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踏み絵・ケツアゴ・野球肘【後続語依存の日本語の性質】

M1グランプリ決勝前日

今イチオシのお笑いコンビがいる。

2016年結成、吉本興業所属の『エバース』だ。

吉本興業株式会社「エバース」
https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=8988

昨年はM-1グランプリで準決勝、敗者復活戦まで行ったが、今年はついに決勝の舞台まで進んだ。(当記事を塾の通信に掲載した段階では3回戦進出だったのですが……前評判通り順当に勝ち上がりましたね、おめでとうございます!)

連覇を狙う令和ロマン、昨年の雪辱を果たそうとするヤーレンズ、決勝常連の真空ジェシカなど、強敵ぞろいだが存分に暴れてお茶の間を賑わせてほしい。


クラシカルなしゃべくり漫才

彼らのスタイルはしゃべくり漫才。

良くも悪くもしゃべくり漫才の減ってきているお笑い界(2020年のM-1グランプリでマジカルラブリーの優勝が波紋を呼んだのも記憶に新しい)においては、比較的オーソドックスなスタイルだ。

というかオーソドックスを超えてクラシカルな趣がある。

落語の構成に非常に似ているのだ。

日常に潜むちょっとした疑問を、ボケの佐々木がちょっとズレて投げかけるのに対し、相方の町田が調子を狂わされながらもツッコむ。

そこで繰り広げられる禅問答は、まるで落語の八っつあんや熊さんとご隠居のやり取りを見ているようだ(落語の登場人物は記号化されており、異なる演目であっても同じ名前・似たような性格で登場する)。


野球肘?肘野球?

そんな彼らの漫才でお気に入りのネタに『野球肘』というものがある。

以下に冒頭でのやり取りを紹介する(一部省略)。

町田「実は僕ね、中学の時野球部だったんですけど。そん時に練習のし過ぎで、野球肘やっちゃって……。」

佐々木「野球肘…?野球肘……?あのピッチャーが投げてきたボールを、バットの代わりに肘で打つやつ??」

町田「それは肘野球。俺が言ってんのは野球肘。」

佐々木「え、でも野球肘って言葉っておかしくない?だって野球にまつわる言葉って、プロ野球とか、草野球とか、後半に野球って単語がつくと思うんだけど。」

町田「それは野球がメインの時な。プロがやる野球、プロ野球。俺のは野球で痛めた肘。だから野球肘。」

エバース「野球肘」

こんなやり取りからこのネタは始まるのだが、このやり取りを聞いてあることを思い出した。


小学五年生の時のこと。

当時の担任の先生が子供たちから影で「アゴケツ」と呼ばれていた。

アゴが二つに割れて尻のようになっていたからである。

しかし私はそれを聞いて子供ながらにいつも疑問に思っていた。

「アゴケツって言ったら、アゴのように鋭角に突き出したケツのことじゃねーの?ケツみたいなアゴだってんならケツアゴと呼ぶべきでは?」と。

アゴケツ?


歴史用語の一つ「踏み絵」についても同様の現象が見られる。

本来「踏み絵」とはキリスト教の信徒を発見するための手法である「絵踏み」において使用される絵のことである。

だが、信徒を発見するための手法そのものと混同され、「踏み絵を踏むこと」が「踏み絵」と表されることがあるのだ。


日本語の文法では基本的に、前置修飾(前に置かれる修飾語が、後ろの被修飾語に係ること)しかできないこととなっている。

前に置かれる言葉は文の装飾であり、主要部は後ろにあるため、語末・句末にある言葉がその語・句の全体としての意味を支えるのだ。

したがって「野球肘」の本質は「肘」であるし、「ケツアゴ」の本質は「アゴ」、「踏み絵」の本質は「絵」であることになる。


もっといえば、日本語では修飾・被修飾語のみに限らず、先行語が後続語に依存する。

述語・述部で最終的な文意が決定する「文末決定性」という日本語の特性はそのことを端的に示す。

たとえば「彼は公園で友達に(   )。」とした場合、この文が平叙文(肯定文・否定文)なのか、疑問文なのか、能動文なのか受動文なのか、使役文なのか、時制は過去なのか現在なのか、一切わからない。

それほどまでに述語・述部は文意を支える重要な要素となるのだ。


「記述は文末から考えよ」

したがって私は普段から「記述は文末から考えよ。」と指導している。

もちろん書く際は上から書くのだが、重要度は文末に近づけば近づくほど上がる。

どれだけ前半でうまく書けても、文末の処理を間違えてしまうと台無しだ。


普段小中学生を見ていると、記述問題でのミスのうち文末処理で失敗しているケースが非常に多いことがわかる。

ピリオド・クエスチョン忘れや単位の付け忘れに気を付けるのと同様に、日本語の文末処理も真っ先に気を付けるべきものなのだが、どうも軽視されているらしい。


私はその原因の一つが普段のコミュニケーションにあると考えている。

子どもたちは日々のやり取りの中で、「~とか」「~みたいな」などと文末をぼかしたりすることが癖になっている。

出だしは調子がいいのに、末尾に近づくにつれて声が小さくなってくる子も多い。


これは子供に限った話ではないが、日本人はとにかく断定を避ける傾向にある(日本語コミュニケーションにおける曖昧不鮮明さは以前コラムに書いたことがあるのでここでは言及しない)。


断定しないことを美徳とする見方もあるし、そのような在り方が社会的に、心理的に役に立っている部分もあるだろう。

しかし、論理的・客観的記述の求められる国語という教科においては、きわめて不適合な性質であると言わざるを得ない。

感情の世界と論理の世界は分けるべきなのだ。

というわけで塾生には「画竜点睛を欠く」ことのないように、普段からもっと文末の処理にこだわってほしい。



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