成唯識論卷第一


成唯識論卷第一

原文

  成唯識論卷第一
  護法等菩薩造
  三藏法師玄奘奉  詔譯
稽首唯識性。滿分清淨者。我今釋彼説。利樂諸有情。今造此論爲於二空有迷謬者生正解故。生解爲斷二重障故。由我法執二障具生。若證二空彼障隨斷。斷障爲得二勝果故。由斷續生煩惱障故證眞解脱。由斷礙解所知障故得大菩提。又爲開示謬執我法迷唯識者。令達二空。於唯識理如實知故。復有迷謬唯識理者。或執外境如識非無。或執内識如境非有。或執諸識用別體同。或執離心無別心所。爲遮此等種種異執。令於唯識深妙理中得如實解故作斯論。若唯有識。云何世間及諸聖教。説有我法。

護法菩薩らの著述 / 三蔵法師 玄奘の訳


私は唯識の真理に敬意を表し、完全で清らかな悟りの性質を持つ方々に深く帰依します。そして今、彼らの教えを解釈し、一切の有情(生命あるもの)に利益と喜びをもたらすために、この論を作ります。

この論を著す理由は、「二空」(人無我と法無我)について誤解や迷いを抱える者たちに、正しい理解を生じさせるためです。その正しい理解を得ることで、「二重の障害」(煩悩障と所知障)を断ち切ることができます。


1. 二空と障害の関係

  • 障害の根源: 私たちは、「我」と「法」に対する執着によって、煩悩障と所知障という二重の障害を生じさせます。

  • 二空の証悟: 二空を証悟することで、これらの障害が随従して断ち切られます。

  • 障害を断つ目的:

    • 煩悩障の連続的な生起を断つことで、真実の解脱(涅槃)を得る。

    • 所知障の解明を妨げる要因を取り除くことで、最高の悟り(大菩提)を得る。


2. 唯識の教えの必要性

また、この論を造るもう一つの目的は、「我」と「法」という執着に誤ってとらわれ、「すべては心の現れである」という唯識の理を理解し損なっている者たちに、二空を明らかに示すためです。そして、彼らが唯識の理を正しく理解できるように導くことを目指します。


3. 誤解された唯識への対処

さらに、唯識の理に迷いや誤解を抱える人々が存在します。その中には以下のような考え方を持つ者がいます:

  1. 外境が識と同じように存在するとする者。

  2. 内なる識が外の対象(外境)のように存在しないとする者。

  3. 諸識(様々な識の働き)の作用を別々でありながら同一の実体だとする者。

  4. 心(意識)から離れて別の「心所」(心の作用)が存在しないとする者。

このような種々の誤った考え方を遮断し、唯識の深遠で微妙な理論について、如実に(正確に)理解させることを目的として、この論を造りました。


4. 世間の見解と唯識の関係

さて、「唯識のみが存在する」と述べた場合、次のような疑問が生じるかもしれません。「それならば、世間や聖なる教え(仏典)の中で、どうして『我』や『法』があると説かれているのか?」

この問いについても、この論において詳しく解明していきます。


このように、本論は、唯識の教えを理解するための道筋を明確にし、誤解を解消することを目指しています。

原文

頌曰
    由假説我法 有種種相轉    
    彼依識所變 此能變唯三    
    謂異熟思量 及了別境識
論曰。世間聖教説有我法。但由假立非實有性。我謂主宰。法謂軌持。彼二倶有種種相轉。我種種相。謂有情命者等。預流一來等。法種種相。謂實徳業等。蘊處界等。轉謂隨縁施設有異。如是諸相若由假説依何得成。彼相皆依識所轉變而假施設。識謂了別此中識言亦攝心所。定相應故。變謂識體轉似二分。相見倶依自證起故。依斯二分施設我法。彼二離此無所依故。或復内識轉似外境。我法分別熏習力故。諸識生時變似我法。此我法相雖在内識而由分別似外境現。諸有情類無始時來。縁此執爲實我實法。如患夢者患夢力故心似種種外境相現。縁此執爲實有外境。愚夫所計實我實法都無所有。但隨妄情而施設故説之爲假。内識所變似我似法。雖有而非實我法性。然似彼現故説爲假。外境隨情而施設故非有如識。内識必依因縁生故非無如境。由此便遮増減二執。境依内識而假立故唯世俗有。識是假境所依事故亦勝義有

頌(詩句)

由假説我法
有種種相轉
彼依識所變
此能變唯三
謂異熟思量
及了別境識


論(解説)

1. 我法の仮設とその性質

世間や聖教において「我」や「法」が存在すると説かれていますが、それらは仮に立てられたものであり、実体的な性質を持つものではありません。

  • とは、「主宰者」を意味します。

  • とは、「規範を保持するもの」を指します。

これら「我」と「法」の双方には、さまざまな特徴的な性質(相)が現れるとされます。

  • 我の種々の相: 例えば、有情(命ある者)、命者(生きる存在)、預流果(一度目の悟りを得た者)、一来果(再生が一度限りとなる者)など。

  • 法の種々の相: 実体、徳、業、または蘊(五蘊)、処(十二処)、界(二十八界)など。

これらの「転」とは、それぞれの縁に応じて仮に設けられ、その形を変えることを指します。


2. 我法の成立基盤

では、これらの仮設された相(特徴)は、何に依存して成り立つのでしょうか?
それらはすべて「識」に依存して変転し、仮に設けられたものです。

  • 識の定義: 「識」とは、対象を認識し区別するはたらきです。この文脈で「識」という言葉には、「心所」(心の具体的なはたらき)も含まれます。それらは常に「心」と相応しているためです。

  • 変(転変)とは何か: 「識」の本体は、「相分」と「見分」という二つの側面を持ちます。

    • 相分: 対象として現れる側面。

    • 見分: 対象を認識する側面。
      この二つは「自証分」(識自体の働き)を基盤として現れます。

「我」と「法」という概念は、この「相分」と「見分」という二つの側面に依存して仮に設けられます。したがって、それらは識の外に独立して存在するものではありません。


3. 内識と外境

また、「内なる識」が「外なる対象」(外境)に似た形を取って変化するのは、識に蓄えられた「我」と「法」を分別する習気(過去の経験や行為の情報)の力によるものです。

識が生じるとき、それは「我」と「法」に似た形をとって現れます。

  • これらの「我」と「法」の相は、実際には内なる識の中にありますが、分別作用によって、外に存在しているかのように現れるのです。

  • 有情たちは無始の時より、この識のはたらきを縁として、それを「実在する我」や「実在する法」であると誤解してきました。

この現象は、夢を見ている人が夢の力によって心にさまざまな外境のようなものを現出させ、それを実在する外界だと誤解するのに似ています。


4. 仮設された我法の性質

愚かな人々が計りごとをもって考え出した「実在の我」や「実在の法」は、実際には何一つとして存在しません。それらは、妄想的な感情や考えによって仮に設けられたものにすぎません。このため、それらを「仮」として説明します。

内なる識が変転して現れる「我」と「法」の相は、実際に存在しますが、それは「実在する我法の性質」ではありません。ただ、それらが実在するかのように現れるため、「仮」と呼ばれます。


5. 内識と外境の相違

一方、外境については、次のように説明されます。

  • 外境は、個々の感情や認識に基づいて仮に設けられたものであり、識のように実在するわけではありません。

  • 内識は、必ず因と縁によって生じるため、外境のように存在しないと考えることもできません。


6. 増減二執の遮断

このように説明することで、「外境が実在する」とする増益の執着や、「識がまったく存在しない」とする減損の執着の両方を遮断することができます。

  • 外境は内識に依存して仮に設けられているため、それはただ世俗的な存在にすぎません。

  • 識は仮に設けられた外境に依存しているため、それは究極の意味(勝義)においても存在します。


原文

云何應知。實無外境唯有内識似外境生。實我實法不可得故。如何實我不可得耶。諸所執我略有三種。一者執我體常周遍。量同虚空。隨處造業受苦樂故。二者執我其體雖常而量不定。隨身大小有卷舒故。三者執我體常。至細如一極微。潜轉身中作事業故。初且非理。所以者何。執我常遍量同虚空。應不隨身受苦樂等。又常遍故應無動轉。如何隨身能造諸業

質問と答え

問い: どのように理解すればよいのでしょうか?
外的な対象(外境)が実在せず、ただ内なる識が外境に似た形で生じていることを示すためには、どのように説明すればよいですか。また、実在する「我」や「法」が存在しないことをどのように理解すればよいですか?


実在する「我」が存在しない理由

実在する「我」が存在しない理由について考察するため、以下のような「我」に対する三種の誤った見解が存在するとされます:

  1. 常に存在し、虚空のように広がり、全てを包含する「我」
    これは、「我」が永遠に存在し、虚空と同じ広がりを持ち、どこにでも広がっているとする考えです。この「我」は、どこにでも存在し、業(行為)をなし、それに伴って苦楽を受けるとされます。

  2. 永遠に存在するが、大きさが変動する「我」
    これは、「我」が永遠に存在するものの、その大きさは身体に応じて変動し、身体が大きければ大きく、身体が小さければ縮むと考えます。

  3. 極微(原子)ほどの大きさを持つ「我」
    これは、「我」が永遠に存在し、非常に小さく、一つの極微(原子)ほどの大きさであると考えます。この「我」は身体の中で潜在的に活動し、業を行うとされます。


第一の見解(虚空のように広がる「我」)の誤り

まず、第一の見解である「虚空のように広がる『我』」について、その誤りを検討します。

1. 「我」が虚空のように常に広がり存在するならば:

  • 身体に応じて苦楽を受けることができなくなるはずです。なぜなら、「我」が虚空のようにどこにでも広がっているならば、身体という限定された存在に縛られず、身体を通じての経験(苦や楽)を共有することが不可能だからです。

2. 常に広がり、遍在しているならば:

  • 動いたり変化したりすることができません。もし「我」が虚空と同じように広がり続けているならば、位置を変えたり、身体に応じて行為(業)を行ったりすることは不可能です。


結論

このように、「虚空のように広がる『我』」という考えは理に適わないことが明らかです。以下に続く他の見解についても、それぞれの誤りを検討していきますが、いずれの「我」も実在するものとして成立しないことが示されます。これによって、実在する「我」が不可得(得られない)であることが明確になります。

原文

又所執我一切有情爲同爲異。若言同者。一作業時一切應作。一受果時一切應受。一得解脱時一切應解脱。便成大過。若言異者。諸有情我更相遍故體應相雜。又一作業一受果時。與一切我處無別故應名一切所作所受。若謂作受各有所屬無斯過者。理亦不然業果及身與諸我合。屬此非彼不應理故。一解脱時。一切應解脱。所修證法一切我合故。中亦非理。所以者何。我體常住不應隨身而有舒卷。既有舒卷如槖籥風。應非常住

実在する「我」の存在に対するさらなる考察


問い: 「我」について、すべての有情(生命あるもの)の間で「同じ」であるのか、それとも「異なる」のかという点を考えると、どのような矛盾が生じるでしょうか?


