私が幼稚園に通っていた頃に、父は姿を消した。その日迎えにきた母の顔がいつもと違うことに子供ながら気がついていた。。
「お父さんがね、しばらく帰ってこないんだって。私は絶対あなたの側を離れないからね。」
家ついて、私が靴を脱いでるところを母が抱き寄せてそう言った。 その時の表情は20年近く経った今でも鮮明な写真として脳裏に焼き付いている。私の好きだった母のえくぼはこの日を境に消え去ってしまった。
私はおばあちゃんと共に過ごすことが増えた。母と会うのは、朝の数分と夕方に帰ってきた母が夜に消えていくまでの数時間。忙しそうに身支度をする母に私は声をかけることができなかった。おばあちゃんが私たちの住んでいたアパートに移ってきて、そのまま私の送り迎えや家事全般をしてくれていた。おばあちゃんの笑顔が好きだった。母と同じえくぼが浮かぶから。
ある土曜日の晩、目が覚めてトイレへ向かうとリビングで机に向かう母の背中を見た。小刻みに震えながら手には私が幼稚園でおばあちゃん宛に書いた手紙を持っていた。私は何故だか見てはいけないものを見た気がしてトイレに行かずそのまま自分の布団に潜り込んだ。隣には母ではなくおばあちゃんが寝ている。
それ以降の記憶は全くない。次に遡れる記憶は小学3年生の頃からだ。
9歳だった私は友達にも好かれ、先生達にもよく褒められていた。私は学校が好きだった。音読だって得意だったし、掛け算の筆算だってスラスラ解けた。休み時間になると友達に囲まれて、学校行事の際は先生に期待されていた。私にとってそれは全くもって苦ではなかった。帰宅したら、まずおばあちゃんにその日のテストや手紙を渡し友達と遊ぶためにUターンして外へ出て行く。慌てて出て行こうとする私におばあちゃんは優しい声で「テスト満点凄いね。」といつも褒めてくれていた。照れ臭そうに私が笑うとおばあちゃんもえくぼを作りながら笑い返してくれた。この頃になると母と会うことは全くと言ってもいいほどなかった。私が起きる前に母は仕事へ行き、私が眠りに落ちた頃に帰ってきていた。私にとっておばあちゃんが母親だった。一緒にご飯を食べ、学校の話を聞いてくれる。先生に褒められたこと、放課後に友達と遊んだこと、気になる男の子のこと。おばあちゃんは目尻を下げてゆっくりと相槌を打ちながら私の話を聞いてくれていた。おばあちゃんの、のんびりとした雰囲気が大好きだった。
時は過ぎて小学5年生の春、母が倒れた。3時間目の社会の時間に、教頭先生が教室の扉をあけて私の名前を呼ぶ。
「あなたのおばあさんからお母さんが倒れたって連絡が入ったから、今すぐ帰る準備をしなさい。私が病院まで送っていくから準備ができたら正門前に来てね。」
そう言われて私はとりあえずランドセルに荷物を詰め始めた。クラスメイトがざわつきだして先生がなだめる。私自身がどのような顔をしていたのかわからないが、先生は心配そうにこちらを見ていた。正門前に着くと、教頭先生が車の窓から顔を出し手招きしていた。車に乗る。
その時の私はどこに向かっているのかまだ理解していなかった。教頭先生はミラー越しに後部座席に座る私へ声かけてくれていたが聞こえなかった。着いた先は予防接種や熱を出した時にお世話になっていた総合病院だった。
いつもは乗らないエレベーターに乗り4階まで上がる。病室まで向かう途中、教頭先生は一言も喋らなかった。静かな廊下にわたしと教頭先生の歩く音だけが反響する。エレベーターを出て5番目の部屋の扉を教頭先生がノックした。405。出てきたのはおばあちゃんだった。おばあちゃんは笑顔で私のことを抱きしめてくれたが、その表情には少し曇りが感じられた。教頭先生と分かれて、おばあちゃんに連れられ入った病室の奥には透明の管が手首に挿さっている母がいた。 どうやらねむりについているようだったが私は変わり果てた母の姿にびっくりした。私の知っている母はこんなに痩けた人ではないし、目の下にクマがあるところなんて見たことがなかった。
「お母さんはね、あなたがしっかりと成長できるように、一生懸命にお金を稼いでくれていたの。今は疲れて眠ってしまってるけれど、ちゃんと起きるし大丈夫だって。お医者さんが教えてくれたよ。」
後ろからいつもの優しい声でおばあちゃんが私に教えてくれた。私はただただ、目をつむって寝ている母の姿を静かに見ることしかできなかった。
その日は夕方まで母のそばにいたが、起きることはなかった。おばあちゃんと一緒に家に帰り、夜ご飯を作る暇もなく、帰り道に買ったコンビニの菓子パンを食べた。今までずっと食べたことがなかったので、少し楽しみだったが美味しくなかった。
「明日はおばあちゃんが迎えに行くから、学校が終わった後にお母さんのところ行こうね。」
と約束をして、早々と眠りについた。約束通り、校門を出るとおばあちゃんが立っていた。大通りに出てタクシーを拾い、母のいる病院まで向かった。車内の空気は決して明るいとは言えず、居心地が悪かったのを覚えている。病院までは大体10分くらいだったが、体感では30分弱過ぎ去っていったように感じた。タクシーを降り病院へ入っていく。おばあちゃんが受付をしている間に私は1人でベンチに座り自分の膝をただただ眺めていた。無機質なアナウンス、清潔感のある匂い、壁一面が真っ白で、私には異質な空間に感じられた。到底好きにはなれない。
「おわったよ。行きましょう。」
声に顔をあげると既におばあちゃんは私の5、6歩先を歩いていた。この空間に取り残されないよう急いでついていく。
病室に入ると母は体を上げて外を見ていた。
「体調はどう?少しはマシになったかい?」
おばあちゃんが声をかけると母はこちらを振り返り、小さい声で
「ええ、少しね。」
と言った。
そのやり取りを聴きながら私は必死に言葉を探していた。なんて言えばいいのだろうか。考えても考えても出てこなかった。 ちらっと母を見ると私の方を見つめていた。驚いて目線をそらす。母の表情にも困惑が窺われた。
私たち親子は既に距離感がわからなくなってしまっていた。お互いに顔を合わせることなく過ごしている間に、以前どのように接していたのかを見失ってしまったのだ。
「…んね。ごめんね…。」
母の口からそう漏れたのを私は聞いた。誰に向かって謝っているのか私にはその時わからなかった。おばあちゃんに背中を押されて1歩ずつ母の方へ歩いていくと、ベッドのすぐ横に来た私を母は優しく抱きしめた。
「ごめんね。ずっと側にいるって約束。守れてなかった。ごめん。これからは少しお仕事減らすね。一緒にご飯食べよう。学校の話も聞かせてね。ごめん。」
目に涙を溜めながら話す母の腕の中で、私も泣いた。
「お母さん。今までありがとう。私のためにありがとう。」
上擦った声で私が言うと母は堪え切れなくなった涙を流し、さらに強く私のことを抱きしめてくれた。
そのあとは、いつ頃退院できるのかということ、退院した後に遊園地に遊びにいくこと、包丁の使い方を教えてくれることなどいろんな約束をお母さんは私にしてくれた。さっきまでのぎこちなさは1度の抱擁によって消え去った。
最後におばあちゃんに撮ってもらった母とのツーショット。お母さんと同じえくぼが私にも受け継がれていた。
#小説 #短編
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