サンスクリット語の上座部アビダルマをGPTsを構築して日本語訳「Dharmaskandha」②(4-6 / 19)
4. 名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ)
要約
このテキストは、「法蘊 (Dharmaskandha)」の第四章である「名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ)」について述べています。主な内容は以下の通りです。
名色を縁とする識
五感(眼、耳、鼻、舌、身)および意(mana)を縁として、それぞれの対象が認識される過程が述べられています。
名(nāma)と形(rūpa)の存在が識(vijñāna)の形成に影響を与えることが説明されています。
仏の教えの引用
仏が「ファルグナの教え」や「スヴァーティ比丘への教え」、「大因縁経」において名色と識の関係について説かれています。
識が母の胎内に入ることによって名色が成立し、再生(新たな生)が発生する様子が強調されています。
識と名色の相互依存性
識が名色に依存し、また名色が識に依存することが繰り返し述べられており、名色と識が互いに存在しなければ成立しないことが示されています。
次に、それぞれの部分ごとに完全な翻訳を行います。
法蘊 (Dharmaskandha)
4. 名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ)
詩偈(uddānaṁ)
二つの条件(dvayapratyayāt)から識(vijñāna)が生じること、ファルグナ(phalgunā)とスヴァーティ(svātir)についても同様である。
貪(rāga)、瞋(dveṣa)、痴(moha)から生じるものであり、またアーナンダ(ānanda)にも関係する + +
「名色を縁とする識とは何か?」(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ katarad)
「答えます。例えば、**眼(cakṣuḥ)を縁として形(rūpāṇi)**が生じ、それによって眼識(cakṣurvijñāna)が生じます。その中で、眼と形、そしてそれに基づく感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñāna)は形(rūpa)に属します。そして、これが名(nāma)に属するもの、すなわち名色を縁とする心の働き(manasikāra)であり、名(nāma)を縁とする心の意識(manovijñāna)です。これが『名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ manovijñānaṁ)』と呼ばれるものです。」
「同様に、耳(śrotra)、鼻(ghrāṇa)、舌(jihvā)、**身体(kāya)**においても同様です。」
「**意(manaḥ)を縁として法(dharmāṁś)**が生じ、それによって心識(manovijñāna)が生じます。その中で、心で認識される形ある法(rūpiṇo manovijñeyā dharmā)は形に属し、それに基づく感覚、想い、形成作用、識が名に属するものです。これが名色を縁とする心の働き(manasikāra)であり、名(nāma)を縁とする心の意識です。これが『名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ manovijñānam)』と呼ばれるものです。」
また、このように仏(bhagavatā)は「ファルグナの教え(phalgunāvavāda)」においても次のように説かれています。
「**識(vijñāna)**はファルグナにおいて、食物(āhāra)によって未来の再生(punarbhava)のために現出し続けるものです。」
それはどのような識なのか?」(tat katarad vijñānaṁ)
「答えます。それは**ガンダルヴァ(gandharva)**の最後の心(caramaṁ cittaṁ)であり、詳しく述べると、ガンダルヴァが母の胎内(mātuḥ kukṣau)に入った直後に、胚(kalalam)の状態が形作られるのです(saṁmūrcchati)。これが胚の状態における自我の形成です(ātmabhāvaṁ saṁmūrcchati)。
これは形(rūpa)に属するものであり、それに基づく感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、そして識(vijñāna)が名(nāma)に属するものです。このことが**非合理的な作意(ayoniśomanasikāra)**と共に生じる名色(nāmarūpa)を縁として、母の胎内において識(vijñāna)が現出し、出現することを意味します。これが『名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ)』と呼ばれるものです。」
また、このように仏(bhagavatā)は**スヴァーティ比丘(svātiṁ bhikṣuṁ kaivartapūrviṇam)**に始まり、次のように説かれています。
