研究の再起動―きっかけとしての小説「遅れてきた青年」(大江健三郎著)再読
夜も更けて、暑い一日が終わろうとしている。こんなに暑い日に「学術研究」や「小説執筆」のようなクリエイティブな活動は可能なのか?という問いが浮かび上がる。
このnoteを書いている夜の時間帯、私は、先日業者に発注した「英文校閲」の納品を待っている。もうすぐ納品されるはずだ(が、まだ来ない)。なぜ「英文校閲」を発注したかというと、私が書いた「英語論文」を「英語の図書」に投稿するためである。「英語の図書」は、キプロスの大学の先生が編集したものである。昨年12月にこの図書の一つの章の執筆者になるために、プロポーザル(原稿の要旨のようなもの)を投稿したところパスした。その後順調に原稿を書き進めるはずが、断念した。理由は私が管理職になったからである。管理職になったため、研究(執筆)に時間をとれなくなったのである。その状況については記事「管理職とは」に書いてある。
「時間が無い、管理職になったから」を言い訳に、「英語の図書」を記憶のどこかに追いやった。忘却の彼方に。しばらくたったある日、キプロスからメールが来た。「Hi!元気ですか。原稿、提出しませんか?」日本なら原稿未提出者にそんな陽気な表現のメールは送らないだろう。日本が陰険なのか、キプロスが陽気すぎるのか、よくわからないが、私は陽気なそのメールに「地中海の風」を感じ取った。「地中海」は、戦火の近くである。そして、キプロスの政治や歴史を紐解くと、戦火と隣り合わせだったことが分かる。それでも、「地中海」の風景が私の頭をよぎる。
「原稿を書こう!」およそ1時間の逡巡の後、私は決意した。「地中海」のイメージや文化に誘われたのだろうか。私は、「研究の再起動」に一歩踏み出した。そして原稿を書いて、今、英文校閲の結果を待っている。しかし私は、1時間の逡巡だけで、「管理職であることを言い訳にしないで、研究を再びやってみる方向」に踏み出せたわけではない。そこには一冊の小説があった。「逡巡」の前に、私は読書をしていたのだ。
「一歩踏み出したい」「生き方を変えたい」「わかってもらいたい」…およそ、人間はこのような切実な心の叫びと隣り合わせで生きている。それがうまくいかないとき、自分を傷つけるか他者を傷つけるか、になりやすい。そのことが生産的でないとわかっていても。それ以外の方法はなかなかみつからないだろう。およそ、私たちは、映画を見たり、youtubeを見たり、音楽を聴いたりする。しかし、そのことによって根源的な苦悩が解決することは稀である。
スティーンズというnoteの作者グループがいる。その記事では、「憑依系シンガーソングライター【花崎あん・18歳】」が紹介されていた。たしかに憑依系なので、衝撃度は強い。これくらいの作品を聞けば、「一歩踏み出すための契機」になるのではないか、と思った。しかしながら、憑依系というか、衝撃を与えるという意味では、ノーベル賞作家の大江健三郎の作品も類似のカテゴリーに入るのではないか。音楽でも小説でも何でもよい。人がその生きる意味を見出したり、生き方を変えられるのなら。
私が研究を再起動する決意に至るまでは、1時間の逡巡があったが、その前に(実際には前の晩に)小説を読んだことが大きな位置を占めている。その小説とは、大江健三郎著「遅れてきた青年」(新潮社)である。
大江健三郎はその難解な文章と高度なフィクションでよく知られている。小説の英訳も刊行されている。英語版の小説は大学院生の時に読んだことがある。調子に乗って、そのことを日本文学専攻の大学院生に話したら、「日本語でも小説をよんでください。」と言われた。それはさておき、大江健三郎の小説と私の出会いは、高校生の時に遡る。いや、背表紙だけなら、小学生の時に遡る、といってもよい。
小学生から大学院修士課程までの時、父の図書のコレクションのおかげで、書物一杯の本棚に囲まれて過ごした。所狭しと、廊下にも本棚があった。その中に、畔柳二美の小説「青いりんごのふるさと」(少年少女学研文庫)という本があった。小3の頃、この本を夢中になって読んだことは覚えている。いわさきちひろの美しい装丁にふさわしく、少年と少女の美しい交流が描かれて小説が始まる。しかし、少年は突然姿を消す。その訳は? 少女の前にかなしい結末が待っている。読後、いわさきちひろの表紙のイラストが哀しい物思いをしているように見える。当時の日本は、まだ、1970年代末だった。日本の政党政治には、保守と革新が健在だった。イラン・イラク戦争など、世界情勢も決して安定していたわけではない。日本の国と社会と人々は、第二次世界大戦の爪痕を引きずり、「戦後」を意識し、占領国アメリカを仰ぎ見ていた。
