文殊の知恵、とはいかなかった3人の会話から何かを学べるとしたら?
見たまんま以上の「そこにある現実」を知ることが出来る可能性
見たまんまそのままじゃないってことを知っておくと、現実はまるで変わる。現実が変わってしまうということがあるのをご存じでしょうか?
ここでいうところの「現実」とは起きた出来事そのものという意味では無い、とお話しておきましょう。客観的に「見える出来事」としての現実のことではありません。
ここでお話している、まるで変わってしまう「現実」とは、私たちが「体験する現実」ということ、主観的な体験による実感のことです。
目の前で何かの出来事があったとして、まず、それを見ていた自分が何かを感じるということが起きます。
これはどなたにも起きることですよね。
悲しそうなことが起きていたら悲しいだろうなぁと感じる、というようなことです。嬉しそうなことが起きていたら嬉しいだろうなぁと感じるということですが。
何を言っているのだ、その通りじゃないか!と思われるでしょうか?
例えばこれを普通のこと、当たり前のこと、と思っていますか?
そこに見たものが「そのままの見たままの意味」以外の意味を持っていることがあります。それはたくさんあります。しかし私たちは自分の過去の経験から信じ込んでいる世界観の中で外に起きたことを見て判断しているので、相手に起きていることを認識しないまま誤解したままでいるということも多く起きているのが実際です。
それを知らないままでいるか、他のことが起きている可能性を自分の中に用意しておくのか、ということで体験も体験に与える意味も違った物になっていくでしょう。
「見たままの意味」以外の意味を持っていることがあるのだということを端から知っているのと知らないのとでは、その後の展開力が随分と違うものになってしまうのです。人間関係も、仕事の対応も、もっと長期的なこともです。
まるで違う、ということがどういうことなのかを少しお話ししましょう。
文殊の知恵とはいかなかった三人の会話
例えば、これは実際にあったお話です。(わかりやすくするために使っている言葉は少し変わっています)
とあるワークの場に3人が集まったときの会話です。
Aさん 「数時間ご一緒していて思ったのですが、今日は元気がありませんねОさん」
Оさん 「えっ? 元気ない?」
Rさん 「あ、わたしもそう思ったんですよ。大丈夫ですか?」
Оさん 「えっ ? Rさんもそう思うのですか? 」
Aさん 「何か落ち込んでいらっしゃるのかな…と思って。いつもだともっと押せ押せな感じで喋ってると思うので。でも今日は喋ってはいるけれど、雰囲気が元気無いっていうか…。だから何かあったのかなと。」
Оさん 「自分が元気が無いって見えているとは思ってもなかったので、驚いています。落ち込んでるって見えているんですか?」
Aさん 「はい。見えました。そういう時もあるんだなと思って。なんか…元気出してくださいね。」
Rさん 「私も、そうだと思ったのですが。何かショックなことでもあったんだなって思って。それで落ちてるのかと…」
Оさん 「…えっ。えっ…?」
この時、実際のОさんは落ち込んではいなかったのです。精神的にも落ちてもいなかったのです。ですからそう言われて、驚いてしまいました。返事にも困ってしまいました。
というのも、自分に大きな変化があったのは事実でした。それはこれまで信じていたことが変わってしまうような大きな衝撃を受けたということがあって、それをきっかけにもっと自分と真摯な姿勢で出会っていく必要があるなと決意したばかりだったのです。
それはOさんにとってみれば、衝撃ではありましたが、ひとつ大きな壁に大きなヒビが入って崩れていき、これまでの世界からより広い所へとようやく出ることが出来たという解放感さえ感じるような出来事だったのです。
「よし。もっと自分と向き合っていくぞ!」
そう心に決めて、いつもの集まりに出かけた直後の体験でした。そこで何かよく無いことがあって落ち込んでいるのかもしれないけど、大丈夫? と言われ、さらに元気出してねと言われてしまったOさんは言葉を失ってしまったそうです。
「えっ…?」
そうなった後、そう見える自分のことを考えて、考えて過ぎてしまって、
「私は衝撃を受けて、気が付いたような気がしていたけれど、これまでから飛び出したような気がした自分がいたけれど、本当は気が付いてなどいなかったということなのかな…。間違っていたのかな。」
そう迷い始めてしまったそうです。そうすると、ぐるぐるは止まりません。
Оさん 「そうではなくて…。そうではないけどえっと…、でも違うんですたぶん…」
Rさん 「あっ、違うんですか?あれ?」
Aさん 「えっ、じゃぁ、どうしたんですか?」
Оさん 「でも、お二人からは、私は元気が無いように見えるんですよね? 落ち込むようなことは起きてないんだけど…」
「……」そして3人ともが黙ってしまいました。
ぐるぐるしているうちに、3人の思いも言葉もぐるぐるになってしまいました。どうお話ししたらいいのか、何を話したらいいのか、まるでわからなくなってしまったようです。
混沌をほどきたいという3名様からの救難依頼!
