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サンスクリット語の上座部アビダルマをGPTsを構築して日本語訳「Dharmaskandha」③(7-9 / 19)
7. 六処縁触
要約
このテキストは「触(sparśa)」の概念に関する説明です。
ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśaḥ (六処縁触): 「六処(ṣaḍāyatana)」によって「触」が生じることを説明しています。
cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ (眼と色を縁として眼識が生じる): 眼と色の接触により、眼識が生じると述べています。
trayāṇāṁ saṁnipātaḥ sparśaḥ (三つの要素の集まりが触である): 触は眼、色、眼識の三つの要素の集まりであると説明されています。
同様に耳、鼻、舌、身体、意によっても触が生じるとしています。
このように、各感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)とそれに対応する対象との接触によって「触」が生じるプロセスが示されています。
翻訳
以下のパーリ語のテキストを、現代日本語に翻訳します。
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Dharmaskandha |
7. ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśaḥ |
(法蘊 |
7. 六処縁触)
trayāṇāṁ sannipātāc cakṣur ādhyātmikaṁ tathā
cakṣuṣṭo rūpataś caivaṁ na cakṣuṣṭo na rūpataḥ ||
(三つの要素の集まりから、眼という内的なもの、また眼によるもの、色と、これにより眼があるわけではないし、色があるわけでもない)
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日本語訳:
「三つの要素(眼・色・眼識)の集まりによって、内的な対象である『眼』が存在し、同様に外的な対象である『色』も存在します。しかし、眼があるからといって、必ずしも色があるわけではなく、また色があるからといって必ずしも眼があるわけでもありません。」
以下にパーリ語のテキストを日本語に翻訳します。
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ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśaḥ katama |
(六処縁触とは何か)
āha | cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ saṁnipātaḥ sparśaḥ |
(答えます。「眼」と「色」を縁として「眼識」が生じます。この三つの要素の集まりが「触」です。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamanaḥ pratītya dharmāṁś cotpadyate manovijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśas | tad ucyate ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」とそれぞれの対象である「法」を縁として「意識」が生じます。この三つの要素の集まりから「触」が生じます。これが「六処縁触」と呼ばれます。)
api khalu cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | tatra cakṣur ādhyātmikam āyatanaṁ rūpaṁ ca bāhyaṁ pratyayaṁ cakṣuḥsaṁsparśasya | tad ucyate ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti |
(さらに、「眼」を縁として「色」があり、「眼識」が生じます。この三つの要素の集まりが「触」であり、その中で「眼」は内的な領域、「色」は外的な縁となります。これが「眼の触」と呼ばれ、「六処縁触」と言われます。)
evaṁ śrotraṁ ghrāṇaṁ jihvā kāyo |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」も同様です。)
manaḥ pratītya dharmāṁś cotpadyate manovijñānaṁ | trayāṇāṁ saṁnipātāt sparśaḥ | tatra mana ādhyātmikam āyatanaṁ dharmāś ca bāhyaṁ pratyayaṁ manaḥsaṁsparśasya | tad ucyate ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti |
(「心」を縁として「法」があり、「意識」が生じます。この三つの要素の集まりが「触」であり、その中で「心」は内的な領域、「法」は外的な縁となります。これが「六処縁触」と呼ばれます。)
法蘊 | 8. 触縁受
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要約
要約すると、六処(眼・耳・鼻・舌・身体・心)とそれぞれの対象(色・声・香・味・触・法)を縁として、識(眼識など)が生じ、これら三つの要以下にパーリ語のテキストを日本語に翻訳します。
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api khalu cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | cakṣuṣṭo rūpataś ca cakṣurvijñānataḥ |
(さらに、「眼」を縁として「色」があり、「眼識」が生じます。この三つの要素の集まりが「触」です。「眼」「色」「眼識」の三つの要素によって触が成り立ちます。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamano vaktavyam |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」についても同じことが言えます。)
api khalu cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | tatra sacakṣu + + + + rūpāṇi na cakṣurvijñānaṁ | yā tv eṣā trayāṇāṁ dharmāṇāṁ saṁgatiḥ sannikarṣaḥ sannipātaḥ saṁsparśaḥ |
(さらに、「眼」を縁として「色」があり、「眼識」が生じます。この三つの要素の集まりが「触」です。ただし、眼と色だけでは眼識は成り立ちません。三つの要素(眼、色、眼識)の相互関係、接触、集まりが「触」であるとされています。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamano vaktavyaṁ |
