父の葬儀直後。届いた、やたら大きなギフト。
今日は2023年9月27日です。
早いもので20年以上も前になりますが、明日28日は父の祥月命日なので、思い出話をひとつ。
2001年(平成13年)米国9月11日の朝のこと。
日本のテレビはそれで一色になりました。アメリカ同時多発テロ事件です。
その第一報が入って来た時、私はちょうど父の寝ている部屋のベッドの近くにあるテレビを見て驚き声を上げました。
その声を聞きながらゆっくりと身体を動かしてテレビの速報を見た父は、言いました。
「そりゃぁ、そんなこともあるって」
「もっと色々も起きるって」
そう穏やかに、静かにそう言った姿を見て、私は少し怖くなっていました。
その穏やかさが、地上への興味はもう無いよと言っているように見えてしまって。
さらに長いスパンで見てまだまだ世界には色々起きるものでしょ、って言っている父は、もうこの世の事件には影響受けませんという場所に移動していっているんだと、存在の気配がより薄くなっていっていることを正面から受け止めなくてはならない事実が怖かったのです。
返事が出来ませんでした。
1週間ほどして、時折行っている検査入院の日が来て、数日間の入院へ。
毎日病院に通いながら、私は時々の必要なことをしておりました。
ある日、ちょっと調子がいつもよりもよくないなと思ったのですが、ちょっとした軽い手術を必要とするため少しの期間大きな関連病院へと転院をするという前日のことでしたので、日程変更をお願いした方がいいか相談しなくてはと思っていた矢先。先に動いていたのは父でした。
父はいつの間にか医師に頼み込んで、それが半ば強引に「いったん家に帰る」といって聞きませんでした。
さっさと準備をして、動き出すので、私は後を追うように準備をして、ゆっくろゆっくり駐車場へ。もう歩くのもゆっくりゆっくりの状態です。
家に戻って、いくつかの書き物を少ししたり、お風呂に入って、夕食のすまし汁をようやくようやく飲み、それでも美味しいと言いながら、その日は休みました。
次の日病院に行くと、もういいから、さっさと帰れと父は何度も言います。
転院手続きもまだ変更していない状態でしたが、大丈夫、いざとなったら相談するから、というので、医師と父との意思の疎通などに問題がないことを知っていたので、本人に任せることにしました。
そうして自宅に戻った後、転院先の病院に行く準備を母としていた時に、病院から連絡が入ります。
慌てて母と病院に行くと、意識不明の状態でした。食事の後に急に倒れたということで、医師も頑張るがおそらく難しい、という状態なのだと知らされたように思います。
その後半日ほどとあることがあった後に意識を取り戻したのですが、「ご飯を食べたのが良くなかったんやぁ」と開口一番のんきなことを言って、自分の状態がどういう状態なのかわかっていないかのようでもありました。母と私は父とほんの少し話をすることができました。
その後ゆっくりと意識が混濁し、翌日、父は静かに旅立ちました。最後の言葉とか言い残すことなんていうこともありませんでした。あっけないくらいでした。
父の通夜、そして葬儀を終えて、その翌日。
身の周りのを整理していた時に、父が書いていたメモがいくつか出てきました。その中には手帳サイズのカレンダーといくつかの記入もあって。9/28のところには「退院」と赤色の文字で強くハッキリと書かれているのを発見しました。それは父の旅立った日ですから、間違いなく確かに「退院」した日なのです。
検査入院から転院してしばらくしてから退院となるため早くても10月に入ってから自宅に帰ることになる、という予定ももちろんわかっていながら、書いて残していたようです。そういう不思議なことをよくする人でした。
ちょうどその日、父の知り合いのおじいさんがお線香をあげに来てくれていて「この年寄りより早く逝くなんてなぁ…」と、いろんな思い出話を母としていた時に、郵便がひとつ届きました。
知っている会社からのもので、私宛でしたが来る予定の無い郵便でもあったので、いったい何の用事だろう? と思いつつ二人の話を聞きながら開封しました。