ここで私にその3名様から起きていることの説明と相談がありました。こんがらがったように見える現状を解きたいということです。
「そもそも二人からはOさんが『とても元気が無い』ように見えたようだけれど、そうとは限らないじゃない? 」
「んっ…?」 三人それぞれが頭の中で何かがくるくるしているようです。私は続けます。
「実際は『おめでとう!』なのかもしれない。」
「落ち込んでいるように見える人が、実際はついさっき頭を壁にぶつけて、ようやく向こう側に初めて青い空が見えた、そんな瞬間を体験したばっかりの状態かもしれないのです。ってこと考えてみようか…」
「言われた方も、元気が無い、落ち込んでる、何かよくないことがあったのかもしれない、というようなことを言われた時に、そのままそれを取り込んで自分が迷い始めるというのでは無くて…そうじゃなくていいのかもしれない。」
「壁の向こう側の空が見えるなんていう滅多に起きないような体験をした時の人って、外から見たときにはそれはまるでよくないことが起きているように見えたり、起きていることとは逆に落ち込んでいるように元気が無いように見えたりすることもあるのかもしれないって。そう新たに仮定して考えてみることもあっていいんじゃない? っていう話なのかな。」
「良くないことでもあったの? いつもより元気ないですねって他者からツッコミを入れられた時に、
『今までが浮かれていただけだよ。』
なんて、Oさんが笑って返せるようになれたらいいね。っていう話なのかもしれないよ。」
3人は目をパチクリさせていました。どうもびっくりしたようです。誰かが悪いとか間違っているとか、あるいは何が正しいか、というような方向付けのある話にはならなかったので、3人のそれぞれがさらに考えるという宿題を持って帰ることになったようです。
すでに信じ込んでいるものがある、のが私たち
私たちにはすでに信じ込んでいる「信念体系」というのがあって、それはひとりずつに誰にでもすでにある、存在しているものです。これまでの経験や、家族の中で体験した、というところから信じ込んでいる世界感のことです。私たちが思い込んでいる、良い悪いとか、それはこうするものだ、あれはこういう意味だというような世界観です。人はされたことを繰り返して今度は他者に対して行うという面も持っていますから、どのような環境でどのような感情経験をしてきているのか、人それぞれが信じてる物語を持っていると考えてみましょう。
それを持った上で、目の前に起きることに反応し、判断し、言動するというのが私たちの常で、それは「事実」では無いことも多いのが現実です。私たちは、すでに信じている世界観から、お互いが見たいもの、見たい世界を目の前に作り出してしまう傾向があるということを、日頃から無自覚に行動してしまっている、そんな存在のようなのです。
これを治すとか直すとか、正すとか、手離すとか捨てるとか、そういうやり方に意識を向けていくというのではありません。間違っている自分や他者を責めるということでは全くありませんので、ここでゆっくりと立ち止まって考えて、そしてゆっくりと歩き出してみましょう。
否定するとか、正すということでは無くて、人って多くの場合こういうことを無自覚にやっているよねという「私たち人という存在が持っている特徴」ということにどんどん詳しくなっていこうとすることで、勘違いや思い込み、さらにはそれを押しつけてしまうことも、日常で誰でもが起こしている可能性のあることなんだと否定せずに知っていくことで、やがてこの世界全体を見る目が変わってしまうような体験していくことが可能になっていくでしょう。
そこにあるのは、勝手に他者の経験や状態を断定しないということでもあります。自分から見ると「そう見える」ようなことは起きているようだけれども、それはその人にとって「一体何があったってことなのだろう?」ということをこれまでより広い視野で考えてみる、ということを自分の中に起こすことが出来るようになるかもしれない、ということです。実際、その場所で起きていることを極力偏らずに見ようとした場合、これが一番現実に近いでしょう。
自分には自分の思い込みというものがあるのだと自覚した上で、出会う物事を見ようとするという意識を持つということは、とても現実的なことです。現実的なことではありますが、これまでの習慣に流されそうになる自分自身と出会うということも起きるでしょうから、ここは練習になります。思い込みに流されずに踏みとどまることがより可能になっていくか、意識を向け続けること自体が練習になります。
その先にあるのは、誰かを無自覚に追い詰めていったりしないということかもしれないし、なんでもお話ししてみてくださいと、あるだろうものをまずは聞こうとする姿勢かもしれません。中には、自分の過去の痛みを思い出すきかっけがやって来て解放へと向う時期だったという場合もあるかもしれません。今はまだわからない新しい自分との出逢いが待っているでしょう。
少なくとも、今回のようなことを参考にするなら、他者にとって「そう見える」という事も、当事者にとっての「事実」とは全く違うという場合があるのだということと同時に、自分にとってもそれは同じことが起きていて「自分にはそう思える事実」というものが、他者から見ると「全く違うものに見えている」ということも当たり前に起きているのだということです。だとしたらむやみに他者からの言葉を受け入れて、落ち込む必要も無くなっていくのではないでしょうか。また別の場面においては、自分が誰かのことを自分の思い込みで見ているという可能性も自覚しつつ。立ち位置を入れ替えて、一つの現場でいくつかの立場を見る、想定するということもやがて可能になっていくでしょう。
これは私たちの可能性の話です。
写真と文 sanae mizuno
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