(「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」についても同様に述べられます。)
manaḥ pratītya dharmāṁś cotpadyate manovijñānaṁ | yā tv eṣā trayāṇāṁ dharmāṇāṁ saṁgatiḥ sannikarṣaḥ samavāyaḥ saṁsparśaḥ tad ucyate ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa |
(「心」を縁として「法」があり、「意識」が生じます。三つの要素(心、法、意識)の結合、接触、集まりが「触」であり、これが「六処縁触」と呼ばれます。)
iti sparśaḥ ṣaḍāyatanam āgamya ṣaḍāyatanaṁ niśritya ṣaḍāyatanaṁ pratiṣṭhāya utpadyate samutpadyate jāyate saṁjāyate nirvartayaty abhinirvartayati samudāgacchati prādurbhavati | ayam ucyate ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti |
(このように、「触」は六処に依存し、それを基盤として生起します。「触」は現れ、存在し、完結し、完全に成り、明確に現れます。これが「六処縁触」と呼ばれます。)
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この翻訳では、「六処縁触(ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa)」の概念が説明されています。各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)とそれぞれの対象(色、声、香、味、触、法)を縁として識(眼識など)が生じ、これら三つの要素(感覚器官、対象、識)が集まることで「触」が成り立つとされています。
素の集まりから「触」が生じると説明されています。
このテキストは、「触(sparśa)」が「受(vedanā)」を生じさせるプロセスに関する説明です。
sparśapratyayā vedanā (触縁受): 「触」を縁として「受」が生じることを説明しています。
trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ (三つの要素の集まりが触である): 眼・色・眼識など三つの要素の集まりから「触」が生じ、それが「受」を生じさせます。
三種類の受:
sukhavedanīyaḥ (楽受): 楽の感覚を伴う触が「楽受」を生じさせる。
duḥkhavedanīyaḥ (苦受): 苦の感覚を伴う触が「苦受」を生じさせる。
aduḥkhāsukhavedanīyaḥ (不苦不楽受): 苦でも楽でもない感覚の触が「不苦不楽受」を生じさせる。
例示: 眼、耳、鼻、舌、身体、心それぞれに対応する対象により、識が生じ、その結果「触」が生じ、さらに「受」が生じるというプロセスが述べられています。
引用: 仏陀がアーナンダに対して語った内容が引用されており、「触」がなければ「受」は生じないことが強調されています。
以下のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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Dharmaskandha |
8. sparśapratyayā vedanā |
(法蘊 | 8. 触縁受)
trayāṇāṁ sannipātāj jāyate yā hi vedanā
sukhavedanīyaḥ sparśaḥ ghoṣilānanda eva ca ||
(三つの要素の集まりから生じる「受(vedanā)」について、楽受を生じさせる触について説明する。これはゴーシラとアーナンダに伝えられた。)
uddānaṁ ||
(要約)
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日本語訳:
「法蘊(Dharmaskandha)の第8節では、『触を縁として受が生じる』という教えが述べられています。三つの要素(感覚器官、対象、識)の集まりによって生じる『受』が説明され、その中でも『楽受』を生じさせる触に関する内容がゴーシラとアーナンダに伝えられています。」
以下にパーリ語のテキストを現代日本語に翻訳します。
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sparśapratyayā vedanā katamā |
(触を縁として生じる受とは何か)
āha | cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | sparśapratyayā vedanā |
(答えます。「眼」と「色」を縁として「眼識」が生じます。この三つの要素(眼、色、眼識)の集まりから「触」が生じます。「触」を縁として「受」が生じるのです。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamanaḥ pratītya dharmāṁś cotpadyate manovijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | sparśapratyayā vedanā |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」とそれぞれの対象である「法」を縁として「意識」が生じます。この三つの要素の集まりから「触」が生じ、「触」を縁として「受」が生じます。)
api khalu cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ sukhavedanīyo duḥkhavedanīyo ’duḥkhāsukhavedanīyaḥ |
(さらに、「眼」と「色」を縁として「眼識」が生じ、この三つの要素の集まりが「触」を生じさせます。「触」には楽受、苦受、不苦不楽受の三つの種類があります。)
tat khalu sukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate sukhā vedanā | sukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate duḥkhā vedanā |
(楽受を生じさせる触を縁として「楽受」が生じ、楽受を生じさせる触を縁として「苦受」が生じます。)
aduḥkhāsukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate duḥkhā vedanā | aduḥkhāsukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate aduḥkhāsukhā vedanā |
(苦でも楽でもない触を縁として「苦受」が生じ、苦でも楽でもない触を縁として「不苦不楽受」が生じます。)
tad ucyate sparśapratyayā vedanā |
(これが「触を縁として生じる受」と呼ばれます。)