1. すべての有情における「我」が同一である場合

もし、すべての有情が「同一の我」を持つと考えるなら、以下のような重大な矛盾が生じます:

  1. 業(行為)の矛盾:

    • もし一つの有情がある行為を行うなら、すべての有情が同時にその行為を行うべきです。これは現実に合いません。

  2. 果報の矛盾:

    • もし一つの有情がその行為の結果を受け取るなら、すべての有情がその果報を共有することになります。これは不合理です。

  3. 解脱の矛盾:

    • もし一つの有情が解脱を得るならば、すべての有情が同時に解脱を得るべきことになります。これもまた現実に反します。

このように、「同一の我」という考えは、受け入れることができない重大な矛盾を伴います。


2. すべての有情における「我」が異なる場合

一方、「有情ごとに異なる我を持つ」と考えた場合でも、以下のような矛盾が生じます:

  1. 「我」が互いに混ざり合う問題:

    • すべての有情が互いに広がり合って存在している場合、それぞれの「我」の本体は混ざり合ってしまうはずです。しかし、「我」が混ざり合うという考えは不合理です。

  2. 行為と結果の割り当て問題:

    • ある一つの行為が行われ、その結果が得られる際、どの「我」に割り当てるべきかが曖昧になります。仮に「各々の行為や結果はそれぞれの我に属する」としても、それは理にかなわない場合があります。

  3. 解脱の共有問題:

    • ある一つの解脱が行われた場合、すべての「我」がその解脱を共有する必要があります。これもまた理に反します。


3. 「我」が変化するという仮定の矛盾

さらに、「我」は永遠不変(常住)であるとしつつ、それが身体の大きさに応じて「縮んだり広がったりする」と考えるのは、以下の理由で矛盾しています:

  1. 身体に応じて縮んだり広がったりするならば:

    • それはもはや「常住」(永遠に不変)ではありません。変化する性質を持つものは、永遠に存在することができないためです。

  2. 袋の中の風のように拡大・縮小するならば:

    • そのような「我」は不変ではなく、むしろ変化するものであるため、「常住する我」という主張と矛盾します。


結論

以上の検討から、「実在する我」という考えは、「同一である」場合にも「異なる」場合にも矛盾を含むことが明らかです。また、「我」が常住であると同時に変化するという考えも理論的に破綻しています。このように、実在する「我」は成立しないことが論証されます。

原文

又我隨身應可分析。如何可執我體一耶。故彼所言如童竪戲。後亦非理。所以者何。我量至小如一極微。如何能令大身遍動。若謂雖小而速巡身如旋火輪似遍動者。則所執我非一非常。諸有往來非常一故。又所執我復有三種。一者即蘊。二者離蘊。三者與蘊非即非離。初即蘊我理且不然。我應如蘊非常一故。又内諸色定非實我。如外諸色有質礙故。心心所法亦非實我。不恒相續待衆縁故。餘行餘色亦非實我。如虚空等非覺性故。中離蘊我理亦不然。應如虚空無作受故。後倶非我理亦不然。許依蘊立非即離蘊應如瓶等非實我故。又既不可説有爲無爲。亦應不可説是我非我。故彼所執實我不成


実在する「我」のさらなる検討


1. 「我」が身体に依存する場合の矛盾

もし「我」が身体に従うものであるならば、それは分割可能であるはずです。つまり、身体が分割されると、「我」もまた分割されるべきです。したがって、「我」が不可分で一体であると執着することは理にかなっていません。このような主張は、まるで子供の遊びのように無意味です。


2. 極小の「我」の矛盾

次に、「我」が非常に小さく、極微(原子)のような大きさであると仮定した場合、その誤りを示します:

  1. 極小の「我」が大きな身体を動かせる矛盾:

    • 「我」が極微ほど小さいにもかかわらず、大きな身体全体を動かすことができるとするのは不合理です。

  2. 高速で身体を巡る仮説の矛盾:

    • 仮に、「我」は極小でありながら、高速で身体全体を巡ることで、身体全体を動かすと主張するなら、それは火の輪が回転して見えるような錯覚に過ぎません。

    • この場合、「我」は一つで不変のものではなく、「往来するもの」であり、変化するものとならざるを得ません。このため、「常に一体である」という主張と矛盾します。


3. 「我」と蘊(構成要素)の関係に基づく矛盾

さらに、「我」が五蘊(身体と心の構成要素)とどのような関係にあるかによって、三つの立場が考えられます:

(1) 「我」が蘊と完全に一致する場合

  • この立場は、「我」は五蘊そのものであると主張します。しかし、この場合以下の矛盾が生じます:

    • 五蘊は無常であり、一体でもないため、「我」も無常で一体ではないことになります。これは、「我」が不変で一体であるという主張と矛盾します。

    • さらに、内側の色(身体の物質)は外側の物質(物体)と同様に質量や空間的障害を持つため、内側の物質が「実在する我」であるとは言えません。

(2) 「我」が蘊から完全に独立して存在する場合

  • この立場では、「我」は五蘊とは完全に別個の存在であると主張します。しかし、この場合も以下の矛盾が生じます:

    • もし「我」が蘊から完全に独立しているならば、それは虚空(何の作用も持たない空間)と同じように、何の行為も受け取ることもできない無力な存在になります。これでは「我」の概念が成立しません。

(3) 「我」が蘊に依存するが、完全には一致しない場合

  • この立場は、「我」は五蘊に依存しているが、完全には一致しないと主張します。しかし、この場合も矛盾が生じます:

    • 五蘊に依存しているのに、五蘊と完全には一致しない「我」を実体として認めるのは、あたかも瓶(物体)が「実在する我」とされるのと同様に、不合理です。


4. 実在する「我」が成立しない理由

以上の議論から、「我」が有為法(変化する現象)であるとも無為法(不変の存在)であるとも説明できないことが明らかです。
このため、「我」は実在するものとして説明することができず、「実在する我」という執着は成立しません。


このように、「実在する我」という考えは、どの角度から検討しても成り立たないことが示されます。

原文

又諸所執實有我體。爲有思慮爲無思慮。若有思慮應是無常。非一切時有思慮故。若無思慮。應如虚空不能作業亦不受果。故所執我理倶不成



実在する「我」の性質に関するさらなる検討


問い

諸々の主張による「実在する我」とされるものについて、その本体は「思慮(考える能力)」を持つものか、持たないものかを検討します。


1. 「我」が思慮を持つ場合の矛盾

もし、「我」が思慮(考える能力)を持つとするなら、以下の問題が生じます:

  • 思慮とは活動するものであるため、それは常に変化しており、無常であることになります。

  • しかし、「我」が無常であるならば、「我」は一切の時に存在する永続的なものではなくなり、「常住の我」という主張と矛盾します。


2. 「我」が思慮を持たない場合の矛盾

一方、「我」が思慮を持たないとするなら、以下の問題が生じます:

  • 思慮がない「我」は、虚空のように何の行為も行えず、結果を受け取ることもできません。

  • したがって、「思慮を持たない我」では、業(行為)を行い果報(結果)を受ける主体としての「我」の概念が成り立たなくなります。


結論

以上の検討から、「実在する我」が思慮を持つ場合にも、持たない場合にも矛盾が生じることが明らかです。
したがって、主張される「実在する我」という概念は成り立ちません。


このように、「我」に対する執着は誤りであり、「実在する我」が存在するという主張は論理的に成立しないことが再び確認されます。

原文

又諸所執實有我體。爲有作用爲無作用。若有作用如手足等應是無常。若無作用如兎角等。應非實我。故所執我二倶不成


実在する「我」の作用に関する検討


問い

諸々の主張による「実在する我」とされるものについて、その本体は「作用」(働き)を持つものか、持たないものかを検討します。


1. 「我」が作用を持つ場合の矛盾

もし、「我」が作用を持つとするなら、以下の問題が生じます:

  • 作用とは変化するもの(動作や働き)であるため、それは無常であることになります。

  • しかし、「我」が無常であるならば、「永続的で不変な我」という主張と矛盾します。

具体的には、手足のように働きがあるものは常に変化し、一体で永続的なものではありません。この点で「我」が不変の本体であるとする主張は破綻します。


2. 「我」が作用を持たない場合の矛盾

一方、「我」が作用を持たないとするなら、以下の問題が生じます:

  • 作用を持たない「我」は、存在しないもの(例えば、兎の角)のように、実在しないものと見なされます。

  • したがって、「作用を持たない我」では、行為の主体としての「我」の概念が成り立ちません。


結論

以上の検討から、「我」が作用を持つ場合にも、持たない場合にも矛盾が生じることが明らかです。
したがって、主張される「実在する我」という概念は、どちらの立場でも成り立ちません。


このように、「実在する我」に関する執着は誤りであり、その存在を正当化することはできないことが再び論証されます。

原文

又諸所執實有我體。爲是我見所縁境不。若非我見所縁境者。汝等云何知實有我。若是我見所縁境者。應有我見非顛倒攝。如實知故。若爾如何執有我者。所信至教皆毀我見稱讃無我。言無我見能證涅槃。執著我見沈淪生死。豈有邪見能證涅槃。正見翻令沈淪生死

実在する「我」と「我見」(自己に対する認識)の関係に関する検討


問い

実在する「我」とされるものについて、それが「我見」の認識対象となるのかどうかを考えます。


1. 「我」が「我見」の認識対象ではない場合の矛盾

もし、「実在する我」が「我見」の認識対象ではないとするなら、以下の問題が生じます:

  • 「我」が認識対象にならないのならば、どのようにして実在する「我」があると知ることができるのでしょうか?

  • 認識されない「我」は、存在すると主張すること自体が不可能となります。


2. 「我」が「我見」の認識対象である場合の矛盾

一方、「実在する我」が「我見」の認識対象であるとするなら、以下の問題が生じます:

  1. 我見が正しい認識であるべき矛盾:

    • 「我見」が実在する「我」を認識するものなら、それは正しい認識(非顛倒、すなわち間違いではない認識)となるはずです。実在するものを如実に知るからです。

  2. 仏教教義との矛盾:

    • しかし、仏教の教義においては、すべての聖典(至教)が「我見」を否定しています。

    • 聖典では、「我見を信じることが生死の輪廻に沈む原因である」とされ、「無我」を認識することこそが涅槃を証得する道であると説かれています。

  3. 邪見と正見の矛盾:

    • もし「我見」が正しい認識であるとするならば、それは涅槃に至る道を開くはずです。しかし、「我見」は邪見(誤った見解)とされ、生死に沈む原因とされています。

    • 一方で、「無我見」は正しい見解とされ、涅槃を証得する道とされています。この教義との矛盾は解消できません。


結論

以上の検討から、「実在する我」が「我見」の認識対象である場合にも、そうでない場合にも矛盾が生じることが明らかです。
したがって、「実在する我」という概念は成り立たず、それに基づく執着や主張は誤りであることが示されます。


このように、「我見」に依拠して「実在する我」を認めることは仏教教義の根本的な否定を意味し、正当性を持ち得ないことが明確に論証されます。

原文

又諸我見不縁實我。有所縁故。如縁餘心。我見所縁定非實我。是所縁故。如所餘法。是故我見不縁實我。但縁内識變現諸蘊。隨自妄情種種計度。然諸我執略有二種。一者倶生。二者分別。倶生我執。無始時來虚妄熏習内因力故恒與身倶。不待*邪教及*邪分別任運而轉。故名倶生。此復二種。一常相續在第七識。縁第八識起自心相執爲實我。二有間斷在第六識。縁識所變五取蘊相。或總或別起自心相執爲實我。此二我執細故難斷。後修道中數數修習勝生空觀方能除滅。分別我執亦由現在外縁力故非與身倶。要待*邪教及*邪分別然後方起故名分別。唯在第六意識中有。此亦二種。一縁*邪教所説蘊相起自心相分別計度執爲實我。二縁*邪教所説我相。起自心相分別計度執爲實我。此二我執麁故易斷。初見道時觀一切法生空眞如即能除滅。如是所説一切我執自心外蘊或有或無。自心内蘊一切皆有。是故我執皆縁無常五取蘊相。妄執爲我。然諸蘊相從縁生故是如幻有。妄所執我横計度故決定非有故契經説。苾芻當知。世間沙門婆羅門等所有我見一切皆縁五取蘊起。實我若無云何得有憶識誦習恩怨等事。所執實我既常無變。後應如前是事非有。前應如後是事非無。以後與前體無別故。若謂我用前後變易非我體者。理亦不然。用不離體應常有故。體不離用應非常故。然諸有情各有本識。一類相續任持種子。與一切法更互爲因熏習力故。得有如是憶識等事。故所設難於汝有失非於我宗。若無實我誰能造業誰受果耶。所執實我既無變易。猶如虚空。如何可能造業受果。若有變易應是無常。然諸有情心心所法因縁力故。相續無斷。造業受果。於理無違

実在する「我」と「我見」に関するさらなる検討


1. 「我見」の対象とその誤解

我見は実在する「我」を認識しているのか?