「比丘たちよ、三つの条件が揃ったときに、母の胎内に胎児が宿ります(trayāṇāṁ bhikṣavaḥ sannipātān mātuḥ kukṣau garbhasyāvakrāntir bhavati)。」ということが詳細に述べられています。つまり、**非合理的な作意(ayoniśomanasikāra)**と共に自然に生じる名色(nāmarūpa)を縁として、母の胎内に識(vijñāna)が宿り、現出します。これが『名色を縁とする識(nāmarūpapratyayaṁ vijñānaṁ)』と呼ばれるものです。
また、このように仏(bhagavatā)は**大因縁経(Mahānidānaparyāya)**においても次のように説かれています。
「識(vijñāna)が名色(nāmarūpa)に依存して定着しなければ、その識が定着せずに発展しない場合、**生の始まり(bhavasamudaya)**が生じることはありません。そして、**生・老・死(jāti-jarā-maraṇa)**の連鎖も起こることはないのです。」
「また、アーナンダよ、名色が存在しなければ識を認識することができるでしょうか?」「いいえ、尊師よ。」という対話が続きます。
「それゆえに、アーナンダよ、このことが原因であり、これが条件であり、名色の基盤となるものは識(vijñāna)であると、以前に述べた通りです。」
Mahānidānasutta—関西パーリ語実習会
15. 大いなる因縁の経
5. 名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)
要約
このテキストは、「法蘊 (Dharmaskandha)」の第五章である「名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)」について述べています。主な内容は以下の通りです。
名色を縁とする六処
さまざまな条件(冷暖、飲食、体のケアなど)を通じて五感および意が形成され、名色が六処(眼、耳、鼻、舌、身、意の六感覚領域)に関連して成立する過程が述べられています。
仏の教えの引用
仏が「ファルグナの教え」や「スヴァーティ比丘への教え」、そして「大因縁経」において六処の成立について説かれています。
六処の形成には名色が関与しており、胎児の形成や死後の転生などの説明も含まれています。
善行と不善行の結果
不善行(貪・瞋・痴)により、苦しみのある生まれ変わり(地獄や畜生)が生じ、そこでも六処が形成されることが述べられています。
善行により幸福な生まれ変わり(人間や天界)が得られ、六処の形成が続くことも説明されています。
次に、それぞれの部分ごとに完全な翻訳を行います。
法蘊 (Dharmaskandha)
5. 名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)
詩偈(uddānaṁ)
冷たいもの、熱いもの、食物、飲み物、また身体の摩擦、
冷たい水の池、スヴァーティ星、そして貪(rāga)や
瞋(dveṣa)、痴(moha)から生じるものが最後の要素となる。
「名色を縁とする六処とは何か?」(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanaṁ katarad)
「答えます。たとえば、ここにおいてある人が**寒さ(śīta)から暑さ(uṣṇa)**に移行するとします。その結果として、**熱に由来する四大要素(mahābhūtāni)**が生じます。この場合、熱に由来する四大要素は形(rūpa)に属し、そこから生じる感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñāna)は名(nāma)に属します。寒さに由来する名色(nāmarūpa)を縁として、眼の感覚器官(cakṣurindriya)が成長するのです。」
「同様に、耳(śrotra)、鼻(ghrāṇa)、舌(jihvā)、身体(kāya)、そして**心(manaḥ)**もそれに基づいて成長します。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanaṁ)』と呼ばれるものです。このようにして、暑さから寒さへと変化していくのです。」
「たとえば、ここにおいてある人が**飢え(jighatsā)と弱さ(daurbalya)**に襲われ、清らかで適切な食べ物(prāṇītaṁ khādanīyaṁ bhojanīyam)を食べるとします。その結果として、**食物に由来する四大要素(mahābhūtāni)**が生じます。この場合、食物とそこから生じる四大要素は形(rūpa)に属し、それに基づく感覚(vedanā)を生じさせます。詳細については、先に述べた通りです。」
「また、ここにおいてある人が**喉の渇き(tṛṣā)と疲労(klānta)**に襲われ、清らかで冷たい水(śuci śītalaṁ pānīyaṁ)を飲むとします。その結果として、**飲み物に由来する四大要素(pānasahajāni mahābhūtāni)**が生じます。詳細については省略します。」