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この翻訳は、「触(sparśa)」が「受(vedanā)」を生じさせるプロセスについて説明しています。各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)とその対象が接触することで「識」が生じ、三つの要素が集まることで「触」が生じ、その「触」を縁として「受」が生じるとしています。「受」には楽受、苦受、不苦不楽受の三つの種類があり、以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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api khalv evam uktam āyuṣmatā ānandena ghoṣilasya gṛhapater |
(さらに、このように尊者アーナンダがゴーシラという家主に述べました。)
anyo ca gṛhapate cakṣurdhātur anyo rūpadhātur anyaś cakṣurvijñānadhātuḥ |
(家主よ、「眼の要素」は別のものであり、「色の要素」も別、「眼識の要素」もまた別のものです。)
sukhavedanīyaṁ gṛhapate dvayaṁ pratītya vijñānasyotpādo bhavati | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | tat khalu sukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate sukhā vedanā |
(家主よ、「楽受を生じさせる」2つの要素を縁として、識が生じます。そして三つの要素の集まりによって「触」が生じます。その「楽受を生じさせる触」を縁として「楽受」が生じます。)
anya eva yāvad | duḥkhavedanīyaṁ gṛhapate dvayaṁ pratītya vijñānasyotpādo bhavati | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ duḥkhavedanīyaḥ | tat khalu duḥkhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate duḥkhā vedanā |
(他の例として、家主よ、「苦受を生じさせる」2つの要素を縁として識が生じます。そして三つの要素の集まりによって「苦受を生じさせる触」が生じます。その「苦受を生じさせる触」を縁として「苦受」が生じます。)
anya eva yāvad | aduḥkhāsukhavedanīyaṁ gṛhapate dvayaṁ pratītya vijñānasyotpādo bhavati | trayāṇāṁ sannipātaḥ sparśaḥ aduḥkhāsukhavedanīyaḥ | tat khalv aduḥkhāsukhavedanīyaṁ sparśaṁ pratītyotpadyate aduḥkhāsukhā vedanā |
(さらに、家主よ、「不苦不楽受を生じさせる」2つの要素を縁として識が生じます。そして三つの要素の集まりによって「不苦不楽受を生じさせる触」が生じます。その「不苦不楽受を生じさせる触」を縁として「不苦不楽受」が生じます。)
anya eva gṛhapate śrotraghrāṇajihvākāyamanodhātur anyo dharmadhātur anyo manovijñānadhātuḥ |
(同様に、家主よ、「耳の要素」「鼻の要素」「舌の要素」「身体の要素」「心の要素」もそれぞれ別であり、「法の要素」もまた別で、「意識の要素」も別のものです。)
sukhavedanīyaṁ gṛhapate dvayaṁ pratītya vistareṇa yathā pūrvoktaṁ | tad ucyate sparśapratyayā vedanā |
(家主よ、「楽受を生じさせる」2つの要素を縁として、詳細に前述された通りです。これが「触を縁として生じる受」と呼ばれます。)
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この翻訳では、三つの要素(感覚器官、対象、識)の相互関係により生じる「触」が「受(vedanā)」を生じさせるプロセスが説明されています。楽受、苦受、不苦不楽受の三つの異なる種類の受が、そ以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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api khalv evam uktaṁ bhagavatā mahānidānaparyāyesmin vyākaraṇe āyuṣmate ānandāya |
(また、尊者アーナンダに対して、仏陀が『大因縁経(Mahānidāna-sūtra)』の中で次のように述べられました。)
asti pratyayam ānanda vedanā vistareṇa yāvac |
(アーナンダよ、「受(vedanā)」は縁によって生じるものであると述べられています。)
cakṣuḥsaṁsparśaś ced ānanda nābhaviṣyad api nu cakṣuḥsaṁsparśapratyayam adhyātmam utpadyeta sukhaṁ vā duḥkhaṁ vā aduḥkhāsukhaṁ vā | no bhadanta |
(アーナンダよ、もし「眼の触(cakṣuḥsaṁsparśa)」が存在しなければ、内的に眼の触を縁として生じる「楽」も「苦」も「不苦不楽」も起こることはあるでしょうか?いいえ、尊者。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamahaḥsaṁsparśaḥ ced ānanda nābhaviṣyad api nu manaḥsaṁsparśapratyayam adhyātmaṁ utpadyeta veditaṁ sukhaṁ vā duḥkhaṁ vā aduḥkhāsukhaṁ vā | no bhadanta |
(同様に、アーナンダよ、もし「耳、鼻、舌、身体、心の触」が存在しなければ、それを縁として内的に「楽」も「苦」も「不苦不楽」も起こることはあるでしょうか?いいえ、尊者。)
sarvaśo vā ānanda sparśe asati vedanā prajñāyeta | no bhadanta |
(また、アーナンダよ、触がなければ、「受(vedanā)」が生じることはあるでしょうか?いいえ、尊者。)
tasmād dhy ānandaitan nidānaṁ vistareṇa yāvad | idaṁ mayā yad uktam idaṁ tat pratyuktaṁ ||
(したがって、アーナンダよ、このことが因(nidāna)であることを詳細に説明したのです。これが私が述べたことに対する返答です。)