  • 結論: 我見は実在する「我」を対象としていません。それが何かを対象としているのは確かですが、例えば他の心を対象とするのと同じように、実在する「我」ではなく、仮に設けられた対象を縁(認識対象)としています。

根拠:

  • 我見が縁としている対象は、他の法(現象)と同様に、仮に設けられたものであり、実在する「我」ではありません。したがって、我見は内なる識が変化して現れた五蘊(身体と心の構成要素)を縁とし、それを妄想的に実在する「我」として捉えています。


2. 「我執」の二種類

我執(「我」に対する執着)には、以下の二種類があります:

  1. 倶生我執(生得的な我執)

    • 特徴:

      • 無始以来、虚妄な習気(過去の経験や行為の影響)が内因として蓄積され、身体と共に常に存在します。

      • 邪教(誤った教義)や邪分別(誤った認識)を必要とせず、自動的に起こるため「倶生」と呼ばれます。

    • さらに二種類に分類:

      1. 第七識(末那識)における倶生我執:

        • 常に存在し、第八識(阿頼耶識)を対象として「我」として認識します。

      2. 第六識(意識)における倶生我執:

        • 一定の間断があり、識が変化して現れた五取蘊(身体と心の構成要素)を対象として「我」として捉えます。

        • この認識は場合によって全体的であったり、部分的であったりします。

    • 断ち難い理由:

      • 倶生我執は非常に微細であるため、修道の過程で「勝義の生空観(すべての現象が空であるという観察)」を何度も修習することで初めて除去できます。

  2. 分別我執(後天的な我執)

    • 特徴:

      • 外的な縁(誤った教義や誤った認識)によって現在生じたもの。

      • 身体と常に共にあるわけではなく、邪教や邪分別によって生じます。

      • 第六識(意識)においてのみ存在します。

    • さらに二種類に分類:

      1. 誤った教義による五蘊の誤認:

        • 邪教が説く五蘊に基づき、それを「実在する我」として誤認します。

      2. 誤った教義による「我」の概念の誤認:

        • 邪教が説く「実在する我」の概念に基づき、それを「実在する我」として誤認します。

    • 断ちやすい理由:

      • 分別我執は非常に粗雑であるため、見道(悟りの最初の段階)で「一切法の空性を観察することで」容易に除去されます。


3. 「我執」が依存するもの

  • 外部対象について: 外部の五蘊については、「我執」が依存することもあれば、依存しない場合もあります。

  • 内部対象について: 内部の五蘊については、「我執」が必ず依存します。

  • 結論: したがって、すべての「我執」は無常の五取蘊(身体と心)を対象として、それを「我」として誤って執着しているに過ぎません。


4. 五蘊と「我」の関係性の誤解

五蘊は因縁によって生じるものであり、幻のように存在する仮のものです。「我」というのは、それを横から誤って解釈して妄想的に執着したものであり、実在するものではありません。


5. 教典における教え

仏教の経典においては、「世間の沙門(修行者)や婆羅門(宗教家)の間で説かれるすべての『我見』は、五取蘊に基づいて生じている」と説かれています。これは以下を示しています:

  • 「実在する我」は存在しないにもかかわらず、妄想によって「我」があると信じられています。

  • もし「実在する我」が存在するならば、前後に変化せず、記憶や恩義、怨恨といった現象は成立しません。

  • 仮に「我」の働きが変化するとすれば、「我」は無常であるべきですが、これは「我」の永続性を前提とする主張と矛盾します。


6. 実在する「我」が不要な理由

  • 「我」が業(行為)や果報(結果)の主体である必要はない:

    • 実在する「我」が存在しなくとも、有情たちは「心」や「心所」(心の働き)が因縁の力によって相続的に存在しており、それが業を行い、果報を受ける主体となります。

  • 相続的な心の働き:

    • 有情の「心」や「心所」は因縁によって相続的に続き、業を行い果報を受けるため、実在する「我」は不要です。


結論

実在する「我」に対する執着やその存在を正当化する主張は、いずれも理論的に成り立たず、仏教の教義においても誤りであることが示されます。仏教の教えは、「実在する我」を否定し、すべての執着を取り除くことを目指しています。

原文

我若實無。誰於生死輪迴諸趣。誰復厭苦求趣涅槃。所執實我既無生滅。如何可説生死輪迴。常如虚空。非苦所惱何爲厭捨求趣涅槃。故彼所言常爲自害。然有情類身心相續煩惱業力輪迴諸趣。厭患苦故求趣涅槃。由此故知。定無實我但有諸識。無始時來前滅後生。因果相續。由妄熏習似我相現。愚者於中妄執爲我

実在する「我」が存在しない理由の検討


問い

もし「我」が実在しないとするならば、生死輪廻や涅槃の追求はどのように説明されるのか?


1. 「我」が実在すると仮定した場合の矛盾

「我」が実在する場合、生死や涅槃に関する以下の矛盾が生じます:

  1. 「我」が不変・不滅である場合

    • 「実在する我」は永遠不変であるため、生死の輪廻における移行(生まれ変わりや死)や、苦しみを経験することはあり得ません。これにより、輪廻という概念自体が否定されてしまいます。

  2. 「我」が虚空のような性質である場合

    • 「我」が虚空のように不変であり、何の影響も受けない存在であるならば、「苦しみ」を感じることはなく、それを厭って涅槃を目指す動機も失われます。

  3. 「我」が不変であることの自害性

    • 「実在する我」が永遠不変であるとする主張は、生死輪廻や苦しみの存在、さらには涅槃の目指す意義を否定することになり、その主張自体を破綻させます。


2. 「我」が存在しない場合の説明

一方、「実在する我」が存在しないと仮定した場合、生死輪廻や涅槃は以下のように説明されます:

  1. 身心の相続と業・煩悩による輪廻

    • 有情(生命あるもの)は、身(身体)と心(識)の相続によって存在が維持されています。

    • 煩悩と業の力によって、生死の輪廻においてさまざまな境遇(諸趣)を移り変わります。

  2. 苦しみを厭い涅槃を求める動機

    • 有情は、生死輪廻における苦しみを厭い、その解脱を求めて涅槃へと向かおうとします。この追求は、「我」の存在を必要とせず、身心の相続とその活動によって成立します。


3. 妄想による「我」の誤解

「我」の存在を信じるのは妄想に過ぎない:

  • 有情は、無始以来、妄想的な習気(虚妄の影響)の力によって「我」に似た姿を識の中に現れさせています。

  • 愚かな者たちは、その仮に現れた「我」を実在すると誤認し、執着しています。


結論

実在する「我」は存在せず、ただ識(心)が無始以来、因果の連続として生起・消滅を繰り返しているだけです。この識が妄想的な習気によって「我」のように見えるだけであり、愚かな者たちはそれを実在の「我」として誤認しているに過ぎません。


本論の要点

  • 実在する「我」がない理由: 生死輪廻や涅槃の存在は、実在する「我」を必要としない。

  • 身心の相続と業の作用: 煩悩や業の力により、生死輪廻が続き、苦を厭うことで涅槃が求められる。

  • 妄執の誤り: 仮に現れた「我」に対する妄執こそが問題であり、実在する「我」という概念は妄想の産物に過ぎない。

原文

如何識外實有諸法不可得耶。外道餘乘所執外法理非有故。外道所執云何非有。且數論者執。我是思。受用薩埵刺闍答摩所成大等二十三法。然大等法三事合成。是實非假。現量所得。彼執非理所以者何。大等諸法多事成故。如軍林等。應假非實。如何可説現量得耶

外界の実在する法(現象)が不可得である理由


問い

どのようにして「識の外に実在する法(現象)が存在しない」と言えるのか?特に、外道や他の仏教以外の教えが主張する「外的な法」が成り立たない理由をどのように説明できるのか?


1. 外道の主張:数論派の場合

数論派(サーンキヤ学派)の主張について考察します:

  • 数論派は、「我(アートマン)は『思慮する存在』であり、外的な法(現象)は実在する」と主張します。

  • 具体的には、「外界の法(現象)は、サットヴァ(清浄)、ラジャス(激動)、タマス(暗黒)の三つの性質によって成り立つ大(プラクルティ)から生じる23の法で構成される」と説きます。

  • これら23の法は、以下のような性質を持つとされます:

    • 実在である: それらは仮設ではなく実在すると主張します。

    • 三事(サットヴァ、ラジャス、タマス)の結合によって成り立つ: これらの性質が結合することで実体化されるとします。

    • 現量(直接的認識)によって得られる: これらは直接的な認識によって実在が証明されると主張します。


2. 外道の主張が非合理である理由

数論派の主張が理にかなっていない理由を以下に説明します:

  1. 多事(複数の要素)の結合による法は仮設である

    • 数論派が主張する「大(プラクルティ)などの法」は、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つの性質の結合によって成り立つとされます。

    • しかし、複数の要素が結合して成り立つものは、本質的に仮設(便宜的に設定されたもの)であり、実在ではありません。

    • 例えば、「軍」や「森」のような概念は、個々の兵士や木々の集合体であり、それ自体が独立した実在ではないのと同様です。

  2. 現量(直接認識)の誤解

    • 数論派は「これらの法は現量によって直接的に認識できる」と主張しますが、この主張も理にかなっていません。

    • 現量は仮設されたものを直接認識することはできず、仮設的な概念を実在とするのは誤りです。


3. 結論

数論派が主張する外的な法(現象)は、以下の理由で成り立ちません:

  1. 複数の要素の結合によって成り立つものであり、それ自体が実在ではなく仮設的なものに過ぎません。

  2. 仮設的なものを現量によって認識できるとする主張は誤りであり、直接的認識による実在性の証明にはならないためです。


このように、「識の外に実在する法」が存在するという外道の主張は、理論的に成り立たないことが示されます。

原文

又大等法若是實有。應如本事非三合成。薩埵等三即大等故。應如大等。亦三合成。轉變非常爲例亦爾。又三本事各多功能。體亦應多。能體一故。三體既遍。一處變時餘亦應爾。體無別故。許此三事。體相各別。如何和合共成一相。不應合時變爲一相。與未合時體無別故。若謂三事體異相同。便違己宗體相是一。體應如相冥然是一。相應如體顯然有三。故不應言三合成一。又三是別。大等是總。總別一故應非一三。此三變時若不和合成一相者。應如未變。如何現見是一色等。若三和合成一相者。應失本別相體亦應隨失。不可説三各有二相。一總二別。總即別故。總亦應三。如何見一。若謂三體各有三相。和雜難知。故見一者。既有三相。寧見爲一。復如何知三事有異。若彼一一皆具三相。應一一事能成色等。何所𨵗少待三和合。體亦應各三。以體即相故。又大等法皆三合成。展轉相望應無差別。是則因果唯量諸大諸根差別皆不得成。若爾一根應得一切境。或應一境一切根所得。世間現見情與非情淨穢等物現比量等。皆應無異。便爲大失。故彼所執實法不成。但是妄情計度爲有。勝論所執實等句義多實有性。現量所得。彼執非理。所以者何。諸句義中。且常住者。若能生果。應是無常。有作用故如所生果。若不生果應非離識實有自性。如*兎角等。諸無常者。若有質礙。便有方分。應可分析。如軍林等。非實有性。若無質礙如心心所。應非離此有實自性」又彼所執地水火風。應非有礙實句義攝。身根所觸故。如堅濕煖動。即彼所執堅濕煖等。應非無礙徳句義攝。身根所觸故。如地水火風。地水火三對青色等。倶眼所見。准此應責。故知無實地水火風。與堅濕等各別有性。亦非眼見實地水火