「たとえば、ここにおいてある人が**身体を擦ったり揉んだりする行為(utsadanaparimardanasaṁvāhana)**に従事しているとします。その結果として、**この行為に由来する四大要素(utsadanaparimardanasaṁvāhanasahajāni mahābhūtāni)**が生じます。この場合、身体の摩擦や揉む行為、それらに由来する四大要素は形(rūpa)に属し、そこから生じる感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñāna)は名(nāma)に属します。詳細については省略します。」
「また、ここにおいてある人が夏の暑さに襲われ(grīṣmābhitapto)、疲れ(klānta)、**喉の渇き(tṛṣita)を感じ、さらに風や日差しに苦しんでいるとします。その人が冷たい水の池(śītodikāṁ puṣkariṇīm)に浸かると、その結果として冷たさに由来する四大要素(śītasahajāni mahābhūtāni)**が生じます。この場合、冷たさ、それに由来する四大要素が感覚(vedanā)を生じさせます。詳細については省略します。」
「また、このように仏(bhagavatā)は**ファルグナの教え(phalgunāvavāda)**において次のように説かれています。
『識(vijñāna)は、ファルグナにおいて、食物(āhāra)を通じて未来の再生(punarbhava)のために現れ続けます。』
その識とはどのようなものか?それを詳しく説明すると、識が母の胎内に入った直後に、**胚(kalalam)**が形成されます(ātmabhāvaṁ saṁmūrcchati)。つまり、胚の状態が形成され、感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñāna)が生じます。この識は名(nāma)に属するものです。**非合理的な作意(ayoniśomanasikāra)**と共に生じる名色(nāmarūpa)を縁として、母の胎内において六つの感覚器官(ṣaṇṇām indriyāṇām)が現れ、出現することになります。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)』と呼ばれるものです。」
「また、このように仏(bhagavatā)は**スヴァーティ比丘(svātiṁ bhikṣuṁ kaivartapūrviṇam)**に始まり、次のように説かれています。」
以下に、上記のテキストの翻訳を行います。
「比丘たちよ、三つの条件(trayāṇām saṁnipātān)が揃ったときに、母の胎内に胎児が宿ります(mātuḥ kukṣau garbhasyāvakrāntir bhavati)。詳しく言うと、母の胎内において六つの感覚器官(ṣaṇṇām indriyāṇām)が現れ、出現します。これが『六処を縁とする名色(ṣaḍāyatanapratyayaṁ nāmarūpam)』と呼ばれるものです。」
「また、ある人が**貪(rāga)、瞋(dveṣa)、痴(moha)**の状態にある場合、身体(kāyena)で不善な行為(duścaritaṁ)を行い、言葉(vācā)や心(manasā)で不善な行為を行います。その身体と言葉による不善な行為が形(rūpa)に属し、心による不善な行為が名(nāma)に属します。この不善な名色(akuśalaṁ nāmarūpaṁ)を縁として、苦しみが生じ(duḥkhodayaṁ)その結果として苦の報い(duḥkhavipāka)があります。そしてその者は死後に地獄に生まれます(narakeṣūpapadyate)。そこにおいても六つの感覚器官(ṣaṇṇām indriyāṇām)が現れ、出現するのです。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanaṁ)』と呼ばれるものです。」
「**地獄(narakeṣu)や動物の世界(tiryakpreteṣu)**においても同様です。」
「たとえば、ある人が**人間の幸福(manuṣyasukhakeṣv)**を望み、心がそれにとらわれています。その人は、『ああ、自分も人間の幸福の仲間に生まれたい(manuṣyasukhakānāṁ sabhāgatāyām upapadyeyaṁ)』と考えます。そしてその人はそれを望み、身体(kāyena)、言葉(vācā)、**心(manasā)**で善行(sucaritaṁ)を行います。これが形(rūpa)に属し、心で行う善行が名(nāma)に属します。この善い名色(kuśalaṁ nāmarūpaṁ)を縁として幸福が生じ(sukhodayaṁ)、その結果として幸福の報い(sukhavipāka)を受けることになります。そしてその者は死後、人間の幸福の仲間に生まれることができるのです(manuṣyasukhakānāṁ sabhāgatāyām upapadyate)。そこにおいて六つの感覚器官(ṣaṇṇām indriyāṇām)が現れ、出現します。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)』と呼ばれるものです。」
「人間の幸福の仲間について説明したように、**他化自在天(paranirmitavaśavartināṁ)**など他の天界においても同様です。」
