シスヘテ男性の私がなぜミサンドリーとミソジニーを発現させたかについての一つの可能性
私がnoteを良く見ているうえまつさんという方が「ミサンドリー」に考えていらっしゃると聞いて、私はいてもたってもいられなかった。ミサンドリーについてアレコレ考えながら意見を視聴者と交換するインスタライブをされるとのことで、急遽インスタのアカウントを作ったほどだ。
私はシスヘテ男性である。「ミサンドリー」という言葉には思うところがある。それは、私自身がシスヘテ男性でありミサンドリーを内包しているということ。私はミサンドリーの嫌悪対象であると同時に主体なのだ。
ここでいう「ミサンドリー」は、どちらかといえば「男性性嫌悪」といえる。私は男性身体からの加害を全く受けていないわけじゃないけど、幸運にも性被害経験もなく、「男性」というカテゴリーそのものに嫌悪しているわけではないと思う。(ただし自らにせよ他者にせよ男性身体への嫌悪がないわけではないと思うので、それもまた考える必要はあると思う。)
どちらかといえば、従来的な、有害な「男性性」を持った存在としてのミサンドリーが強い。他の男性であれ自分であれ、ジェンダーノットセンシティブな過ちを犯してしまうような男性性に嫌気がさす。
うえまつさんのライブを聞きながらアレコレ考える。私はシスヘテ男性だから、私にとってはシスヘテ男性自身の、私のミサンドリーについてのほうが考えやすい。私のミサンドリーとは何なのか、なぜ私にはミサンドリーがあるのか考えてみる。
少し、思い付くところがあった。
一言で言えば、「ちくしょう…うらやましいな…。」の精神なんだと思う。
私はホモソーシャルというか、男性同士の関係に嫌な気持ちが多少あった。暴力性とか、恋愛と性に関する奔放さとか、まあ総じてノリとか。
そういう世界で通ずるルールは良くないものに見えた。人に暴力を振るっちゃいけないし、人を支配しようとしてはいけないし、恋愛とか性では相手への誠実さが必要だと思っていた。
そして、それと同時にうらやましさがあった。力で人の上に立つのは気持ちいいだろうなって思うし、「モテ」ることは何だか美味しそうなブドウに見えた。
かたや男性間のルールを良からぬものだと思いつつ、かたやそのルールへの羨ましさを感じていた。
良からぬものだという感情はダイレクトな「ミサンドリー」につながった。うらやましいなという感情は、しかしそのルールの成功者になれないことへの嫉妬となって、やっぱり「ミサンドリー」につながった。
それでも私はなんだかんだ言って、男性間のルールに乗ってしまった。乗らざるをえなかったのか、乗ったのか、それはもう分からない。でも、純粋な羨ましさがあったのは確かだった。
そして、そのルールに乗ることも、その成功者になれなかったことも、どちらも「ミソジニー」への入り口だった。
そのルール自体が「ミソジニー」に基づいているし、特に恋愛の文脈での不満も「ミソジニー」に転化しやすかった。恋愛の文脈での不満は成功者への嫉妬という意味で「ミサンドリー」にもつながるから、私はさっくりと「ミサンドリー」と「ミソジニー」を揃えて獲得した。
これは完全に私の独断だけど、「非モテ」あるいは「インセル」は、「ミサンドリー」と「ミソジニー」の両方を男性同士のルールに乗って獲得した人なんじゃないかなと思っている。かつて「非モテ」意識があった私の考えだから、完全に間違っているわけではないと思っているけど、どうだろう。
ところで、私に男性間にあのルールを教えてくれたのは、いったいどこの誰だったのだろう。
直接的にはやっぱり同級生たちだったんじゃないかな。学校で生活するためには、彼らのルールを避けることはできなかったはずだ。
ただ、彼らもまたそのルールを学習してきたんだと思う。メディアから、家族から、その他大人(年上の学生なども)から、そのルールを教え込まれて来たんだと思う。
再生産を重ねて彼らがそういうルールを学習したのなら、彼らにそのルールを教えた人たちもまた、更に誰かに教えられてきたはずだ。
それが良いものだとされてきたし、実際良いものに見える角度もある。同調圧力もかかるなかで、再生産は免れなかったのかもしれない。
循環を止めるには、何か意図をもって止めようとする人がいなければならないんだと思う。
私の周りには、そういう流れはなくて、私のもとにも男性間のマッチョな価値観はやってきた。
以上が自分の「ミサンドリー」についての一つの可能性だ。これが全てではないだろうし、どこまで説明力があるかは分からないけど。
この考えを巡らせた私には、何ができるのか。肝心なのは、従来の男性性のルールは「おいしそう」に見えるということ。だから他のルールを提示したところで簡単には誘導できないでしょう。
でも、じゃあどうするのか。
私の頭では限界があるので、余裕がある方にも協力を仰ぎたいところです。