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この翻訳では、仏陀がアーナンダに対して、「触(sparśa)」が存在しなければ「受(vedanā)」が生じることはない、という因果関係について説明しています。各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)による触がなければ、それに対応する受(楽、苦、不苦不楽)は生じないとされています。この教えは、縁起の法則に基づき、「触」が「受」の生起に不可欠であることを示しています。
れぞれ異なる触を縁として生じることが述べられています。
それぞれの触によって異なる感覚が生じると述べています。
9. 受縁渇愛
要約
このテキストは、「受(vedanā)」を縁として「渇愛(tṛṣṇā)」が生じるプロセスについて説明しています。
vedanāpratyayā tṛṣṇā (受縁渇愛): 「受」が「渇愛」を引き起こすことが述べられています。
三つの要素の集まりと「受」: 各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)とその対象により識が生じ、その三つの要素(感覚器官、対象、識)の集まりによって「触(sparśa)」が生じ、次に「受」が生じ、最終的に「渇愛」が生じると説明されています。
感覚と渇愛の関係: たとえば、眼と色を縁として眼識が生じ、それにより「触」が発生し、さらに「受」が発生します。続いて、その「受」を基に「渇愛」が生じることが述べられています。
「楽受」「苦受」「不苦不楽受」: 楽な感覚(楽受)や苦しい感覚(苦受)、どちらでもない感覚(不苦不楽受)が「触」を通じて生じ、それぞれに応じて渇愛が起こるプロセスが繰り返し説明されています。
仏陀の教えの引用: 仏陀がアーナンダや他の弟子たちに語った内容が引用されています。「感覚(眼、耳など)が楽しいと感じることがあれば、それに基づいて渇愛が生じる」と述べられています。
感覚器官と識の結合: 各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)の感覚とその対象により、認識が起こり、そこから「受」が生じ、それに基づいて「渇愛」が生じるという因果関係が強調されています。
要約すると、テキスト全体を通して「受」から「渇愛」への生起過程が詳細に説明されており、これは縁起の法則に基づく重要な教えです。
翻訳
以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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Dharmaskandha |
9. vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(法蘊 | 9. 受縁渇愛)
uddānaṁ ||
(要約)
cakṣuḥ pratītyāsvādaṁ dvau skandhau āyatanau
(眼を縁とする楽しみ、二つの蘊と処)
guhyenāparadvayaṁ mahānāmā licchaviś caiva
(秘密の他の二つ、マハーナーマとリッチャヴィについても)
nidānaṁ pūrṇamāsikaṁ ||
(満月の因縁)
---
日本語訳:
「法蘊の第9節では、『受を縁として渇愛が生じる』という教えが述べられています。要約として、眼を縁として楽しみを求めること、二つの蘊と処、秘密の他の二つの要素、マハーナーマとリッチャヴィについて言及し、また、満月に関する因縁についても語られています。」
以下にテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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vedanāpratyayā tṛṣṇā katamā |
(受を縁として生じる渇愛とは何か)
āha | cakṣuḥ pratītya rūpāṇi cotpadyate cakṣurvijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātaḥ sparśaḥ | sparśapratyayā vedanā | vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(答えます。「眼」と「色」を縁として「眼識」が生じます。この三つの要素(眼、色、眼識)の集まりから「触(sparśa)」が生じ、「触」を縁として「受(vedanā)」が生じ、「受」を縁として「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamanaḥ pratītya dharmāṁś cotpadyate manovijñānaṁ | trayāṇāṁ sannipātāt sparśaḥ | sparśapratyayā vedanā | vedanāpratyayā tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」とそれぞれの対象である「法」を縁として「意識(manovijñāna)」が生じます。この三つの要素の集まりから「触」が生じ、「触」を縁として「受」が生じ、「受」を縁として「渇愛」が生じます。これを「受を縁として生じる渇愛」と呼びます。)
api khalu cakṣurāsvādaṁ vedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyaś cakṣuṣi apratikūlatā saṁtiṣṭhate | apratikūle sati bhūyo bhūyaś cakṣuṣi utpadyate rāgaḥ saṁrāgaḥ ālayo niyantir adhyavasānaṁ tṛṣṇā |
(さらに、「眼の楽しみ(āsvāda)を感じる」ことを縁として、再び「眼」に対する反発しない(つまり好ましい)気持ちが定着します。反発がなければ、再び「眼」に対する「愛着(rāga)」や「染着(saṁrāga)」、「執着(ālaya)」、「制御(niyanti)」、そして「確定した意志(adhyavasāna)」が生じ、「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamanaḥāsvādaṁ vedayitavyṁ pratītya bhūyo bhūyo manasi apratikūlatā saṁtiṣṭhate | apratikūle sati bhūyo bhūyo manasy utpadyate rāgaḥ saṁrāgaḥ ālayo niyantir adhyavasānaṁ vā tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣnā |
(同様に、「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」の楽しみ(āsvāda)を感じることを縁として、再び「心」に対して反発しない気持ちが定着します。反発がなければ、再び「心」に対する「愛着」、「染着」、「執着」、「制御」、そして「確定した意志」が生じ、「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
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この翻訳では、「受(vedanā)」が「渇愛(tṛṣṇā)」を引き起こすプロセスについて詳細に説明しています。各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)による楽しみを感じることで、それに対する執着や渇愛が生じると述べられています。この渇愛は、縁起の法則に基づき、感覚の経験から生じるものです。