「たとえば、ある人が梵天界の神々(brahmakāyikānāṁ devānām)を望み、心がそれにとらわれているとします。詳しく言うと、彼は身体の制御(kāyasaṁvaro)、言葉の制御(vāksaṁvara)、**生活の清浄(ājīvaviśuddhi)を守ります。この行為により形(rūpa)が形成され、それに基づく感覚(vedanā)、識(vijñāna)などが生じ、名(nāma)に属するものとなります。こうして、この善い名色(kuśalaṁ nāmarūpaṁ)を縁として幸福が生じ(sukhodayaṁ)、その結果として幸福の報い(sukhavipāka)が得られます。彼は死後に梵天界の神々の仲間(brahmakāyikānāṁ devānāṁ sabhāgatāyām)**に生まれ、そこで六つの感覚器官(ṣaṇṇāṁ indriyāṇām)が現れ、出現します。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanam)』と呼ばれるものです。」
「このことは梵天界の神々についてだけでなく、**非想非非想処の神々(asaṁjñisatvasaṁgṛhītānāṁ)や広大な果報(bṛhatphalānāṁ)**を持つ世界にも同様に当てはまります。このようにして、六処(ṣaḍāyatana)が名色(nāmarūpa)に依存し、それを基盤として発生し(utpadyate)、生じ(samutpadyate)、成長し(jāyate)、発展します(saṁjāyate)。これが『名色を縁とする六処(nāmarūpapratyayaṁ ṣaḍāyatanaṁ)』と呼ばれるものです。」
6. 名色(nāmarūpa)を縁として触(sparśa)が生じる
要約
この部分では、名色(nāmarūpa)を縁として触(sparśa)が生じることについて説明しています。触は三つの要素、すなわち感覚器官(五感+心)、対象、識が出会うことで生じるとされます。具体例として、眼と形(視覚対象)により生じる眼識、それに基づく触の発生が示されています。また、他の感覚(耳、鼻、舌、体、心)についても同様に説明されています。
仏陀は、ファルグナの教えやスヴァーティ比丘への教えを通じて、名色が母の胎内での触の形成にどのように関わるかを説きました。不善行や善行に基づく名色の違いが、死後の再生(地獄や天界)において触がどのように生じるかに影響を与えることが説明されています。
このテキストでは、名色が触にどのような影響を与え、どのようにして物質的・精神的な現象を通じて触が発生するかが詳細に述べられています。
次に、個別の部分ごとに完全な日本語訳を行います。
法集(Dharmaskandha) 6. 名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)
「名色を縁として触とは何か?」
詩のまとめ(uddānaṁ)
「〜に依る触が生じ、ファルグナやスヴァーティ、そして**貪(rāga)、瞋(dveṣa)、痴(moha)による触があり、さらに歓喜(ānanda)**と共に生じることが語られる。」
「目(cakṣuḥ)を縁として色(rūpāṇi)が生じ、眼識(cakṣurvijñānaṁ)が発生する。三つの要素(目、対象、識)が集まることによって**触(sparśaḥ)**が生じる。ここで、目と色が形(rūパ、rūpasya)に属し、それに基づいて生じる感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñānaṁ)がある。これらは名(nāmasya)に属し、それに基づく作意(manasikāra)が名に依る触(cakṣuḥsaṁsparśasya)となる。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼ぶ。」
「同様に、耳(śrotra)、鼻(ghrāṇa)、舌(jihvā)、体(kāya)、そして心(manaḥ)を縁として、それぞれの対象(dharmāṁś)に基づいて**心識(manovijñānaṁ)**が生じる。ここでも三つの要素が集まることによって触(sparśaḥ)が生じる。これらの対象に基づいて生じる感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñānaṁ)があり、これらは形(rūpa)に属する。名(nāma)に基づく作意(manasikāra)によって心の触(manaḥsaṁsparśasya)が生じる。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼ぶ。」
「また、このように**仏(bhagavatā)はファルグナの教え(phalgunāvavāda)**において次のように説かれています。」
「**意識(vijñānaṁ)**は、食(āhāra)を栄養として、次の生(punarbhava)の発生と出現のために続くものである。」
