モネと睡蓮のときの物語 2024
モネと思い出
国立西洋美術館で開催されている、モネ展 #モネ睡蓮のとき を、鑑賞して来ました。
大好きなクロード・モネの描く睡蓮のバイブレーションをたくさん浴びて、あの柔らかい色彩を漂って。
以前、モネの絵に会いに行ったのは、いつのことだっただろうか?モネの睡蓮に出会った時の忘れられないエピソードがある。
初めて鑑賞した時のこと、起こった不思議な体験である。眺めている時、ふと..絵の中に入り込んでいる自分自身に気付いたのだ。
吸い込まれるような感覚で、まるで..絵の中に自分自身が立っているかのような感覚。今思えば、それは最初で最後の体験だった(はず)のだが。モネと言うと..あの時感じた不思議な感覚を思い出す。
そんなことを思い出しながら、またモネの睡蓮に会えるのをワクワクしながら、展覧会のドアを開いたのだった。
モネの魅力
今回は、モネの晩年、ジヴェルニーの家の庭園で描いた睡蓮の絵を中心に、パリにあるモルマッタン・モネ美術館の所蔵を主とする作品が並んでいる。
大きなキャンバスに描かれた作品が多く、近くで絵の具のタッチや流れを眺めたり..遠くから離れて眺めたり。様々な楽しみ方で鑑賞している人々。
近くで眺めると..色彩やタッチも大胆で、とてもダイナミックなのに。遠くから離れて観ると、たちまち淡い光に包まれた一つの奏でる世界に見えてくるのが不思議でならない。
一体、モネの心のレンズ(瞳)はどうなっていたのだろう?と想像する。あんなに美しく、光を描写出来るのだから..余程の素晴らしいレンズをハートにお持ちだったのだろう。
(写真を撮る者として、どうしてもカメラ話を喩えてしまうという..あるある。)
モネの睡蓮のバイブレーションに満たされ漂いつつ眺めていると..不思議と..ふと絵の中に溶けていってしまいそうな気持ちになる。いや、むしろ溶け合いたいと思わされるのだ。
やはり、この表現が一番しっくりくると有無を言わず思わされ。今回の展覧会でもそれを体験し、感じさせられたのでした。そして、何故か感極まって目頭が熱くなり、込み上げてやって来る涙。
晩年のモネの絵画は、白内障を患いながら、目が見えなくなっていった中で描かれたのだという。その中でもモネは、描きながら、もがきながらも..まさにその混沌とした溢れ出す色彩の中、絵の中へと彼自身も溶けていったのだと思う。
だからこそ、この絵達は..光に満ち溢れ、輝くバイブレーションを放っているのだ、と。そう思った。ひょっとしたら、彼自身が絵画そのものだったのかも知れない。
モネと音楽
彼の絵画は、しばしば音楽に喩えられる。そう思ってはいたが。これは、展覧会に書かれていたその一文。
「色彩の繊細なハーモニーは、音楽にたとえられた。和田英作(洋楽家)が実業家収集家の松方幸次郎とジヴェルニーのアトリエを訪れた時、睡蓮の近作を "色彩の交響曲" と評したところ、モネが "その通り" と答えたという逸話がある。」
..と。
色彩の交響曲。モネにピッタリの表現だと思った。モネ自身もまた、ひょっとしたら..美しい音楽がその色彩から奏でられているのを見て聞いていたのかも知れない..などと、想像してみる。作曲家のドビュッシーと交流があったいうところからも、頷けるエピソードだ。
モネが描く睡蓮は、音楽のように満ち溢れ、奏でられ、響き合い、繋がって..美しいバイブレーションを、時を経た今も響かせている。
お楽しみグッズ
展覧会のグッズもまた、お楽しみの一つ。(いつものセット)
今回は..このブックマーカーを買い求めた。他にも氣になるアイテムがいっぱいで目移りしてしまうほど、バリエーションが豊富。
あとがき
モネの絵画は、日常の中、ふと眼がいく何処かにいつも持ち歩いていたくなったり、存在していて欲しいと願ってしまうほど、親しみが湧くような存在なのかも知れないと思う。それほどに、愛おしい美を今も放っていると思うから。
❇︎
最後に、モネが紡いだ言葉を記しておく。
(こちらも展覧会の一文より)
「私の絵画について論じる人々は、
私が抽象と現実に結びつく想像の極地に至った、と結論づける。
・・・だが、私の絵画を「世界の外のどこか別の世界」へと遠ざけるのは、行きすぎというものだ。
・・・作品の優雅さは、私の源であるところの自然から湧き出る賜物である。」
Fin