以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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api khalv evam uktaṁ bhagavatā paṁcopādānaskandhike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『五取蘊に関する教え』において語られました。)
rūpasyāhaṁ bhikṣavaḥ āsvādaparyeṣaṇām acārṣaṁ | yo rūpe āsvādas tam anvabhotsyaṁ yāvad rūpe āsvādaḥ prajñayā me sudṛṣṭa |
(比丘たちよ、私は「色(rūpa)」に関して、その楽しみ(āsvāda)を追求しました。その「色」にある楽しみを私は理解しました。それが色の楽しみであり、私には智慧(prajñā)をもって見定められたものでした。)
ity etad rūpāsvādaṁ vedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyo rūpe apratikūlatā saṁtiṣṭhate |
(こうして、この「色の楽しみ」を感じることを縁として、再び「色」に対する反発しない(好ましい)気持ちが定着します。)
apratikūle sati bhūyo bhūyo rūpe utpadyate rāgaḥ saṁrāgaḥ ālayo niyantir adhyavasānaṁ tṛṣṇā |
(反発がなければ、再び「色」に対する「愛着(rāga)」、「染着(saṁrāga)」、「執着(ālaya)」、「制御(niyanti)」、「確定した意志(adhyavasāna)」が生じ、「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛(tṛṣṇā)」と呼ばれます。)
evaṁ vedanāyāḥ saṁjñāyāḥ saṁskārāṇāṁ |
(同様に、「受(vedanā)」、「想(saññā)」、「行(saṁskāra)」についても同じことが言えます。)
---
この翻訳では、仏陀が「五取蘊(pañcūpādānakkhandha)」のうちの「色」に関して、その楽しみを追求した経験を語っています。「色」の楽しみを感じることによって「渇愛(tṛṣṇā)」が生じ、その過程には愛着、執着、確定した意志などが関わることが説明されています。また、他の取蘊(受、想、行)についても同様のメカニズムで「渇愛」が生じると述べられています。この教えは、渇愛の生起とその原因について理以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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vijñānasyāhaṁ bhikṣavaḥ āsvādaparyeṣaṇām acārṣaṁ | yo vijñāne āsvādas tam anvabhotsyaṁ yāvad vijñāne āsvādaḥ prajñayā me sudṛṣṭa |
(比丘たちよ、私は「識(vijñāna)」に関して、その楽しみ(āsvāda)を追求しました。その「識」にある楽しみを私は理解しました。それが識の楽しみであり、私には智慧(prajñā)をもって見定められたものでした。)
ity etad vijñānāsvādaṁ vedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyo vijñāne apratikūlatā saṁtiṣṭhate |
(こうして、この「識の楽しみ」を感じることを縁として、再び「識」に対する反発しない(好ましい)気持ちが定着します。)
apratikūle sati bhūyo bhūyo vijñāne utpadyate rāgaḥ saṁrāgaḥ ālayo niyantir adhyavasānaṁ tṛṣṇā |
(反発がなければ、再び「識」に対する「愛着(rāga)」、「染着(saṁrāga)」、「執着(ālaya)」、「制御(niyanti)」、「確定した意志(adhyavasāna)」が生じ、「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛(tṛṣṇā)」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā paṁcopādānaskandhike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『五取蘊に関する教え』において語られました。)
rūpe ced bhikṣava āsvādo na bhaven neme satvā rūpe saṁrajyeran | yasmāt tu bhikṣavo ’sti rūpe āsvādaḥ teneme satvā rūpe saṁrajyante |
(比丘たちよ、もし「色(rūpa)」に楽しみがなければ、これらの生きとし生けるものは「色」に染着しないでしょう。しかし、比丘たちよ、「色」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「色」に染着します。)
ity etad rūpāsvādaṁ vedayitam pratītya bhūyo vistareṇa yāvad utpadyate tṛṣṇā |
(こうして、「色の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
---
この翻訳では、「識(vijñāna)」および「色(rūpa)」に対する楽しみが「渇愛(tṛṣṇā)」を生じさせるプロセスについて仏陀の教えが語られています。識や色に楽しみを見出すことで、反発のない好ましい気持ちが生じ、それが執着や染着、渇愛へとつながります。この教えは「五取蘊(pañcūpādānakkhandha)」に基づいており、物事への執着が以下にテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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vedanāyāṁ saṁjñāyāṁ saṁskāreṣu
(受、想、行に関して)
vijñāne ced bhikṣavaḥ āsvādo na bhaven neme satvā vijñāne saṁrajyeran | yasmāt tu bhikṣavo ’sti vijñāne āsvādas tasmād ime satvā vijñāne saṁrajyante |
(比丘たちよ、もし「識(vijñāna)」に楽しみ(āsvāda)がなければ、これらの生きとし生けるものは「識」に染着することはないでしょう。しかし、比丘たちよ、「識」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「識」に染着します。)