「では、それはどのような意識か。答えます。それは**ガンダルヴァ(gandharva)の最後の心(caramaṁ cittaṁ)である心識(manovijñānaṁ)です。詳しく言うと、胎内において肉塊(kalalam)が形成され、そこに命が宿るということです。これは形(rūpa)に属するものであり、感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、そしてそれに基づく識(vijñānaṁ)があります。これらは名(nāma)に属し、因果関係のない作意(ayoniśomanasikāra)を伴った名色を縁として母の胎内で触(sparśa)**が生じ、現れるのです。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼びます。」
「さらに、このことについては**仏陀(bhagavatā)がスヴァーティ比丘(svātiṁ bhikṣuṁ)**に関しても説かれました。」
「三つの要素が集合することで、母の胎内に胎児(garbha)が宿ることになります。詳細に述べると、因果関係のない作意(ayoniśomanasikāra)とともに名色(nāmarūpa)が生じ、それを縁として母の胎内に胎児が宿り、出現するのです。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼びます。」
「たとえば、ある人が**貪(rāga)、瞋(dveṣa)、痴(moha)**にとらわれている場合、身体で不善行為(duścaritaṁ)を行い、言葉や心でも不善行為を行います。これが形(rūpa)に属する不善行為であり、心による不善行為が名(nāma)に属するものです。このような不善な名色(akuśalaṁ nāmarūpaṁ)を縁として、苦しみが生じ(duḥkhodayaṁ)、苦の報い(duḥkhavipāka)を受ける結果として、身体の崩壊後に地獄(naraka)に生まれ変わります。そこで触(sparśa)が生じることになります。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼びます。」
「地獄(naraka)においても同様に、**動物(tiryak)や死者(preteṣu)**においても触(sparśa)が生じます。」
「たとえば、ある人が**人間界の幸福(manuṣyasukhakā)**を望んで、それに執着している場合、詳細に言うと、身体と言葉で善行(sucarita)を行うことは形(rūpa)に属します。心で善行を行うことは名(nāma)に属します。これが善なる名色(kuśalaṁ nāmarūpaṁ)であり、それを縁として触(sparśa)が生じることになります。このようにして触が発生するのです。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼びます。」
「人間界の幸福においても、他の天界(paranirmitavaśavarti)においても同様に触が生じます。」
「たとえば、ある人が**梵天界(brahmakāyikānāṁ devānām)**の神々を望んで、心がその欲望にとらわれている場合、詳細に言えば、その状態において身体の制御(kāyasaṁvaro)、言葉の制御(vāksaṁvara)、生活の清浄(ājīvapariśuddhi)が形(rūpa)に属し、それに基づく感覚(vedanā)、想い(saṁjñā)、形成作用(saṁskārā)、識(vijñānaṁ)が名(nāma)に属します。これが善なる名色(kuśalaṁ nāmarūpaṁ)であり、詳細に述べると、それを縁として触が生じるのです。これを『名色を縁として触(nāmarūpapratyayaḥ sparśaḥ)』と呼びます。」
「**梵天界の神々(brahmakāyikānāṁ)**においても、同様に、**無想天の生物(asaṁjñisatva)や広果天(bṛhatphalānāṁ)**に至るまで、名色を縁として触が生じます。」
「また、このことについては、**仏陀(bhagavatā)が大因縁経(mahānidānaparyāya)において阿難(āyuṣmate ānandāya)**に説かれたことがあります。」
「『阿難よ、触(sparśa)には縁(pratyaya)がある』ということです。詳細に述べると、『**喜びの形(ānandākāra)**やそれに対応する対象があるとき、名の体(nāmakāya)の認識(prajñapti)が生じる。これらの形や対象が無いときにも、**言葉による触(adhivacanasaṁsparśa)**が認識されるでしょうか?』と問われましたが、『いいえ、尊者(no bhadanta)』と答えました。」
「また、『喜びの形やそれに対応する対象があるとき、形の体(rūpakāya)の認識が生じる。これらの形や対象が無いときにも、**物理的な触(pratighasaṁsparśa)**が認識されるでしょうか?』と問われ、『いいえ、尊者』と答えました。」
「すべての存在が無いとき、再び『名の体(nāmakāya)や形の体(rūpakāya)が無い場合に、触(sparśa)や触の認識(sparśaprajñapti)が存在するでしょうか?』と問われましたが、『いいえ、尊者』と答えました。」
「したがって、『阿難よ、このことがその原因であり、縁である』という説明がなされ、これが私によって述べられたことに対する回答です。」