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#高安動脈炎闘病記 14

14.僕を生きて


意識が戻った僕の元に見慣れない、男性の看護師さんがやってきて、甲斐甲斐しくお世話をしてくれる。
なにか、声を掛けられているけど、なぜか返事が出ない。

術中は口から心臓裏まで管が入っている。多分その影響だろう。声を発することができない。
それどころか、頷く、首を振るといった動作もできない。本当に何もできない。
泣いてしまった。思わず泣いてしまった。
泣くことはできた。
34年前に使ってた手段だ。
ただ、幾分かエラーは起きているとはいえ、脳は34歳だ。
これは我ながら精神的にまいった。
そこからしばらくして、表情で感情を伝える術を手に入れた。
33年前くらいに使っていた手段だ。
とはいえこんな手は使いたく無い。
ただ、とりあえずこれで飲み物を口にすることができそうだ。
どうしました?これ?あ?ちがう?あ、水?喉乾きましたか?どうぞ!とストローを口に咥えた。
ようやく口にした水分には、随分ととろみがついている。あーこれおじいちゃんおばあちゃんが飲むやつじゃん。おいしくなーい。普通の冷たいお水がごくごく飲みたいよー。

ただ残念ながら、これが今の僕の位置だ。

しばらくしたら、意識を戻した僕の元に今度は理学療法士さんや、元いた病棟から、優しい師長さん、いい匂いがするメガネの看護師さんと様子を見に来てくれた。

また泣いた気がする、多分。
もう恥ずかしいから覚えてない。

そして、両親も来てくれた。というか、実は手術翌日も来て、この日も来てと足繁く通ったそうだ。

両親の前では泣かなかったと思う。
少し強がったのかもしれない。


「翌日からバリバリ歩いてリハビリしますよ!」と言っていた理学療法士さんも、さすがにそれをさせることはなく、車椅子に座ってICUの中を一周するに留まった。
もしかしたら、初めの脅し文句は優しさだったんだろう。にしても嘘には聞こえなかったけど。

こっそり、普通の水を飲もうとしてはむせるを繰り返していた僕にも食事が提供される。ただ、記憶ではゼリーしか食べれていない。

入院期間中、毎食を記録していた僕が画像一つ残してないところを見ると、(25日の画像から再開)まともに食べる気力も体力もまだなかったのかもしれない。
ただ、出された食事を残したくは無い性格上、ものすごく申し訳なく辛かった。

ICUでの治療は思いの外あっという間、割と早く終わり(ほとんど意識ない期間)、4月23日には元いた病棟に戻ることになった。
ただ、戻った後は個室にしてもらった。

顔馴染みの看護師さんたちが歓迎してくれた。とてつもない安堵感を覚える。
ここからは、リハビリの日々が始まった。

ひとつは、やはり歩くこと。はじめはなんとか車椅子でというところから、立ち上がり部屋の中を移動できるように。廊下まで出れるようになったら、今度は少し歩いてみる。少しずつ距離を延ばしていき、細かい達成を積み重ねていって、3日後には普通に散歩ができるようになった。

とはいえ、声がまだ完全ではない。一般病棟に戻った頃には多分ある程度言葉を発するようにはなっていたはずだが、発声に思いの外苦労していて、自分の声が完全に取り返せたと感じたのは退院した後、夏になる頃だった。
ここでは言語聴覚士さんといろいろな話をした。チリチリとしたパーマがよく似合う、日向坂46が好きな爽やかなお兄さん。宮崎のひなたフェスには無事行けたのだろうか?

身体と繋がっていたいろいろな管が抜かれていった。滲出液を吸収するドレーンが外れ、股間のカテーテルも外れ(その瞬間は恥ずかしすぎて記憶から消した)、点滴も4月が終わる前、連休に入った頃には外れた。

退院まであと少し!

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