吉田 超短編
薄暗い路地裏を一際息遣いの荒い男が早足で歩いている。
ヒビの入った街灯には無数の蛾とヤブ蚊が光を求め群がっている。確かにそうだ。別に感情みたいなものは置き去りにして盲目的に明るい方に向かえば良いのだ。そうすれば大きな失敗なんてそうそう起こり得ない。
だが、そんな単純な行為すら容易に行えない人間も存在する。光が眩しいせいか逆行して暗い方暗い方へと進んでしまう。
男の名前は吉田。年齢は28歳。まだ人生に絶望するには早過ぎる年齢だが、仕方が無い事も多い。
シナリオ通りに事が進めば15分後に吉田は1人の男性を殺害する事になっている。
闇を生み出しているのは光なのか、あるいは逆なのか。闇が無ければ光を感じる事は出来ない。いつも闇は輝く光の先に存在している。
吉田に殺しの依頼が来たのは今日が初めてだった。
これまで吉田が行って来た仕事は詐欺や暴力の代行をするくらいのものだった。
吉田は学生の頃、同級生に頼まれていじめっ子を撃退した事があった。それが始まりだった。
その時に受け取った僅かな謝礼が吉田に暴力による対価を気付かせた。
吉田は親の顔を知らない。吉田は愛を知らない。吉田は先を知らない。
光の先に闇が存在する様に、闇の先にもまた光が存在している。
頭の中で何度も繰り返した手順を遂行するだけ。吉田は何度も雑に深呼吸を繰り返す。汗が止まらない。目の前の視界が歪む。歪みが完全に視界を暗くする前に首を小刻みに振り意識を散らし冷静さを取り戻す。
その時が刻一刻と近づいてくる。
早過ぎず遅過ぎず、ただシナリオ通りに。
吉田は薄暗い路地裏で黙々と歩みを進める。
涙が頬を伝い口元を掠め顎の先から零れた時、ようやく吉田はそれが自身から溢れた物だと気付く。
自分の意思とは関係なく流れる涙に吉田は少し戸惑った。
そもそも今日まで吉田の中に意思など存在せず、ただ日々与えられたシナリオをこなすだけだった。
この涙は吉田が遥か昔に封印したもう一人の吉田からの意思なのかもしれない。
不遇な過去。愚かな選択。闇の向こう側の未来。
だが、吉田は考えはそこに及ばない。ぬるりと目頭を拭い吉田は歩みを進める。
シナリオの変更は許されない。
目的のビルに着き、手順通りに錠を開く。静かに通路を歩き階段を登る。
吉田は目的の部屋のドアをこじ開けると物々しいテーブルの向こうに一人の男が座っている。男は吉田の登場に慌て大声で隣の部屋にいる部下たちに助けを求める。
ここまではシナリオ通り。時間ももうすぐ予定時刻を迎える。
後は吉田が速やかに懐からナイフを取り出し男の胸を突き、部下たちが応援に駆けつける前にこの部屋の窓から脱出する。それでシナリオは完遂する。
だが、吉田は動かない。
殺しの依頼が来た時、吉田は物事というのは常にエスカレートしていく事を知った。だが吉田は依頼を断る事を知らない。
この仕事を皮切りに、これからはより多くの人間を傷つけ殺す事になるだろう。
吉田は自身の存在が世の中にマイナスを生み出すだけの人間と考えた。マイナスをプラスにする方法。何故そんな事を考えたのか吉田には分からない。思えばこの時から吉田の中の封印は解け始めていたのかも知れない。
ようやく吉田は歩き出した。そしてテーブルの前で慌てふためく男の眼前にナイフを突き出した。
そこで吉田は再び動きを止める。
間もなく入り口のドアから数人の男たちが血相を変えて飛び込んできた。男たちは吉田の姿を確認するや否や有無言わさず吉田の頭部をピストルで撃ち抜いた。
そして床に倒れ込んだ吉田の体にも更に数発の銃弾を浴びせると、テーブルの前の男を抱える様にして部屋から連れ出した。
吉田はぴったりシナリオ通りの時間に吉田を殺害した。
吉田は誰かを救う術を知らない。吉田は何かを傷つける事でしか価値を得ない。
マイナスが無くなればプラスになる。少なくともゼロにはなる。マイナスは要らない。マイナスは何処まで行ってもマイナス。
吉田は死ぬ事以外にプラスにならない。吉田はそう考えた。
吉田は答えを知らない。吉田は人を殺せない。吉田はもう誰も傷つけない。
暗い部屋に取り残されたまま闇の濃度は一層増し、最期の最期に吉田は光に辿り着いた。