ity etad vijñānāsvādavedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyo vistareṇa yāvad utpadyate tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(こうして、「識の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が繰り返し生じるのです。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā ṣaḍāyatanike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『六処に関する教え』において述べられました。)
cakṣuṣo ’haṁ bhikṣava āsvādaparyeṣaṇām acārṣaṁ | yaś cakṣuṣi āsvādas tam anvabhotsyan | yāvāṁś cakṣuṣy āsvādaḥ prajñayā me sa sudṛṣṭaḥ |
(比丘たちよ、私は「眼(cakṣu)」に関して、その楽しみを追求しました。その「眼」にある楽しみを理解し、それを智慧(prajñā)をもってしっかりと見定めました。)
ity etac cakṣuṣa āsvādaṁ vedayitaṁ pratītya bhūyo vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「眼の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvākāyamanaso ’haṁ bhikṣavaḥ āsvādaparyeṣaṇām acārṣaṁ | yo manasy āsvādas taṁ anvabhotsyaṁ yāvan manasy āsvādaḥ prajñayā me sa sudṛṣṭa |
(同様に、比丘たちよ、私は「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」に関しても、その楽しみを追求しました。「心」にある楽しみを理解し、それを智慧をもってしっかりと見定めました。)
ity etan manasa āsvādavedayitaṁ pratītya bhūyo vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「心の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā ṣaḍāyantike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『六処に関する教え』において述べられました。)
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この翻訳では、仏陀が「識(vijñāna)」や「眼(cakṣu)」、その他の感覚器官に対する楽しみが「渇愛(tṛṣṇā)」を引き起こすプロセスについて説明しています。各感覚(眼、耳、鼻、舌、身体、心)に楽しみを見出し、それに対して執着することで、さらなる渇愛が生じると述べられています。この教えは、物事への執着が渇愛を生以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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cakṣuṣi bhikṣava āsvādaś cen na bhaven neme satvāś cakṣuṣi saṁrajyeran |
(比丘たちよ、もし「眼(cakṣu)」に楽しみ(āsvāda)がなければ、これらの生きとし生けるものは「眼」に染着することはないでしょう。)
yasmād bhikṣavaḥ asti cakṣuṣv āsvādas tasmād ime satvāś cakṣuṣi saṁrajyante |
(しかし、比丘たちよ、「眼」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「眼」に染着します。)
ity etac cakṣurāsvādaṁ vedayitaṁ vistareṇa pratītya yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「眼の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
evaṁ śrotraghrāṇajihvāyāṁ kāyemanasi ced bhikṣavaḥ āsvādo na bhaven neme satvā manasi saṁrajyeran |
(同様に、比丘たちよ、もし「耳」「鼻」「舌」「身体」「心」に楽しみがなければ、これらの生きとし生けるものは「心」に染着することはないでしょう。)
yasmāt tu bhikṣavo ’sti manasy āsvādas tasmād ime satvā manasi saṁrajyante |
(しかし、比丘たちよ、「心」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「心」に染着します。)
ity etan manasa āsvādavedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyo manasy apratikūlatā saṁtiṣṭhate | vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「心の楽しみ」を感じることを縁として、再び「心」に対する反発しない気持ちが定着し、さらに詳細に「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā ṣaḍāyatanike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『六処に関する教え』において述べられました。)
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この翻訳では、仏陀が「眼(cakṣu)」や「心(manas)」に対する楽しみ(āsvāda)が「渇愛(tṛṣṇā)」を生じさせるプロセスについて説明しています。各感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、心)に楽しみを見出すことで、それに対する染着が生じ、さらに「渇愛」が生じると述べられています。仏陀は、これらの楽しみに対する執着が渇愛を生む因果関係について以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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rūpasyāhaṁ bhikṣavaḥ āsvādaparyeṣaṇām acārṣam | yo rūpe āsvādas tam anvabhotsyaṁ yāvad rūpe āsvādaḥ prajñayā me sa sudṛṣṭaḥ |
