟った。私の人生は妹の付属品。そう思っていた。
でも、妹とか関係なく私のことを大事だと思ってくれているひとが家族以外にここにいたのだ。いつも妹の次、二番目だった私を、あなたが一番だと言ってくれるひとが。

それからの展開はとてもスムーズだった。自閉症協会の会長もやっていた師匠はほうぼうに顔が利き、私たちの地区の民生委員に連絡を入れてくれ、民生委員の方が市の福祉課に連絡をし、妹は彼女が通っていた学校に併設された寮に移り住むことになった。
母は最後まで難色を示したが、最後には少し寂しそうに「これからは女ふたりで気楽に暮らして行こか」と私に言ってくれた。
私はアルバイトの日に、師匠に「結局、妹をひとりにしてしまった。妹も母と居たかったはずなのに、妹を犠牲にしてしまった気がする。」と複雑な胸の内を述べた。
すると師匠は「離れてもな、家族やねん。一緒に住んでなくても一生家族。いまは離れたほうが良いだけで、いつかまた一緒に暮らせる日も来るから。」
離れても、家族。私は師匠のそのことばに、とても勇気づけられた。この暮らしは、家族を続けるための、第一歩。

それから21年が経った今、妹はと言うとすっかりその寮の暮らしになじみ、たまにうちに泊まりに来ても、1時間立つと「もう帰るわ」と、私の実家は他にありますんで、と言わんばかりに寮に帰りたがるようになった。人間の適応力とはほんまにすごいもんで、寮の仲間たちと今は毎日ワイワイやってるらしい。
家族と毎日一緒にいることだけがしあわせではない、私はそれを妹に教えてもらった気がする。

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