外道が主張する「大等の法(サットヴァ・ラジャス・タマス)」の誤り


1. 「大等(サットヴァ・ラジャス・タマス)」が実在しない理由

もし「大等の法」が実在するならば:

  1. 「本事」との矛盾

    • 大等の法は三つの性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)の結合によって成り立つとされます。しかし、もしそれが実在するならば、それらは元々独立した実体(本事)として存在するべきです。

    • 実際には、大等の法そのものが三つの性質の合成であるため、独立した実体ではありません。

  2. 変化の矛盾

    • 三つの性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)が結合して成り立つものが変化するならば、それ自体が無常であり、実在としての条件を満たしません。

    • 実在するならば、変化せず一貫して存在するべきですが、大等の法は性質が変化するため無常です。


2. 「三つの性質」の結合の矛盾

三つの性質が結合して「一つの法」となるとする主張には以下の問題があります:

  1. 結合の不合理性

    • サットヴァ、ラジャス、タマスの三つの性質がそれぞれ独立して異なる性質を持つならば、結合して一つの法になることは理に適いません。

    • 結合後もそれぞれの性質が独立して存在するならば、「一つの法」として認識されることはありません。

  2. 「総」と「別」の混同

    • 「三つの性質は別々のもの」でありながら、「一つの法として総括される」とする主張は矛盾を含みます。

    • 「総」は「別」によって構成されるとされますが、別々のものが一体になるのは不可能です。

  3. 観察の矛盾

    • 三つの性質が結合した結果、「一つのもの」として観察されると主張しますが、それは誤認です。三つの性質がそれぞれ独立しているならば、観察によってもそれぞれが分離して認識されるべきです。


3. 数論派の「展開の矛盾」

もし三つの性質が結合してすべての物質が構成されるならば:

  1. 因果の不成立

    • 因(原因)と果(結果)に差異がなくなり、すべての物質が同じ性質を持つことになります。この場合、因果関係が成立しなくなります。

    • 例えば、一つの五感(眼根)がすべての対象を知覚することになり、五感それぞれの区別がなくなります。

  2. 現実の矛盾

    • 実際には、感覚対象(色・音・触覚など)や物質(清浄・汚濁など)は異なる性質を持っています。数論派の主張は、これを説明することができません。


4. 勝論派の主張に対する反論

勝論派が主張する「地・水・火・風」の実在に関する誤り:

  1. 常住の性質

    • 勝論派は、地・水・火・風が常住の性質を持つと主張します。しかし、もし常住ならば、それが結果を生み出すことは不可能です。なぜなら、結果を生むものは必然的に変化(無常)を伴うからです。

  2. 無常の性質

    • 一方で、もし地・水・火・風が無常であるならば、それは変化し、分割可能なものです。分割可能なものは仮設であり、実在としての条件を満たしません。

  3. 質礙の矛盾

    • 地・水・火・風が実在であるならば、それらは「質礙」(空間的な制約)を持つべきです。しかし、質礙を持つものは分割可能であり、軍や森のように仮設的な存在にすぎません。

  4. 認識の矛盾

    • 勝論派は、地・水・火・風が触覚(堅い、冷たい、熱い、動くなど)として認識されると主張しますが、それらは識による認識の対象に過ぎません。これらの性質が実体として独立して存在するわけではありません。


結論

数論派や勝論派が主張する外的な法(大等の法や地・水・火・風)は、以下の理由で実在しません:

  1. 多くの要素が結合して成り立つものは仮設であり、実在ではない。

  2. 常住や無常、質礙や認識に関する主張は矛盾を含み、理論的に成立しない。

これらの主張はすべて妄想的な観念によるものであり、実在する法として成り立たないことが示されます。

原文

又彼所執實句義中。有礙常者。皆有礙故。如麁地等。應是無常。諸句義中色根所取無質礙法。應皆有礙。許色根取故。如地水火風

勝論派が主張する「実在する法(句義)」の検討


1. 「有礙常者」の矛盾

勝論派の主張
勝論派は、「有礙(空間的な制約を持つ)でありながら常住するもの」が実在すると主張しています。

反論

  • 「有礙(空間的制約を持つ)」とは、空間を占有するものであり、それは常に分割可能であり、無常であるはずです。

  • 例えば、「麁地」(粗い地の要素)などは空間的制約を持つため、必然的に変化し、無常であるべきです。このため、「有礙でありながら常住する」という主張は成り立ちません。


2. 「無質礙法」の矛盾

勝論派の主張
勝論派は、「色根(視覚)が認識する対象である無質礙法(空間的制約を持たない法)」も実在すると主張しています。

反論

  • 「無質礙法」とされるものが実在するのであれば、色根(視覚)がその対象を認識できるのは不合理です。なぜなら、色根が認識する対象は常に質礙(空間的制約)を持つものだからです。

  • したがって、地・水・火・風といった物質的な要素が色根の対象である以上、それらを「無質礙法」として認識することは矛盾しています。


結論

勝論派が主張する「実在する法(句義)」について、以下の矛盾が指摘されます:

  1. 「有礙常者」の矛盾

    • 空間的制約を持つものが常住するという主張は、分割可能性の性質から否定されます。

  2. 「無質礙法」の矛盾

    • 無質礙である法を視覚が認識するという主張は、視覚の対象が質礙を持つべき性質と矛盾します。

以上により、勝論派が主張する「実在する法」は成立せず、誤りであることが明らかです。

原文

又彼所執非實徳等。應非離識有別自性。非實攝故。如石女兒。非有實等應非離識有別自性。非有攝故。如空花等。彼所執有。應離實等無別自性。許非無故。如實徳等。若離實等應非有性。許異實等故。如畢竟無等。如有非無無別有性。如何實等有別有性。若離有法有別有性。應離無法有別無性。彼既不然此云何爾。故彼有性唯妄計度。又彼所執實徳業性。異實徳業。理定不然。勿。此亦非實徳業性。異實等故。如徳業等

勝論派が主張する「実在する法(実、徳、業)」の批判


1. 非実在のものが独立した性質を持たない理由

勝論派の主張
勝論派は、実在しないもの(例えば「非実の徳」)にも識とは独立した別の自性があると主張します。

反論

  • 非実在のものが識から独立して存在する自性を持つという主張は誤りです。

    • 例えば、「石女(存在しない女性)の子供」のように、存在しないものは識を離れて独立した性質を持つことができません。

    • 同様に、「空中に咲く花(空花)」のような非実在のものも、識を離れた独立した性質を持つことはありません。


2. 実在する「徳」や「業」の性質に関する矛盾

勝論派の主張
実在する「徳」や「業」といった法(現象)は、「実」という本質とは異なる独自の性質を持つと主張します。

反論

  • 実在する「徳」や「業」が識から独立している場合、それらは「実」という本質から異なる性質を持つとされます。

    • しかし、それが「実」という性質から異なるならば、それ自体が「実」ではないため、独立した性質を持つことはできません。

    • 例えば、「畢竟無(絶対的に無)」のように、「実」でないものが独立した性質を持つことはありません。


3. 「有」と「無」の性質に関する矛盾

  • 「有」が「無」と異なる場合

    • 勝論派は、「有」は「無」と異なる別の性質を持つと主張します。

    • しかし、もし「有」が「無」と異なる独自の性質を持つならば、「無」もまた「有」と異なる独自の性質を持つべきです。

    • しかし、これを認めない勝論派の主張は論理的に矛盾しています。

  • 「実」が独自の性質を持つ場合

    • 「実」が「有」に基づいて別の性質を持つと主張するならば、「無」もまた別の性質を持つべきです。

    • しかし、勝論派は「無」には性質がないとしながら「有」だけに性質があると主張しており、この点でも矛盾があります。


4. 実在する「徳」「業」が「実」と異なる性質を持つ矛盾

  • 勝論派は、「徳」や「業」の性質が「実」と異なると主張しますが、これは理にかなっていません。

  • なぜなら、「徳」や「業」の性質が「実」と異なるなら、それらは非実在のものであるべきです。しかし、「徳」や「業」が非実在であれば、それらが識を離れて独立した性質を持つという主張自体が破綻します。


結論

勝論派が主張する「実在する法(徳、業、実)」について、以下の矛盾が明らかです:

  1. 非実在のもの(石女の子供、空花など)は識を離れて独立した性質を持つことはできない。

  2. 実在する「徳」や「業」は「実」と異なる独自の性質を持つとする主張は矛盾しており、成立しない。

  3. 「有」と「無」の性質に関する主張は自己矛盾を含む。

したがって、勝論派が主張する「実在する法」は、識を離れて独立した性質を持つことができず、妄想的な観念に基づく誤りであると結論づけられます。

原文

又應實等非實等攝。異實等性故。如徳業實等。地等諸性對地等體更相徴詰。准此應知。如實性等無別實等性。實等亦應無別實性等。若離實等有實等性。應離非實等有非實等性。彼既不爾此云何然。故同異性唯假施設。又彼所執和合句義定非實有。非有實等諸法攝故。如畢竟無。彼許實等現量所得以理推徴尚非實有況彼自許和合句義非現量得。而可實有。設執和合是現量境。由前理故亦非實有。然彼實等。非縁離識實有自體現量所得。許所知故。如龜毛等。又縁實智非縁離識實句自體現量智攝。假合生故。如徳智等。廣説乃至縁和合智。非縁離識和合自體現量智攝。假合生故。如實智等。故勝論者實等句義。亦是隨情妄所施設。有執有一大自在天。體實遍常能生諸法。彼執非理。所以者何。若法能生必非常故。諸非常者必不遍故。諸不遍者非眞實故。體既常遍。具諸功能應一切處時頓生一切法。待欲或縁方能生者。違一因論。或欲及縁亦應頓起。因常有故。餘執有一大梵・時・方・本際・自然・虚空・我等。常住實有。具諸功能生一切法。皆同此破。有餘偏執。明論聲常。能爲定量表詮諸法。有執一切聲皆是常。待縁顯發。方有詮表。彼倶非理。所以者何。且明論聲許能詮故。應非常住如所餘聲。餘聲亦應非常聲體。如瓶衣等待衆縁故。有外道執。地水火風極微。實常。能生麁色。所生麁色不越因量。雖是無常而體實有。彼亦非理。所以者何。所執極微若有方分。如蟻行等。體應非實。若無方分。如心心所。應不共聚生麁果色。既能生果。如彼所生。如何可説極微常住

外道の主張する「実在する法(実等)」や「大自在天」の誤り


1. 実等と非実等の性質についての検討

外道の主張

  • 外道は「実等(実在する法)」と「非実等(非実在の法)」が、それぞれ独立した性質を持つと主張します。

反論

  • 実等と非実等の同一性・異一性の矛盾

    • もし「実等」が「非実等」と異なる性質を持つならば、「非実等」も独立した性質を持つべきですが、これは成り立ちません。

    • したがって、実等や非実等の同一性や異一性は、ただ仮に設けられたものであり、実在ではありません。

  • 和合の性質に関する矛盾

    • 実等や非実等が独立して存在するという主張は、結局、実在ではなく仮設されたもの(例えば「畢竟無」や「空花」のような非実在の概念)でしかありません。


2. 和合句義(結合された法)の実在性に関する批判

外道の主張

  • 外道は「和合句義」(異なる要素が結合したもの)もまた実在すると主張します。

反論

  • 和合句義は、実等のように直接現量(直接認識)によって得られると外道は主張しますが、以下の理由で誤りです:

    1. 和合は仮設されたものであり、実在するものではありません。

    2. 仮設的な性質を持つものが現量で得られるという主張自体が矛盾しています。

    3. 和合の性質は、識を離れて独立して存在するものではなく、識による仮設的なものです。


3. 大自在天の実在性に関する批判

外道の主張

  • 外道は、「大自在天」という常住で全能の神が存在し、すべての法を生み出す原因であると主張します。

反論

  • 常住でありながら能動的に法を生み出す矛盾

    • もし大自在天が常住(永続的に変化しない)であるならば、それが法を生み出すことはできません。なぜなら、因果関係を成立させるには変化が必要だからです。

    • さらに、もし常住であり、かつ全能であるならば、すべての法を同時に生み出すべきですが、実際にはそれが観察されません。

  • 欲や縁に依存する矛盾

    • 大自在天が欲望や条件(縁)に依存して法を生み出すとするならば、それは全能ではなく、他の条件に依存する不完全な存在になります。


4. その他の外道の主張

外道は、大自在天以外にも以下のような存在を実在する原因として主張します:

  • 大梵天

  • 時(時間)

  • 方(空間)

  • 本際(万物の根源)

  • 自然

  • 虚空(空間)

  • 我(アートマン)

反論

  • これらの存在が「常住で実在する」とされる場合、大自在天に対する批判と同様の矛盾が適用されます:

    1. 常住であるならば因果関係を成立させることができない。

    2. 変化を伴わないものが法を生み出すことは不可能である。


5. 明論派の「声常説」に対する批判

明論派の主張

  • 明論派は、「声(音声)は常住である」とし、それが法(真理)を示す媒体となると主張します。

反論

  1. 声が法を示す媒体として働くならば、それは「動的な機能」を持つべきであり、常住であることと矛盾します。

  2. 声が発生するには条件(縁)が必要であり、縁に依存するものは常住ではありません。

  3. 声が常住であるとするならば、すべての声が同時に存在するべきですが、実際には異なる条件下で異なる声が発生します。


6. 極微の実在性に関する批判

外道の主張

  • 地・水・火・風の極微(最小単位)は常住で実在し、それが粗大な物質(色)を生み出すとされます。

反論

  1. 極微が「方分」(空間的な広がり)を持つならば、それは分割可能であり、常住ではありません。

  2. 極微が「方分」を持たないならば、それが集まって粗大な物質を生み出すことは不可能です。

  3. もし極微が法を生み出すならば、それ自体が無常であるべきです。無常でないものが法を生み出すという主張は矛盾しています。


結論

外道の主張する「実在する法」や「大自在天」などの存在は、以下の理由で誤りです:

  1. 実等や非実等の同一性・異一性は仮設に過ぎず、実在ではない。

  2. 和合句義は仮設であり、実在するものではない。

  3. 大自在天やその他の常住の原因とされる存在は因果関係を成立させることができず、全能の主張は矛盾を含む。

  4. 極微の実在性も分割可能性や因果関係の観点から破綻している。

以上のように、外道の主張する実在論はすべて誤りであり、仮設された妄想に過ぎないことが明らかです。

原文

又所生果。不越因量。應如極微不名麁色。則此果色。應非眼等色根所取。便違自執。若謂果色量徳合故。非麁似麁色根能取。所執果色既同因量。應如極微無麁徳合。或應極微亦麁徳合。如麁果色。處無別故。若謂果色遍在自因。因非一故可名麁者。則此果色體應非一。如所在因。處各別故。既爾此果還不成麁。由此亦非色根所取。若果多分合故成麁。多因極微合應非細。足成根境何用果爲。既多分成。應非實有。則汝所執前後相違

外道が主張する「果色(結果としての色)」に対する批判


1. 因果関係に基づく果色の矛盾

外道の主張

  • 外道は、「果色(結果としての色)」は因(極微)から生じるものであり、果色は因の性質を超えないと主張します。

反論

  • 因果の同一性の矛盾

    • 果色が因(極微)の性質を超えないとするならば、果色もまた極微の性質を持つべきです。

    • しかし、果色は「粗(麁)」であり、視覚(色根)の対象とされる一方、極微は粗ではないため、矛盾が生じます。

    • もし果色が粗ではないならば、視覚で認識される対象とはならず、外道の主張に反することになります。


2. 果色の「量徳合(複数の性質の結合)」に関する矛盾

外道の主張

  • 果色は「量徳合」(異なる性質が結合したもの)であるため、粗い性質を持ち、視覚の対象となると主張します。

反論

  • 因と果の同一性の問題

    • 果色が因(極微)の性質を超えないとするならば、果色は極微と同じ性質を持つべきです。

    • しかし、極微には「粗い性質」がないため、果色が粗い性質を持つという主張は矛盾します。

  • 極微の性質の変化の問題

    • 果色が粗い性質を持つならば、極微もまた粗い性質を持つべきです。しかし、極微は「粗い性質を持たない」とされるため、この矛盾を解消できません。


3. 果色が複数の因(極微)に基づく場合の矛盾

外道の主張

  • 果色は、複数の因(極微)が結合して生じるものであり、そのため粗い性質を持つとされます。

反論

  • 果色が複数の因に基づく場合の同一性の問題

    • 果色が複数の因に基づく場合、それぞれの因が異なる性質を持つため、果色の性質が一貫しないことになります。

    • 結果として、果色が「粗い性質」を持つという主張は成立しません。

  • 因が異なる場所に存在する場合の問題

    • 複数の因が異なる場所に存在する場合、果色が一つの対象として成立することは不可能です。


4. 果色が「多分合」(複数の部分の結合)によって成立する場合の矛盾

外道の主張

  • 果色は「多分合」(複数の極微が結合することで成立する)であるとされます。

反論

  • 多分合が仮設である問題

    • 果色が多分合によって成立するならば、それは本質的に仮設されたものであり、実在するものではありません。

  • 果色の存在意義の問題

    • 果色が多分合によって成り立つならば、それ自体が視覚の対象となる必要はなく、極微そのものが対象となるべきです。


結論

外道が主張する「果色(結果としての色)」について、以下の矛盾が指摘されます:

  1. 因果関係の矛盾

    • 果色が因(極微)の性質を超えないとする主張は、果色が視覚の対象であるという主張と矛盾します。

  2. 量徳合の矛盾

    • 果色が量徳合によって粗い性質を持つとする主張は、極微の性質との矛盾を解消できません。

  3. 多分合の仮設性

    • 果色が多分合によって成立するならば、それは実在するものではなく、仮設に過ぎません。

これらの点から、外道の果色に関する主張は矛盾を含み、成立しないことが明らかです。

原文

又果與因倶有質礙。應不同處。如二極微。若謂果因體相受入。如沙受水藥入鎔銅。誰許沙銅體受水藥。或應離變非一非常。又麁色果體若是一。得一分時應得一切。彼此一故。彼應如此

因と果(極微と果色)の性質に関する矛盾


1. 因と果が同じ質礙(空間的制約)を持つ場合の問題

外道の主張

  • 因(極微)と果(果色)は、どちらも質礙(空間的制約)を持つとされます。

反論

  • 因と果が異なる場所に存在する問題

    • 質礙を持つ因と果が異なる場所に存在する場合、それらがどのように相互作用し、果が因から生じるのか説明がつきません。

    • 例えば、二つの極微が異なる場所にある場合、それらが結合して果を形成することは不可能です。


2. 果が因を包含する場合の問題

外道の主張

  • 果が因を包含するように生じる(例:砂が水を吸収し、薬が銅に溶け込む)と主張します。

反論

  • 包含の不合理性

    • 砂が水を吸収する例や薬が銅に溶け込む例を挙げていますが、これらはあくまで現象としての観察に過ぎず、実際に砂や銅の物質が水や薬の性質を完全に包含しているわけではありません。

    • もし果が因を包含するのであれば、因と果は「一つのもの」として統一されるべきであり、別個の性質を持つことが矛盾します。

  • 変化を伴わない場合の問題

    • もし因が変化せずに果を形成するのであれば、因と果は同一であるはずですが、これは外道の主張と矛盾します。

    • また、因が変化するならば、それは常住ではなく無常であるべきです。


3. 果色の性質が一つの場合の問題

外道の主張

  • 果色の性質が一つである場合、果の一部分を得ることは果全体を得ることと同じであるとされます。

反論

  • 一部と全体の区別の矛盾

    • 果色が「一つの性質」として統一されているならば、果色の一部を得るときに果全体を得ることと同義になるはずです。

    • しかし、現実には一部分を得ることと全体を得ることは異なるため、この主張は矛盾しています。


結論

外道が主張する因(極微)と果(果色)の性質について、以下の矛盾が明らかです:

  1. 因と果が異なる場所に存在する場合、結合して果を生じることは不可能です。

  2. 果が因を包含する場合、因と果の性質が区別できないという矛盾が生じます。

  3. 果色が統一された性質を持つ場合、一部と全体の区別が失われ、矛盾を含みます。

これらの問題から、外道の因果関係に関する主張は理論的に成立しないことが示されます。

原文

不許違理。許便違事。故彼所執進退不成。但是隨情虚妄計度。然諸外道品類雖多。所執有法不過四種。一執有法與有等性其體定一。如數論等。彼執非理。所以者何。勿一切法即有性故。皆如有性。體無差別便違三徳我等體異。亦違世間諸法差別。又若色等即色等性。色等應無青黄等異。二執有法與有等性。其體定異。如勝論等。彼執非理。所以者何。勿一切法非有性故。如已滅無。體不可得。便違實等自體非無。亦違世間現見有物。又若色等非色等性。應如聲等。非眼等境。三執有法與有等性。亦一亦異。如無慚等。彼執非理。所以者何。一異同前一異過故。二相相違。體應別故。一異體同倶不成故。勿一切法皆同一體。或應一異是假非實。而執爲實理定不成。四執有法與有等性。非一非異。如邪命等。彼執非理。所以者何。非一異執同異一故。非一異言爲遮爲表若唯是表應不雙非。若但是遮應無所執。亦遮亦表應互相違。非表非遮。應成戲論。又非一異。違世共知有一異物。亦違自宗色等有法決定實有。是故彼言唯矯避過。諸有智者勿謬許之

外道が主張する「有法(実在するもの)」の性質に関する批判


1. 外道の四種の「有法」に関する主張

諸外道は、その教義に基づいて以下の四種の「有法(実在するもの)」を主張します:

  1. 有法とその「有(存在性)」が同一である(例:数論派)

  2. 有法とその「有(存在性)」が異なる(例:勝論派)

  3. 有法とその「有(存在性)」が同一でもあり異なることもある(例:無慚などの概念)

  4. 有法とその「有(存在性)」が非同一でも非異なる(例:邪命などの概念)


2. 各主張に対する批判

(1) 有法と「有」が同一である主張(数論派)

外道の主張

  • 有法(物質や現象)と「有(存在性)」は同一であり、全ての法の本質は「有」である。

反論

  1. 三徳(性質)と我(主体)の異なる性質に矛盾

    • 全ての法が「有」の性質と同一であるならば、物質や現象の違いや個別性が否定されます。

    • 例えば、三徳(薩埵・刺闍・答摩)や個々の主体(我)の異なる性質を説明できません。

  2. 色法の性質に矛盾

    • もし「色(物質)」が「色の存在性」と同一であるならば、青や黄といった色の違いが説明できません。


(2) 有法と「有」が異なる主張(勝論派)