中から出て来たのは何枚かの紙とカラーのパンフレットで、出してみるとそこには「当選通知」と書かれていました。
えっ? と思いながら読み進めると、おめでとうございます、から始まって、多くの中から選ばれました、というようなことが続いていて。さらに読み進めてようやくわかったのは、「スーパースター ヴァーゴで行くシンガポール・タイ・マレーシアの旅」ペアで6日間ご招待らしい、ということでした。
その日、私は誕生日でした。
そのままを2人の前で読み上げました。当選って凄いな、とは思いながらも通常の状態では無いので普通に喜ぶこともできず、私には関係無いから、というような感じで、今回はそんな旅なんて行くこともないから、と即座に判断もしていました。
そんな私を前に、おじいさんは急に泣き出し「そりゃぁ、お父さんからのプレゼントだよ」
と言いながら何度も頷いていて。母はビックリなことがあるわね、と言いつつ泣いているおじいさんに先を越されたかのように冷静でした。
おじいさんは「オレが出す。必要な分のお金はオレが全部出すから行ってきなさい」「10年以上もずっと付きっきりで介護してきた娘への感謝の気持ちだろ」そう言ってまた泣いて。「ここにちょうど居た、オレの役目やろう、これは」と言って結局、最終的に私はおじいさんのお世話になったのです。
ずっとそれまで母は家族代表として水商売で働き通しでした。父の闘病生活は長かったのです。私はある時会社を辞めて全面的に介護の生活を選びました。拡張型心筋症という心臓の発作はいつ起きるかわからないので24時間体制で、即座に口に薬を入れられるように、母より身体の大きな父を支える体力のある私が家にいることになり。昔のことなのでサポート体制も無く、私は1人父と向かい合って長い時間を過ごしました。
母はお父さんと留守番してる、と言うので、私は葬儀を手伝ってくれていた友人としばらく後に東京からシンガポールへ、そこからの船旅へと向いました。76800トン、全長268m、全幅32mで、客室は935室、乗員定員は1870人という大型客船でした。
空港という空港すべてが厳戒態勢で、各国の軍の人たちが居て。世界中がものものしい時期に私は旅に出たのです。あれほどのことも二度とないかもしれません。あの状況下においての旅に出る決断であるというのに、私達を止める人は誰もいなかったのです。むしろ誰も彼もがGo! でした。それで何かあったならあなたの運命よ! いいじゃないそれも! なんて言う人ばかり。
そうだね、と私も納得し、ヒヤヒヤしながらも日本で見る海よりも大きな海に出て、大型客船がどんぶらこと揺れる嵐の日も初体験しました。いろんな港に立ち寄り、街中に出ることもあったのですが、ほとんどをよく覚えていません。ともかく空と海と緑と、太陽が昇ったり沈んだり、月を眺めたり、随分と私は気が抜けてぼうっとしていたのだろうと思います。
様々な国の人たちと出会いながら、あちらこちらの各地の海を前に風を浴びながら、何度も私は父をあらためて見送りました。ようやく来たような、ずっと待っていたような、お祝いのような気持ちで静かに見送っていました。
実際、葬儀の時に私は、自分のお焼香の順番が来た時に、何の思いよりも先に「おめでとうございます」という言葉と思いが溢れ出てきた自分に驚いていたのです。
「あのお葬式より、こっちの方がお父さんには合ってるよね」
私は確信していました。この船旅は父にとっても次への新しい旅立ちのひとつの儀式だったように思っています。もちろん私にとっても大きな節目であり、ここからが次の人生の始まりなのだと感じていました。
父は船の設計士の息子でした。大正14年生まれの父の父親というと、時代が時代ですので仕事の内容は明かされなかったそうです。
船が好きな人でした。
明日のことを思いつつ、何年ぶりかに様々を思い出し空を見上げました。
……今日もこちらは元気でやってます。
あなただけのこの人生の物語を紐解いて歩きましょう。
昼の地球で、夜の宇宙で、丸ごと一日どうぞよい旅を。
cafeprizm sanaでした。