父の本棚には「青いりんごのふるさと」のほか、ハードカバーの本の一群があった。それらのページを開けてみても、小学生には難しすぎるので、廊下に出ている本棚に所蔵されている本の背表紙だけ読むことになる。今思えばそれも素晴らしい勉強だったのかもしれないが、小学生とはいえ本好きの私には、毎日、廊下で背表紙が否応なしに目に入ってくる。特に記憶に残ったのが、大江健三郎の著作群だった。当時の私は小3だ。高尚な文学的理由で大江健三郎という偉大な作家に注目したわけでは決してない。大江健三郎の著作群に注目した理由は、その鮮やかな(芸術的な)背表紙や表紙からだった。
「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」「芽むしり仔撃ち」「個人的な体験」「同時代ゲーム」「新しい人よ眼ざめよ」。これらの本が書棚にあったはずである。大江健三郎の著作群の図書のカバー(ハードカバーの場合箱に入っている)は芸術的にできている。「遅れてきた青年」も例外ではない。
高校生になり、本棚から取り出して「遅れてきた青年」を読んでみた。青年が「ナゼ遅レテキタノカ」を知りたかったからである。高校生になっても難しい印象を受けた。しかし、おおよその内容はわかった。再読なら、なおさらである。
この小説では、「戦争二負ケタ」ことを知った少年(大江健三郎の半自伝らしい)が、進駐軍に出会い、小学校の教室で「日本はなぜ負けたか、科学的でなかったからだ」と担任教師に100回書かされる。その後、さまざまな出来事がある。ここまでが、「第1部 1945年夏、地方」。第2部では、一転して舞台が東京に移る。それが「第2部 195*年 東京」である。東京では、少年は、大学生、つまり青年になっている。ある機関に行って自分の過去を抹消した後、政治的闘争に身を委ね、暴力を目の当たりにする。政治家(沢田豊比古)との絡み合いがあり、国会の文教委員会にも登場する。最後は、山崎豊子「白い巨塔」(新潮社)の「里見への手紙」を彷彿させるような、時空を超えた余韻のある終わり方をしている(と言ったら不適切だろうか)。
「今、わたしはこの手記をおわる。すでにわたしはいかなる人間の情熱をかきたてるヒーローでもなく、いかなる世代の証人でもない。わたしは、あなたとおなじだ。」(大江健三郎「遅れてきた青年」新潮社、電子版、653頁)
このような時代の中の人間とその本質を問うストーリーを再読し、私の中には、「研究の再起動」が生じた。「いかなる世代の証人ではない者に何かできるのか?」「もう一度やってみよう。」1時間逡巡したのち、私は、キプロスにメールの返信を送った。「この英語の原稿を書きます」と。
さて、このnoteを書いている最中に、英文校閲が納品された。明日は、原稿の直しに取り組まなければならない。およそ、小説にせよ、学術書にせよ、舞台にせよ、作曲にせよ、何にせよ、創作活動は容易ではない。創作活動に憧れる者は多いが、その苦しみを知る者はどれほどいるだろうか。
私は、大江健三郎著「遅れてきた青年」によって前を向くことができた。それは、かつての前を向くことと質的に異なるだろう。前を向けば解決する問題ではないこともわかっている。しかし、「一歩踏み出した」ことには変わりはない。一歩踏み出した先に何があるのか。それは、人間の苦悩を認識して生きる、または創作することであろう。誰かを救うとか、Well-beingが大事だとか、簡単に主張するのではない。そうではなくて、人間の苦悩のプロセスと向き合うこと自体に意味を見出すことになる。そのことは必然的に「礼儀正しくうなずいているわけにはゆかない」(同上文献、661頁)状況になるのかもしれない。この小説のあとがき「《遅れてきた青年》とぼく自身」において、同書の著者は次のように述べている。
「いかなるかたちのダイナミズムも、ぼくはそれを拒否しないが、ここに、少年ファシスト的心情の広告を見出すようなたぐいの、およそ想像力に欠けた批評家にたいしてまでは、礼儀正しくうなずいているわけにはゆかないのである。」(同上文献、660-661頁)
追記 本稿の著作権は執筆者に属します。copyright Dr Hiroshi Sato 2022 All rights reserved
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