虚勢張ってもお前は小さいままだからな。
みなさんは音楽を聴くとき何を重視しますか。曲調?リズム?歌詞?歴史?話題性?
一時期クラシックにハマってました。きっかけは中山七里先生の岬シリーズを読んだからかな。この人の音楽描写が僕の普段使っている日本語と比べて洗練されすぎていて、音楽の知識に乏しい僕にもその情景を、音楽を届けてくれたのが衝撃的でした。本当にすごい。読んでほしい。文字から音が聞こえるから。
でもパタリと聴かなくなってしまったのは、キリがないから。
もちろん他に気になるアーティストやジャンルができたっていうのもありますが、知り尽くすということに限りがなくって無力感に晒されてしまったのが大きな理由です。何百年と積み重なった歴史を前に立ち尽くしてしまったのです。どれだけ聞いたとしても終わりがない。その間にも名曲と呼ばれるものが誕生していって、全てをつぎ込まなければ、知るに足りえない、という事実が僕の熱を奪っていきました。なにも専門家になりたいわけじゃない。でもそれでも、その曲、一曲を十分に満喫したい。そう考えた時に、途方もない労力と曲に対する好奇心を比べて、労力が勝ってしまったんです。
これは、何も音楽に限った話ではありません。僕は小説が好きでした。頭の中に勝手に映像が流れていく感じが多分好きなんです。そうそう文字を読むときは基本的に映像として再構築して理解しています。それが上手くいかないとああ、ちゃんと理解できていないんだなって。文字を文字としてしか認識できなくなったら集中力が切れているなって気づくんです。みなさんはどうなのだろう。
話を戻すと小説を読む上で、幾万ともある良書による数による暴力で叩きのめされました。どれだけ読んだとしても追いつかない。それに気がついた時に僕は本から離れたのだと思います。今も本は読みますが、昔ほどの熱量と集中力は持ち合わせていません。ていうか読まなすぎだ。
どうも僕は知り尽くせないということが嫌なようです。コンテンツが尽きるよりは無限に存在してくれている方がありがたいのだけど、一定の数を超えてくると、それをする理由が義務感に変わってしまうのです。しなきゃいけないという考え方になってしまうのです。そうなるともう、ね。嫌気がさしてほったらかしてしまうのです。
音楽も小説も知っている範囲で好きな範囲で自由に楽しむことができるのに、本来自由な概念であるはずなのに。知らないという事実がプレッシャーをかけてくるのです。刹那的な享楽を楽しむことができないんです。この間にも遅れをとっている気がしてしまって。なんて勿体無い。死ぬまで一瞬というのに。しがらみを自分から作り出して苦しんでいる。いや“苦しんでいるふりをしている”変な人間なんです。
きっと側から見たら“意識たかい系”に見えるんだろうな〜。実際そうなんだけど。何を生き急いでいるんだろう。“生き急いでるふり“をしているんだろう
この際だからと色々考えてみています。
今の生活が不安定だからかな。余暇を注ぎ込まないと大成できない夢を掲げているからなのかな。
見栄が人一倍強いからかな。知らないという弱みに耐えられないからかな。
それらすべてを知り尽くす自信がないからかな。結局理由つけて逃げているだけなのかな。
色々と出てくるけれど、言語化したくても口には出したくないもっと根本的な理由が他にあります。
人に落胆されるのが嫌なんです。人が離れていってしまうのが嫌なんです。
好奇心に任せて生きていた僕は広く浅く様々な分野について知ることができました。どんな話でもある程度は会話できるとおもいます。中学の頃はそれでよかった。でも高校生になった頃からかな。あいつは物知りだみたいなレッテルが貼られていってしまって。きっとずっと本を読んでいたからだと思うのだけど。知らなかった時にされるリアクションがもう耐えがたかったんです。ああ知らないんだ。みたいな。
いつまで引きずってんだって話なんですけど、「大人びているね」「物知りだね」「賢いね」と勝手に貼られたラベルに敵うようにと本当に最近まで頑張っていました。だから膨大な数の、長い歴史を伴ったコンテンツが僕の天敵でした。どこからボロが出てくるかわからないから。気付いたら、知るという単純な知識欲、探求欲と一緒に他者に感心されたいという欲求が張り付いてきてしまったんです。個人の楽しむ範疇から勝手にはみ出ていたんです。自分の世界と他世界を繋げようとして。
でも趣味って基本的に自分の為の時間だったり、空間な訳じゃないですか。本来はとことん自由に遊び回れる空間のはずなのに周りの目を気にして縮こまっているのって本当に勿体無いなと思ったんです。その結果がみんな好き好きとか言って泣きそうになってる24歳男性が爆誕したんですけど。凝り固まった僕に対する見方、見られ方をぶち壊していこうって、ここではありのままで書き上げていこうって決めたわけです。そしたらどうだろう。昔より自分の文章は好きになったし、抑圧されたストレスの昇華先としての文字ではなくなったではないですか。
うだうだしている自分も情けない自分もすべて受け入れてくれる人がいるから僕は泣きたくなってしまうのです。
なんかおかげで、今なら知る喜び、楽しみだけに集中できるかもしれない。ベートーヴェンも『月光』しか知らないけど、それでもいいか。いや、それは一般常識なのか?てかそもそも一般常識とか良書って言われているやつって結局はみんなのエアプの集合体ってことでしょ。概要だけ知った気になっても、それは知らないままだから。なんだ、僕は自由なんだ。