社会人の義務と責任
義務&責任の源「認知」
人としての礼節、大人として義務や責任
社会人としての応対対応、報・連・相は、
総てが相手を認知=「認める(≒信認)」の
原点と言え、人と人との和の礎です。
また、誰でも認知=「認められる」ことで
自信が付き行動もスムースに成れます。
逆に「認められない」と少しでも感じると、
ネガティブな意識に成ったり自己中心や
反発したりする利己的な活動をしがちです。
最近、
私生活やビジネスでのデジタルツール
メールやメッセージに相手に対する
認める認知意識が表れ易いものです。
自分に来たメールやメッセージを
読まずに無視したり、既読スルー
したりしたことが原因(起因)となり、
信頼を失いいじめやハラスメント、
犯罪の要因の一つなっている場合
も少なからず見聞きします。
もっとも簡単で疎かしてしまいがちな
心身の活動「認め合う」は人間関係の礎
と強く意識しておきましょう。
【礼節】を知る
大人(≒社会人)は「礼節」を弁えてこそ、
初めて一人前の社会人と言われています。
謙虚な心で(謙遜)、相手を尊び敬い、
行いを丁寧にすることを「礼」と言います。
この「礼」を其の場、其の時に即して、
状況に応じて(Т.P.О)自らが様々な
回答、報告、連絡の言行が出来るように弁え、
言葉や態度、行動に現すことを「節」と言います。
子供と大人(成人≒社会人)の違いは、
この「礼節」と「義」が何の意かを知り、
礼節を備え身に着ついているか、否か。
であるとも言われています。
しかし、
最近の若手経営者の中には、
人の心とも言える社会通念
より自己判断を優先し礼節
(敬語・意思表示・意志決定・
報告・連絡など)を軽んじる人
も少なくありません。
[礼]
※礼とは、
様々な行事の中で規定されている
動作や言行、服装や道具の総称。
人間関係を円滑にすすめ社会秩序
(儒家にとっては身分制階級秩序)
を維持するための道徳的な規範
をも意味します。
「礼に始まり礼に終わる」は
武道の基本とされています。
松下幸之助氏の教え
「一日一話」から引用
我々お互いが、
自ら進んで常識を豊かにして行くとか、
仕事の力を更に高めて行くことは、
勿論自分自身の為ではありますが、
それは同時に社会に対する一つの
義務でもあると思います。
例えば、
我々の社会で総ての人が一段ずつ
進歩したとするならば社会全体も
一段向上します。
ところが
他の人が皆三段進歩したのに
自分は一段も進歩しなければ、
社会全体の平均の段数は
三段上がらないことになります。
自分ひとりのために、全体の水準の
向上が犠牲になるわけです。
我々は、このような社会人としての
義務感を確り認識し、日々努めて
行かなければならないと思います。
※以上引用終わり
【礼】の解説-論語[顔淵第十二]
『礼に非れば、視ること勿れ』
(解説)
礼にかなっていなければ、
それを見ようとするな。
『礼に非れば、聴くこと勿れ』
(解説)
礼にかなっていなければ、
そんなものに耳を貸すな。
『礼に非れば、言うこと勿れ』
(解説)
礼にかなっていなければ、
そんなことに口を出すな。
『礼に非れば、動くこと勿れ』
(解説)
礼にかなっていなければ、
そんなことで行動するな。
AI化が進む情報世界の現在、
人と人との繋がりや和が改めて
見直されている環境です。
恐れ多いですが上記の論語の文言に
「礼に非れば、認めること勿れ。」
「礼に非れば、繋がること勿れ。」
この言葉も入れても良いのでは。
この【礼】と切り離せないお辞儀は、
相手への信認、相対する人への敬意
=尊び敬う心を表し伝えるために
進んて行う所作と言えます。
人は自らの心で、
己の態度や言動を見つめることで
自分自身の品位を築きそれを高めます。
お辞儀などの「礼法」を修得することは、
「心法」と言い自らの品位を高めますし
同時に品格を育みます。
社会人(人間)としての義務と責任
【義務】
人として行うべきこと。
特定の個別的な行為や一般的な
行為を意識すること言います。
即ち、
人に課し、人を拘束する、習俗、
法律、道徳の規範を指します。
【責任】
責任は、何らかの行為を行ったことだけ
について適用されるのではなくて、
行われるべきだったのに行われなかった
ことに対しても適用されます。
この義務・責任の意識を表し、自他の
安心と人との繋がりを重んじる言葉に
「自分の発した言葉に責任を持つ」
と言うことがあります。
簡単な事例として 、
何かを依頼主が依頼した人に対し、
自分の発した言葉の重さを自覚し
その内容を実施・報告すること。
敢えて言うなら、其の場凌ぎの言訳
などの言動を差し控えることです。
この簡単で安易なことが出来ず、
大切な人や友人、周りの人から
社会人の信頼を失うことがあります。