外道の主張

  • 有法と「有(存在性)」は異なり、有法は「有」に依存する。

反論

  1. 有法が存在しないことになる矛盾

    • 有法が「有」と異なる場合、それは「有」から切り離されており、存在しないもの(例えば既に滅したもの)と同じ扱いになります。

    • これにより、勝論派が主張する有法の実在性が否定されます。

  2. 現実の観察に矛盾

    • 色や形のように、私たちが直接観察できる有法の存在が説明できなくなります。


(3) 有法と「有」が同一でもあり異なる主張(無慚など)

外道の主張

  • 有法と「有(存在性)」は状況に応じて同一でもあり異なることもある。

反論

  1. 同一・異一の矛盾

    • 同一であるならば、異一の性質を持つことができず、逆もまた然りです。

    • 同時に同一と異一を主張することは論理的に矛盾します。

  2. 仮設性の問題

    • 同一と異一を仮に設定することで説明を試みる場合、それは実在ではなく、仮設に過ぎません。


(4) 有法と「有」が非同一でも非異なる主張(邪命など)

外道の主張

  • 有法と「有(存在性)」は非同一でも非異なる。

反論

  1. 遮るだけで何も説明しない

    • 「非同一でも非異なる」という表現は、単に他の選択肢を否定するだけで何も説明していません。

    • もし「非同一でも非異なる」という概念が成立するならば、それは単なる戯論(論理的に無意味な議論)です。

  2. 現実の観察と矛盾

    • 現実には、色や形といった有法が同一か異一かのいずれかであると私たちは認識しています。

    • そのため、「非同一でも非異なる」という主張は現実と矛盾します。


結論

外道の「有法(実在するもの)」に関する四種の主張は、以下の理由で成り立ちません:

  1. 有法と「有」が同一である主張は、法の個別性や差異を説明できません。

  2. 有法と「有」が異なる主張は、有法の存在そのものを否定する矛盾を含みます。

  3. 有法と「有」が同一でもあり異なるという主張は、論理的な矛盾を含みます。

  4. 有法と「有」が非同一でも非異なるという主張は、戯論であり現実とも矛盾します。

以上により、外道が主張する「有法」の性質についての説は、すべて虚妄な仮設に過ぎないことが明らかです。

原文

餘乘所執離識實有色等諸法。如何非有彼所執色不相應行。及諸無爲。理非有故。且所執色總有二種。一者有對極微所成。二者無對非極微成。彼有對色定非實有。能成極微非實有故。謂諸極微若有質礙。應如瓶等。是假非實。若無質礙。應如非色。如何可集成瓶衣等。又諸極微。若有方分。必可分析。便非實有。若無方分。則如非色。云何和合承光發影。日輪纔擧照柱等時。東西兩邊光影各現。承光發影。處既不同。所執極微定有方分。又若見觸壁等物時。唯得此邊不得彼分。既和合物即諸極微。故此極微必有方分

他の教説における「識を離れて実在する法(離識実有)」に関する批判


1. 離識実有の「色(物質)」が非実在である理由

他の教説の主張

  • 色(物質)は識とは独立して実在し、以下の2種類に分類されるとされます:

    1. 有対の色(障碍物として認識される物質、例えば極微から成る物質)

    2. 無対の色(障碍物を持たない物質)

反論

  • 有対の色が非実在である理由

    • 有対の色が極微から成るとされる場合、その極微自体が非実在であるため、有対の色も非実在であると考えられます。

    • 以下に極微が非実在である理由を示します。


2. 極微が非実在である理由

極微に対する批判

  1. 質礙(空間的な障碍)を持つ場合の問題

    • 極微が質礙を持つ場合、それは瓶や衣などの物体と同様、仮設されたものであり、実在ではありません。

  2. 質礙を持たない場合の問題

    • 極微が質礙を持たないとするなら、それは非物質的なもの(例えば心や無形の存在)と同様であり、物質の基盤として成立しません。

  3. 方分(空間的な広がり)を持つ場合の問題

    • 極微が方分を持つなら、それは分割可能であり、極微としての性質を失います。分割可能なものは究極的な実体ではありません。

  4. 方分を持たない場合の問題

    • 極微が方分を持たないとするなら、それは無形の存在と同様であり、物質の形成基盤として機能しません。

    • 方分を持たないものが集まり、瓶や衣といった物体を形成することは不可能です。


3. 極微の「和合」による形成の矛盾

和合の問題点

  • 極微が和合して物体を形成するとする主張は、以下の矛盾を含みます:

  1. 光や影の現象における矛盾

    • 極微が和合して光や影を生じるとされますが、例えば日輪の光が柱に照射される際、東西で異なる光と影が現れます。

    • これにより、極微が方分を持つことが前提とされますが、方分を持つ極微は分割可能であり、究極的な実体として成立しません。

  2. 壁などの物体における観察の矛盾

    • 壁や物体を見たり触れたりする際、その一部を認識することはできますが、全体を同時に認識することはできません。

    • 物体全体が極微の集合とするならば、その極微は方分を持ち、分割可能であるため、究極的な実体とはなり得ません。


結論

他の教説が主張する「識を離れて実在する法(離識実有)」や「極微」の実在性は、以下の理由で成立しません:

  1. 有対の色は、極微が非実在であるため、成立しません。

  2. 極微は以下の理由で非実在です:

    • 質礙を持つ場合、仮設されたものであり、実在ではありません。

    • 質礙を持たない場合、物質として機能しません。

    • 方分を持つ場合、分割可能であり、究極的な実体ではありません。

    • 方分を持たない場合、物体を形成する基盤となることはできません。

  3. 極微の和合による物体形成も、光影や物体観察の矛盾により否定されます。

以上により、離識実有や極微を基盤とする物質の実在性は、論理的に成立しないことが明らかです。

原文

又諸極微隨所住處必有上下四方差別。不爾便無共和集義。或相渉入。應不成麁。由此極微定有方分。執有對色即諸極微。若無方分。應無障隔。若爾便非障礙有對。是故汝等所執極微。必有方分。有方分故。便可分析。定非實有。故有對色實有不成。五識豈無所依縁色

極微に関する批判と有対色の実在性の否定


1. 極微の位置に関する矛盾

外道の主張

  • 極微は、有対色(障碍物として認識される物質)を構成する最小単位であり、それ自体は実在するものとされます。

反論

  1. 極微の位置差別に基づく問題

    • 極微が存在するならば、必ず上下や四方といった位置の差別があるはずです。

    • もし位置差別がなければ、極微同士が和合し、物質を形成することは不可能です。

  2. 位置差別の矛盾

    • 極微が位置差別を持つとすれば、それぞれの極微に「上下左右の空間的広がり」があることになります。

    • これは極微が分割可能であることを意味し、極微が究極的な実体ではないことを示します。


2. 極微が持つ「方分(空間的広がり)」に関する問題

方分の性質についての批判

  1. 方分を持たない場合の矛盾

    • 極微が方分を持たないならば、それは空間的な障碍を生じることができません。

    • 障碍を持たない極微は「有対色(障碍物)」を構成することができず、有対色の実在性は否定されます。

  2. 方分を持つ場合の矛盾

    • 極微が方分を持つならば、それは分割可能であり、極微が究極的な実体ではないことになります。


3. 有対色(極微の集合体)の実在性の否定

極微の性質に基づく結論

  • 極微が方分を持たない場合、有対色を構成することができません。

  • 極微が方分を持つ場合、それは分割可能であり、究極的な実体ではありません。

  • したがって、極微を基盤とする有対色(物質)は、実在性を持つものとして成立しません。


4. 五識と有対色の関係

外道の主張

  • 五識(眼識・耳識など)は、有対色を対象として認識を行うとされます。

反論

  • 極微や有対色が実在しない以上、五識が認識する対象としての有対色も実在しないことが明らかです。


結論

外道が主張する極微や有対色の実在性は、以下の理由で成立しません:

  1. 極微が上下や四方といった位置差別を持つ場合、それは分割可能であり、究極的な実体ではありません。

  2. 極微が方分を持たない場合、それは障碍を生じることができず、有対色を構成することができません。

  3. 極微を基盤とする有対色は、実在性を持つものとして成立しません。

  4. 極微や有対色が実在しないため、五識の対象としての有対色も否定されます。

以上により、極微や有対色に基づく外道の主張は虚妄であり、論理的に成立しないことが示されます。

原文

雖非無色而是識變。謂識生時。内因縁力變似眼等色等相現。即以此相爲所依縁。然眼等根非現量得。以能發識比知是有。此但功能非外所造。外有對色理既不成。故應但是内識變現。發眼等識名眼等根。此爲所依生眼等識。此眼等識外所縁縁。理非有故。決定應許自識所變爲所縁縁。謂能引生似自識者。汝執彼是此所縁縁。非但能生。勿因縁等亦名此識所縁縁故。眼等五識了色等時。但縁和合似彼相故。非和合相異諸極微有實自體。分析彼時。似彼相識定不生故

色(物質)と識(心)の関係に関する考察


1. 色が識の変化である理由

唯識の主張

  • 色(物質)は、識が生じた際に内因縁の力によって変化し、眼などの感覚器官や物質的対象のように現れるものです。

具体的な説明

  1. 識の変化としての色

    • 識が内因縁の力を受けて働くとき、眼や物体のような相が現れます。

    • これらの相(像)は識の変化であり、識が自身を依りどころとして映し出すものです。

  2. 眼などの感覚器官(眼根)の存在について

    • 眼などの感覚器官は、直接的に現量(実際の感覚体験)として得られるものではありません。

    • それらの存在は、識が生じることによって推測されるものに過ぎません。

  3. 機能としての眼根

    • 感覚器官(眼根)は、外部から造られたものではなく、識が働く際にその機能として認識されるものです。


2. 外部に実在する物質(外有対色)の否定

唯識の結論

  • 外部に実在する物質(外有対色)は存在せず、識の変化として現れるものが色(物質)です。

具体的な説明

  1. 外有対色の否定

    • 外部に実在する物質が存在するという理論は成立しません。

    • 色(物質)はすべて識が変化して現れたものと考えるべきです。

  2. 眼根と識の関係

    • 眼識(視覚の識)は、識が変化して生じた感覚器官(眼根)を依りどころとして発生します。

    • 眼根は外部の物質ではなく、識が内因縁の力によって変現させたものです。


3. 眼識が対象とする縁について

唯識の主張

  • 眼識が対象とする縁(所縁縁)は、外部に実在する物質ではなく、識が自身を変化させて現れた像です。

具体的な説明

  1. 所縁縁としての識の変化

    • 眼識が対象とする縁(所縁縁)は、識が自身を変化させて映し出したものであり、外部に実在する物質ではありません。

    • 例えば、眼識が捉える像は、識自身が映し出した相(似像)に過ぎません。

  2. 外部の物質の否定

    • 外部の実在物を縁(所縁縁)とする理論は成り立たず、識が自身を変化させたものだけが縁となります。


4. 五識(感覚の識)とその対象について

唯識の主張

  • 眼識を含む五識(五感に基づく識)が認識する対象は、外部の物質ではなく、識が和合して現れた像です。

具体的な説明

  1. 五識の対象としての識の和合像

    • 五識が認識する対象は、識が和合して生じた像であり、外部に実在する極微や物質的実体ではありません。

    • これらの対象(像)は識の変化として現れるものです。

  2. 極微の実体性の否定

    • 極微のような外部の物質的実体は存在せず、それらを識が分析して捉えることも不可能です。


結論

  1. 色(物質)は、識が内因縁の力によって変化して現れるものであり、外部に実在するものではありません。

  2. 眼根などの感覚器官も、識の働きによって推測される機能であり、外部の物質的実体ではありません。

  3. 眼識を含む五識が認識する対象は、識が自身を変化させて現れた像であり、外部の物質ではありません。

  4. 外部に実在する物質(外有対色)や極微の実体性は否定されます。

以上により、色(物質)や感覚器官を識から独立した実在物とする外道の主張は成立しません。すべては識の変化によるものです。

原文

彼和合相既非實有。故不可説是五識縁。勿第二月等能生五識故。非諸極微共和合位可與五識各作所縁。此識上無極微相故。非諸極微有和合相不和合時無此相故。非和合位與不合時。此諸極微體相有異。故和合位如不合時色等極微。非五識境。有執色等一一極微。不和集時非五識境。共和集位展轉相資有麁相生。爲此識境。彼相實有。爲此所縁