(比丘たちよ、私は「色(rūpa)」に関して、その楽しみ(āsvāda)を追求しました。その「色」にある楽しみを理解し、それを智慧(prajñā)をもってしっかりと見定めました。)
ity etad rūpāsvādavedayitaṁ pratītya yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「色の楽しみ」を感じることを縁として「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
evaṁ śabdagandharasasparśadharmāṇām ahaṁ bhikṣava āsvādaparyeṣaṇām acārṣaṁ | yo dharme āsvādas taṁ anvabhotsyaṁ | yāvān dharmeṣv āsvādaḥ prajñayā me sa sudṛṣṭaḥ |
(同様に、比丘たちよ、「音(śabda)」「香(gandha)」「味(rasa)」「触(sparśa)」「法(dharma)」に関しても、私はその楽しみを追求しました。それぞれの対象にある楽しみを理解し、それを智慧をもってしっかりと見定めました。)
ity etad dharmāsvādavedayitaṁ pratītya vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「法の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā ṣaḍāyatanike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『六処に関する教え』において述べられました。)
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この翻訳では、仏陀が「色(rūpa)」や「音(śabda)」「香(gandha)」「味(rasa)」「触(sparśa)」「法(dharma)」といった六処に対する楽しみ(āsvāda)が「渇愛(tṛṣṇā)」を生じさせるプロセスについて説明しています。これらの感覚対象に楽しみを見出すことで、それに対する渇愛が生じるという因果関係が示されています。仏陀は、それぞれの楽しみを智慧をもって見定めることが重要であると述べています。この教えは、物事への執着がどのように渇愛を生むのかを理解するためのものであり、縁起の法則に以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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rūpe ced bhikṣava āsvādo na bhaven neme satvā rūpe saṁrajyeran |
(比丘たちよ、もし「色(rūpa)」に楽しみ(āsvāda)がなければ、これらの生きとし生けるものは「色」に染着することはないでしょう。)
yasmāt tu bhikṣavo ’sti rūpe āsvādas tasmād ime satvā rūpe saṁrajyante |
(しかし、比丘たちよ、「色」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「色」に染着します。)
ity etad rūpāsvādavedayitaṁ pratītya vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「色の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
evaṁ śabde gandhe rase spraṣṭavye dharme ced bhikṣava āsvādo na bhaven neme satvā dharme saṁrajyeran |
(同様に、比丘たちよ、もし「音(śabda)」「香(gandha)」「味(rasa)」「触(spraṣṭavya)」「法(dharma)」に楽しみがなければ、これらの生きとし生けるものは「法」に染着することはないでしょう。)
tasmāt tu bhikṣavo ’sti dharmeṣv āsvādas | teneme satvā dharme saṁrajyante |
(しかし、比丘たちよ、「法」に楽しみがあるため、これらの生きとし生けるものは「法」に染着します。)
ity etad dharmāsvādaṁ pratītya vedayitaṁ vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「法の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā mahānāmānaṁ licchavim āgamya |
(また、このように仏陀がマハーナーマ・リッチャヴィに語られました。)
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この翻訳では、「色(rūpa)」や「音(śabda)」「香(gandha)」「味(rasa)」「触(spraṣṭavya)」「法(dharma)」に対する楽しみが、どのように「渇愛(tṛṣṇā)」を引き起こすかについて仏陀の教えが説明されています。それぞれの対象に楽しみを見出すことで、それに対する染着が生じ、それが「渇愛」へとつながるという因果関係が示されています。仏陀は、マハーナーマ・リッチャヴィに対してもこの教えを説き、物事への楽し以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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rūpaṁ cen mahānāmann ekāntaduḥkhaṁ bhaven na sukhaṁ na sukhānugataṁ na sukhasaumanasyaparītam avakrāntam eva sukhena hetur api mahānāman na prajñāyeta satvānāṁ rūpe saṁrāgāya na ceme satvā rūpe saṁrajyeran |
(マハーナーマよ、もし「色(rūpa)」が一方的に苦であり、楽しみ(sukha)がなく、喜びに伴う幸福や満足に包まれることもなければ、マハーナーマよ、それが生きとし生けるものの「色」への染着の原因となることもなく、これらの生きとし生けるものが「色」に染着することもないでしょう。)
yasmāt tu mahānāman rūpaṁ naikāntaduḥkhaṁ sukhaṁ sukhānugataṁ sukhasaumanasyaparītam avakrāntam eva sukhena tasmād ime satvā rūpe saṁrajyante saṁraktāḥ saṁyujyante saṁyuktāḥ saṁkliṣyante |
(しかし、マハーナーマよ、「色」は一方的に苦であるわけではなく、楽しみもあり、喜びに伴う幸福や満足に包まれることがあるため、これらの生きとし生けるものは「色」に染着し、執着し、結びつき、苦しむのです。)
ity etad rūpāsvādavedayitaṁ pratītya vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「色の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