五識(眼識など)が極微や色(物質)を所縁(認識対象)とすることの否定


1. 和合相が非実在である理由

主張

  • 極微(物質の最小単位)の和合相(極微が集まって物質としての形をなす状態)は実在ではありません。

理由

  1. 和合相が実在しないため、五識の所縁にはなり得ない

    • 和合相が実在でない以上、五識(眼識・耳識など)の認識対象として成立しません。

  2. 第二月のたとえの否定

    • 「第二月」(二重に見える月)のような錯覚が五識を生じさせるわけではありません。

    • したがって、極微が集まって形成された和合相も五識の所縁ではありません。


2. 極微が五識の所縁とならない理由

極微の性質についての批判

  1. 極微が所縁とならない理由

    • 五識が捉える対象であるはずの識には、極微そのものの相(像)が存在しません。

    • 極微が和合していようと、不和合であろうと、その相が識上に現れることはありません。

  2. 和合時と不和合時の矛盾

    • 極微が和合して一つの相をなすとされても、その和合状態が不和合状態と異なる性質を持つことはありません。

    • したがって、和合相は五識が捉える対象にはなり得ません。


3. 和集位(極微が和合して形成される位置)の否定

外道の主張

  • 色(物質)や極微の一つ一つは、単独では五識の所縁となりませんが、極微が和合して相互に支え合うことで麁相(粗い形態)が生じ、それが五識の対象になると主張します。

反論

  1. 麁相(粗い形態)が実在しない

    • 和合して生じる麁相が実在であるなら、それは識上に明確に現れるはずですが、実際にはそのような相は存在しません。

    • 和合位が実在でないため、五識の対象にもなりません。

  2. 和合状態と不和合状態の違い

    • 和合状態にある極微と不和合状態にある極微に実質的な違いはないと考えられるため、和合によって新たな性質が生じるという主張は成立しません。


結論

  1. 和合相(極微が集まった状態)は実在ではなく、それが五識の所縁(認識対象)となることはありません。

  2. 極微そのものは、和合状態でも不和合状態でも五識の所縁とはなり得ません。

  3. 外道が主張する「和合した極微によって五識が麁相を認識する」という説は論理的に成立しません。

以上により、極微や色(物質)の実在性、そしてそれを五識の所縁とする外道の主張はすべて否定されます。五識が捉えるものは、実際には識が変化して現れた像に過ぎないのです。

原文

彼執不然共和集位與未集時體相一故。瓶甌等物極微等者縁彼相識應無別故。共和集位一一極微。各各應捨微圓相故。非麁相識縁細相境。勿餘境識縁餘境故。一識應縁一切境故。許有極微尚致此失。況無識外眞實極微。由此定知。自識所變似色等相爲所縁縁

極微の和合による物質形成と五識の対象性に関する批判


1. 外道の主張に対する反論

外道の主張

  • 極微が和合して形成された物質(瓶や器など)は、五識(眼識など)の認識対象となり得る。

唯識の反論

  1. 和合状態と未和合状態の矛盾

    • 極微が和合して形成された物体の性質(麁相)は、未和合状態の極微の性質(細相)と同一であるべきです。

    • 和合状態と未和合状態で性質が変化するという主張は矛盾を含みます。

  2. 認識の統一性に基づく矛盾

    • 和合状態にある極微(麁相)と未和合状態の極微(細相)の間で識が異なる対象を認識するならば、同じ識が両方を同時に認識できないはずです。

    • 一つの識がすべての対象を同時に認識するとする主張は論理的に成立しません。


2. 極微に基づく矛盾

外道の矛盾点

  1. 極微が持つ形状に基づく矛盾

    • 和合した極微の集合体(麁相)が識の対象になるとすれば、極微一つ一つがその形状(微細な丸い形状など)を捨て去ることが必要です。

    • しかし、極微がその形状を捨てた場合、極微自体の本質が崩れ、物質の基盤として成立しません。

  2. 他の対象と極微の認識対象性の矛盾

    • 極微が他の認識対象(麁相)と異なるものであるなら、一つの識が複数の異なる対象を同時に認識することは不可能です。

    • そのため、極微の存在自体に矛盾が生じます。


3. 唯識の結論

識が変化した像としての物質

  • 極微が和合して形成される物質(麁相)が外部に実在するものではなく、識が自身を変化させた像として現れるに過ぎません。

  • 物質や極微の実在性を認める外道の主張は、論理的に成り立たないことが明らかです。


結論

  1. 極微が和合して形成された麁相が、五識の対象として成立するという外道の主張には矛盾があります。

    • 和合状態と未和合状態の極微に本質的な違いがないため、物質の基盤としての極微は成り立ちません。

    • 一つの識が複数の異なる対象を認識することは不可能であるため、識の対象としての極微の存在も成り立ちません。

  2. 唯識の立場からは、物質や極微は外部に実在するものではなく、識が自身を変化させた像であると結論づけられます。

以上により、極微や物質が識から独立して存在するという外道の主張は完全に否定されます。すべての物質的現象は、識の変化によって現れるに過ぎないのです。

原文

見託彼生帶彼相故。然識變時隨量大小。頓現一相非別變作衆多極微合成一物。爲執麁色有實體者。佛説極微令其除析。非謂諸色實有極微。諸瑜伽師以假想慧於麁色相。漸次除析至不可析假説極微。雖此極微猶有方分而不可析。若更析之便似空現。不名爲色。故説極微是色邊際。由此應知。諸有對色皆識變現非極微成。餘無對色。是此類故。亦非實有。或無對故。如心心所。定非實色。諸有對色現有色相。以理推究離識尚無。況無對色現無色相而可説爲眞實色法。表無表色豈非實有。此非實有。所以者何。且身表色若是實有。以何爲性。若言是形便非實有。可分析故。長等極微不可得故。若言是動。亦非實有。纔生即滅無動義故。有爲法滅不待因故。滅若待因應非滅故。若言有色非顯非形。心所引生能動手等名身表業理亦不然。此若是動義如前破。若是動因應即風界。風無表示不應名表

色(物質)と極微の存在性、および表色(身体の動作)の実在性に関する考察


1. 極微と麁色の関係

唯識の主張

  • 極微(物質の最小単位)は実在せず、麁色(粗い物質)は識の変化によって現れるものです。

具体的な説明

  1. 識の変化としての物質

    • 識が変化する際、その対象は識の量に応じて大小が現れ、一つのまとまった相として認識されます。

    • これは、多数の極微が集まって形成されたものではなく、識が直接そのように変化して現れるものです。

  2. 仮説としての極微

    • 仏が極微について説いたのは、物質が実在することを示すためではなく、麁色を分析してその構成要素を観察する方法を教えるためです。

    • 瑜伽師たちは、仮想的な分析によって麁色を分解し、最終的に「不可分な仮説上の極微」に到達しますが、それも方分(方向や広がり)を持ち、さらに分解すれば空(実体がない状態)に至ります。

  3. 極微の限界

    • 仮説上の極微は、物質の限界点を示すものであり、識の変化として現れるものであって、実在するものではありません。


2. 有対色と無対色の否定

有対色(障碍を持つ物質)

  • 有対色は識の変化によって現れるものであり、極微から構成される実在物ではありません。

無対色(障碍を持たない現象)

  • 無対色は形相を持たず、心や心所(心の働き)と同様に、実在する物質的な色ではありません。

  • 無対色は識の外に存在するものではなく、識の内部に依存するものです。


3. 表色(身体の動作)の実在性の否定

身体の表現としての表色(動作)について

  1. 表色が形として説明される場合

    • 表色を形(物体的な長さや大きさ)として説明するならば、それは分析可能であり、実在ではありません。

    • 極微に分解しても、実際にそれを見出すことはできません。

  2. 表色が動作として説明される場合

    • 表色を動きとして説明するならば、それは一瞬で生じて消滅するため、「動き」としての性質を持つことができません。

    • 有為法(条件によって生じる現象)は滅する際に原因を待たずに消えるため、滅すること自体が「動き」ではありません。

  3. 表色が心の働きによるものである場合

    • 表色が心の働きによって生じ、手足を動かす結果として認識されるものであれば、それは風界(動きをつかさどる要素)であるはずです。

    • しかし、風界そのものには動作を表現する性質はないため、「表色」として説明することはできません。


結論

  1. 極微は識の仮説上の変化として説明されるものであり、実在の物質ではありません。

  2. 有対色(障碍を持つ物質)も無対色(障碍を持たない現象)も、識が変化して現れるに過ぎず、実在するものではありません。

  3. 表色(身体の動作)は、形としても動きとしても、あるいは心の働きの結果としても説明がつかず、実在性を持つものではありません。

以上により、物質的な色や表色を実在とする外道の主張はすべて否定され、これらはすべて識が変化して現れた仮の現象であると結論づけられます。

原文

又觸不應通善惡性。非顯香味類觸應知。故身表業定非實有。然心爲因。令識所變手等色相生滅相續轉趣餘方。似有動作表示心故。假名身表。語表亦非實有聲性。一刹那聲無詮表故。多念相續便非實故外有對色前已破故。然因心故。識變似聲生滅相續似有表示。假名語表。於理無違。表既實無。無表寧實。然依思願善惡分限。假立無表理亦無違。謂此或依發勝身語善惡思種増長位立。或依定中止身語惡現行思立。故是假有。世尊經中説有三業。撥身語業豈不違經。不撥爲無但言非色。能動身思説名身業。能發語思説名語業。審決二思意相應故。作動意故説名意業。起身語思有所造作。説名爲業。是審決思所遊履故通生苦樂異熟果故。亦名爲道。故前七業道亦思爲自性。或身語表由思發故假説爲業。思所履故説名業道。由此應知。實無外色唯有内識變似色生不相應行亦非實有。所以者何。得非得等。非如色心及諸心所。體相可得。非異色心及諸心所作用可得。由此故知。定非實有。但依色等分位假立。此定非異色心心所有實體用。如色心等。許蘊攝故。或心心所及色無爲所不攝故。如畢竟無定非實有。或餘實法所不攝故。如餘假法。非實有體。且彼如何。知得非得異色心等有實體用。契經説故。如説如是補特伽羅成就善惡。聖者成就十無學法。又説異生不成就聖法。諸阿羅漢不成就煩惱。

表業(身体の動作・言語の表現)の実在性と無表業の考察


1. 身体の動作(身表業)の否定

表業の性質について

  1. 触と善悪性の関係

    • 「触」という心所(認識作用)は、善悪性を通じるものではありません。

    • 触は色(視覚対象)・香(嗅覚対象)・味(味覚対象)と同じように、身体の接触によって得られる感覚的なものであり、善悪の性質を帯びるものではないため、身表業(身体の動作)は実在しないと結論づけられます。