vedanā saṁjñā saṁskārā vijñānaṁ cen mahānāmann ekāntaduḥkhaṁ bhaven na sukhaṁ na sukhānugataṁ na sukhasaumanasyaparītam avakrāntaṁ caiva sukhena hetur api mahānāman na prajñāyeta sattvānāṁ vijñāne saṁrāgāya na ceme satvā vijñāne saṁrajyeran |
(マハーナーマよ、もし「受(vedanā)」「想(saññā)」「行(saṁskāra)」「識(vijñāna)」が一方的に苦であり、楽しみがなく、喜びに伴う幸福や満足に包まれることがなければ、それが生きとし生けるものの「識」への染着の原因となることもなく、これらの生きとし生けるものが「識」に染着することもないでしょう。)
yasmāt tu mahānāman vijñānaṁ naikāntaduḥkhaṁ sukhaṁ sukhānugataṁ sukhasaumanasyaparītaṁ anavakrāntam eva sukhena tasmād ime satvā vijñāne saṁrajyante saṁraktāḥ saṁyujyante saṁyuktāḥ saṁkliṣyante |
(しかし、マハーナーマよ、「識」は一方的に苦であるわけではなく、楽しみもあり、喜びに伴う幸福や満足に包まれることがあるため、これらの生きとし生けるものは「識」に染着し、執着し、結びつき、苦しむのです。)
ity etad vijñānāsvādavedayitaṁ pratītya vistareṇa yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「識の楽しみ」を感じることを縁として、さらに詳細に「渇愛」が生じます。これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā paurṇamāsike vyākaraṇe |
(また、このように仏陀が『満月に関する教え』において述べられました。)
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この翻訳では、「色(rūpa)」や「識(vijñāna)」などの対象に楽しみがあることが「渇愛(tṛṣṇā)」を引き起こす原因であると説明しています。仏陀は、これらの対象が一方的に苦だけではなく、楽しみや喜びを伴うことがあるために、これらの対象に染着し、執着し、最終的に苦しみへとつながると述べています。これは「受を縁として生じる渇愛」という縁起の法則に基づく教えであり、執着がどのよ以下にパーリ語のテキストを現代日本語に完全に翻訳します。
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yad bhikṣavo rūpaṁ pratītyotpadyate sukham utpadyate saumanasyam ayaṁ rūpe āsvādaḥ |
(比丘たちよ、「色(rūpa)」を縁として楽しみ(sukha)が生じ、満足感(saumanasya)が生じること、これが「色の楽しみ(āsvāda)」です。)
ity etad rūpāsvādavedayitaṁ pratītya yāvat tṛṣṇā | tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(この「色の楽しみ」を感じることを縁として「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。これが「受(vedanā)を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
yad bhikṣavo vedanāsaṁjñāsaṁskārān yad vijñānaṁ pratītyotpadyate sukham utpadyate saumanasyam ayaṁ vijñāne āsvāda |
(比丘たちよ、「受(vedanā)」「想(saññā)」「行(saṁskāra)」を縁として「識(vijñāna)」が生じ、楽しみ(sukha)が生じ、満足感が生じること、これが「識の楽しみ(āsvāda)」です。)
ity etad vijñānāsvādavedayitaṁ pratītya bhūyo bhūyo vijñāne apratikūlatā saṁtiṣṭhate |
(この「識の楽しみ」を感じることを縁として、何度も「識」に対する反発しない(好ましい)気持ちが定着します。)
apratikūle sati bhūyo bhūyo vijñāne utpadyate rāgaḥ saṁrāgaḥ ālayo niyantir adhyavasānam tṛṣṇā |
(反発しない状態にあるならば、繰り返し「識」に対する「愛着(rāga)」、「染着(saṁrāga)」、「執着(ālaya)」、「制御(niyanti)」、「確定した意志(adhyavasānam)」が生じ、「渇愛(tṛṣṇā)」が生じます。)
tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā |
(これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
api khalv evam uktaṁ bhagavatā mahānidānaparyāye āyuṣmaty ānande |
(また、このように仏陀が『大因縁経(Mahānidāna Sutta)』において尊者アーナンダに語られました。)
tatrānanda yā ca bhavatṛṣṇā yā ca vibhavatṛṣṇā itīme dve tṛṣṇādvayena vedanāsamavasaraṇe bhavataḥ |
(アーナンダよ、「存在への渇愛(bhavatṛṣṇā)」および「非存在への渇愛(vibhavatṛṣṇā)」、これら二つの渇愛が「受(vedanā)」に基づいて生じるのです。)
tad ucyate vedanāpratyayā tṛṣṇā ||
(これが「受を縁として生じる渇愛」と呼ばれます。)
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この翻訳では、「色(rūpa)」や「識(vijñāna)」を縁として楽しみ(āsvāda)が生じ、それが「渇愛(tṛṣṇā)」につながる過程を説明しています。仏陀は「受」を縁として「存在への渇愛(bhavatṛṣṇā)」と「非存在への渇愛(vibhavatṛṣṇā)」が生じることについても述べています。これらの教えは、「楽しみ」から始まり、それが「執着」と「渇愛」につながるという因果の流れ、すなわち縁起の法則を示しています。
うにして苦しみを生じさせるかを理解するためのものです。
みが執着と渇愛を生む原因であることを理解させています。
基づいたものであることが強調されています。
理解を促しており、これは縁起の法則に基づいた教えです。
むプロセスを理解するためのものであり、縁起の法則に基づいています。
どのように渇愛を引き起こすかを理解するためのものです。
解するためのもので、縁起の法則に基づいています。