  2. 識の変化としての身表業

    • 身体の動作は心が原因となって、識が変化して手などの動作や色相が生滅を繰り返し、連続的に現れるものです。

    • そのため、身体の動作(身表業)は実在の動きではなく、心の作用を表示する仮の名前に過ぎません。


2. 言語の表現(語表業)の否定

語表業の性質について

  1. 声の性質

    • 一瞬の声(刹那の声)は意味を詮表(表現)することができません。

    • 声が多くの瞬間にわたって連続的に生じた場合でも、それは実在のものではありません。

  2. 識の変化としての語表業

    • 声は心の作用に基づいて識が変化し、生滅しながら連続的に現れるものです。

    • これも仮に語表業と呼ばれるだけであり、実在ではありません。


3. 無表業の性質

無表業の仮設性

  • 無表業は実在のものではなく、善悪の意識や思考(思)が起こる際に仮に立てられる概念です。

    • たとえば、善い思いによって引き起こされた身体の動作や言語の表現、あるいは瞑想の中で身体や言語の悪い行為を止める場合などです。

仮設としての無表業

  • 無表業は、実在ではなく、善悪の行為や意識の連続性に基づいて仮に設けられたものです。


4. 三業(身業・語業・意業)と経典の教え

経典における三業の解釈

  • 経典では「三業」として身体・言語・意識の行為が説かれます。

    • 身業:身体の動作は、心が動かす力によって生じるものです。

    • 語業:言語の発声も、心が動かす力によって生じます。

    • 意業:意識が審査して動作や言語を伴う行為を行うことです。

三業と意識の関係

  • 身業や語業も、思(意識の一作用)によって引き起こされる仮設の概念であり、実在するものではありません。


5. 色(物質)や心所(心の働き)との関係

非実在性の結論

  • 色や心、心所と異なるものとして無表業を実在とすることはできません。

  • 色や心所に含まれないものとして存在することはなく、仮設に基づくものです。

経典による証明

  • 経典には「善悪の成就」や「聖者の修行」についての記述がありますが、それらは実在の無表業を前提としたものではなく、すべて仮設としての存在に基づいています。


結論

  1. 表業(身表業・語表業)の非実在性

    • 身体の動作や言語の表現は、識の変化として仮に現れるものであり、実在ではありません。

  2. 無表業の仮設性

    • 無表業も仮に立てられたものであり、実在するものではありません。

  3. 経典の教えとの整合性

    • 経典における三業や善悪の行為についての教えも、これらが仮設に基づいていることを示しています。

以上により、外道や他宗派が主張するような表業や無表業の実在性は論理的に成立しないことが明らかにされます。すべては識の変化によって現れる仮設の存在であると結論づけられます。

原文

成不成言顯得非得。經不説此異色心等有實體用。爲證不成。亦説輪王成就七寶。豈即成就他身非情。若謂於寶有自在力。假説成就。於善惡法何不許然。而執實得。若謂七寶在現在故。可假説成。寧知所成善惡等法。離現在有。離現實法理非有故。現在必有善種等故。又得於法有何勝用。若言能起應起無爲。一切非情應永不起。未得已失應永不生。若倶生得爲因起者。所執二生便爲無用。又具善惡無記得者。善惡無記應頓現前。若待餘因得便無用。若得於法是不失因。有情由此成就彼故。諸可成法不離有情若離有情實不可得。故得於法倶爲無用得實無故。非得亦無。然依有情可成諸法分位假立三種成就。一種子成就。二自在成就。三現行成就。翻此假立不成就名。此類雖多。而於三界見所斷種未永害位。假立非得名異生性。於諸聖法未成就故。復如何知異色心等有實同分。契經説故。如契經説此天同分此人同分。乃至廣説。此經不説異色心等有實同分。爲證不成。若同智言因斯起故。知實有者。則草木等應有同分。又於同分起同智言。同分復應有別同分。彼既不爾。此云何然。若謂爲因起同事欲知實有者。理亦不然。宿習爲因起同事欲。何要別執有實同分。然依有情身心相似分位差別假立同分。復如何知。異色心等有實命根。契經説故。如契經説。壽煖識三。應知命根説名爲壽。此經不説異色心等有實壽體。爲證不成

善悪の成就、得・非得、同分、命根に関する議論


1. 得・非得の定義と仮設性

得(成就)の仮設性

  • 得とは、善悪の行為が成就した状態を意味しますが、実在の色や心、心所と異なり、実体としての存在はありません。

  • 得・非得の存在を証明するために、経典では「輪王(転輪聖王)が七つの宝(七宝)を成就した」と説かれます。

    • これは、輪王が他者の身体や非情物(情感を持たない物)を実際に成就するわけではなく、それらに対する支配力を持つという意味の仮設に過ぎません。

善悪の成就と仮設性

  • 七宝が現存している間に「成就」と仮設されるならば、善悪の行為やその結果も現在の状態に基づいて仮設されるべきです。

  • 現在に存在しない善悪の結果を成就とすることは論理的に矛盾します。


2. 得・非得がもたらす結果の議論

得が有する力についての議論

  1. 得がもたらす結果

    • もし得が法(存在)に対して「生じる力」を持つならば、非情物(感覚を持たない存在)も永遠に「無為」な状態にとどまることがなくなります。

    • すでに失われたもの(未得)が再び生じないのはなぜか。

  2. 善悪が同時に現れる矛盾

    • 得が善・悪・無記(中立的な性質)をすべて兼ね備えるならば、これらが一度に現れるべきですが、実際にはそうではありません。

  3. 得の因としての無用性

    • 得が法の「失われない原因」であるならば、その得自体が無用となります。

    • 得によって成就する法は有情(生きた存在)と切り離すことはできず、有情に依存した仮設に過ぎません。


3. 仮設としての成就と不成就

三種の成就の仮設

  • 成就とは、有情(生きた存在)が成し遂げる法の分位(段階)を仮設したものです。

    1. 種子成就

      • 法を生じさせる種子(潜在的な原因)が成就している状態。

    2. 自在成就

      • 特定の法に対して自在に支配力を持つ状態。

    3. 現行成就

      • 直接現れている行為や結果の成就。

不成就の仮設

  • これに対し、不成就はこれらの条件を満たさない状態を仮設したものであり、いずれも実体ではありません。


4. 同分の存在性に関する議論

同分(同じ性質を持つ存在の集まり)の仮設性

  • 同分とは、天人や人間などが共通して持つ性質を指します。

  • 経典においても「この天界の同分」「この人間の同分」などが説かれていますが、これは仮設に過ぎません。

同分の矛盾点

  1. 草木にも同分を認めるべきか

    • 同分の存在を実体として認めるならば、草木にも同分が存在することになり矛盾が生じます。

  2. 別の同分の必要性

    • 一つの同分が存在するならば、それを支える別の同分が必要となり無限後退が発生します。


5. 命根の存在性に関する議論

命根(生命の基盤)の仮設性

  • 命根とは、生命を維持する寿命や温煖、識を指します。

  • 経典には「寿命・煖・識の三つが命根である」と説かれていますが、これは異なる色や心と関係なく実体を持つ命根を示すものではありません。

命根の矛盾点

  • 命根を実在とする場合、それは色や心、心所に含まれない新たな実体を認めることになりますが、経典にはそのような教説はありません。


結論

  1. 得・非得の非実在性

    • 得や非得は善悪や行為の成就を表す仮設に過ぎず、実在ではありません。

  2. 同分と命根の仮設性

    • 同分や命根も有情の特徴を説明するための仮設であり、実体として存在するわけではありません。

  3. 仮設としての成就と不成就

    • 成就や不成就もすべて仮設に過ぎず、外部の実在するものとして認めることはできません。

以上の議論により、得・非得、同分、命根のいずれもが仮設の範囲内に留まり、実在するものではないと結論付けられます。

原文

又先已成色不離識。應此離識無別命根。又若命根異識實有。應如受等。非實命根。若爾如何經説三法。義別説三。如四正斷。住無心位壽煖應無。豈不經説。識不離身。既爾如何名無心位。彼滅轉識。非阿頼耶。有此識因後當廣説。此識足爲界趣生體。是遍。恒續。異熟果故。無勞別執有實命根。然依親生此識種子。由業所引功能差別住時決定假立命根。復如何知。二無心定無想異熟。異色心等有實自性。若無實性應不能遮心心所法令不現起。若無心位有別實法異色心等能遮於心名無心定。應無色時有別實法異色心等。能礙於色名無色定。彼既不爾。此云何然。又遮礙心何須實法。如堤塘等假亦能遮謂修定時於定加行厭患麁動心心所故。發勝期願遮心心所。令心心所漸細漸微。微微心時熏異熟識成極増上厭心等種。由此損伏心等種故。麁動心等暫不現行。依此分位假立二定。此種善故定亦名善。無想定前求無想果。故所熏成種。招彼異熟識。依定麁動想等不行。於此分位假立無想。依異熟立得異熟名。故此三法亦非實有 成唯識論卷第一

命根・無心定・無想定の議論


1. 命根(生命の基盤)の非実在性

命根が識と異ならない理由

  • 色(物質)が識(認識)を離れて存在しないように、命根も識を離れて独立して存在することはありません。

  • 仮に命根が識と異なる実在であるならば、それは受(感受作用)などのように、独立して認識可能な実体であるはずです。しかし、命根はそのようなものではありません。

経典の三法(寿命・温煖・識)の解釈

  • 経典に「寿命・温煖・識の三法が命根である」と説かれているのは、これらが独立した実体を指しているのではなく、生命の持続を説明するための仮設として用いられています。

  • 生命の持続は識の種子が業の作用によって機能し、一定期間続くことで仮に命根として成立すると考えられます。


2. 無心定・無想定の非実在性

無心定の性質と否定

  • 無心定とは、心や心所(心の作用)が一時的に現れなくなる状態を指します。

  • 無心定を成立させるために、心や心所を遮る独立した実体が必要であると考えるのは誤りです。

    • 例えるならば、堤防やダムが水の流れを一時的に遮るように、仮設の力でも心や心所を遮ることが可能です。

修行過程における心の抑制

  • 定(瞑想)の修行では、心や心所の粗雑な動きを厭い、それを遮る強い意志や願いが働きます。

  • この意志や願いによって心や心所は次第に微細化し、ついには一時的に活動が停止します。

  • この状態に基づいて無心定が仮設されますが、実在するものではありません。


3. 無想定と異熟識

無想定の性質

  • 無想定とは、無想果を求める修行者が心や想(思考)を停止させる状態を目指して修行した結果生じる状態を指します。

  • 修行の過程で無想果を目指す意志が異熟識(阿頼耶識)に影響を与え、粗雑な心や想が現れなくなります。

  • この状態に基づいて無想定が仮設されます。

異熟識と無想定の関係

  • 無想定の成立には異熟識が関与しています。異熟識とは業の結果として現れる識であり、修行による影響を受けて心の活動が抑えられることを説明します。

  • 無想定は仮設されたものであり、実在の法ではありません。


4. 三法(寿命・温煖・識)の非実在性

三法の仮設性

  • 寿命・温煖・識は、それぞれ命根や心の活動を説明するための仮設的な概念です。

  • これらは生命活動や心の現象を説明する便宜的な構造であり、実在の法として認められるものではありません。


結論

  1. 命根の非実在性

    • 命根は識(認識)を離れて実在するものではなく、仮設された概念に過ぎません。

  2. 無心定・無想定の非実在性

    • 無心定や無想定は、修行によって心や心所が一時的に停止する分位(段階)を仮設したものであり、実体ではありません。

  3. 三法(寿命・温煖・識)の仮設性

    • 三法も実在のものではなく、生命現象を説明するための仮設に過ぎません。

これにより、命根や無心定、無想定が実在するという考えは論理的に成立せず、すべて仮設に基づいたものであることが示されます。

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