えもいわれぬ安心が、すべてをまもる
話し忘れていたが、実家2階の改築は、ヘルシンキから帰ってすぐ、振り出しにもどり、設計はトゥオマス&ねねさんにバトンタッチされた。
わかりやすい方違えの、宇宙タイミング。
ヘルシンキ前に、ふつふつと感じていた違和感が吹き出し、それを相手に伝え、ヘルシンキ後話し合いましょうということになり、ヘルシンキ中におふたりに流れで相談したところ、そのようなパラレルフロウになった。
その地を拠点にする、住む、過ごす、という場所は、心地よく、いい関係のなかで、物質化していきたい。
そのパラレルフロウポイントは、とことん半眼かつ、解像度をあげていいのでは、と感じる。
地球の言葉はコミュニケーションのための道具として使われることがずっと主流だが、こんなにコミュニケーションとしての機能性が不十分な道具もないと感じることもある。
だから、地球ではドラマや物語がうまれ、魂を深めるという意味での面白い星として、宇宙中から住みたい星となっているともいえるかもだが。
言葉は、そもそもが、コミュニケーションのためのものでないとさえ、言ってもいいのかもしれない。
言葉は、宇宙の理を、心ゆくまで無限に、オリジナルに、3Dプリンタのようにヴィジュアライズ化することもできる、松果体のUFOの中枢からの音、の方がどちらかというと、地球での居心地はいい。
地球ほどの、多様なクリエイティヴができる星、スクラップ&ビルドができる星は、珍しい。
10月27日の青山ブックセンターでのLIVEは、この3〜4年のなかで、もっとも、LIVEでの理想のヴィジョンに近い、肌感が美しいLIVEだった。
一瞬一瞬、地球に蔓延るレイヤーを、破きつづけていくような、途中ワームホールに突入し、UFOに乗り、宇宙をくぐって別の宇宙の海まで、タイムマシンで旅行しているような。
コロナ中の配信LIVE、コロナ後の晴豆などでの直接お会いするLIVEを通して、自分自身の中心と、直接や配信でつながるみなさまとの中心が、無限にシンクロをはじめる、宇宙タイミングの最適なフロウを、みつめつづけてきた。
今回のLIVEは、はじまってすぐ、時空の境界線が融け、中心が重なりあうブレイクスルーに遭遇し、安心が一瞬にして深くおおきくなる感触を感じながら、すすめられた。
LIVE前にきめていたこと、それは、なにも決めずに、本来の自分自身を自由に生きる、ということに他ならない。
地球の生命全員が、安心のなかでそれができれば、地球は安心の星になるだろう。
肌感で、その瞬間を感じられることの喜びは計り知れない。
全身全霊の細胞すべてに、安心を働きかけることができる時、地球の尺度でなかなか推し量れない、愛のバイブレーションが発生する。
そのバイブレーションの瞬間が無限をはじめ、純度が深く、自由になっていくのを感じられるほど、さらに安心の愛のしあわせが満ちていく。
安心が、確実に感じられる、そしてそこに自由があらわれつづける、LIVEの真の楽しさを思い出す、これこそLIVE、という愛のひとときになった。
「みてはいけない舞」に関して、LIVE中盤のトークタイムで質問された。
一見、一際キャッチーなパンチラインのタイトルがついた舞だが、その本質は、その本来は、神事であること、決して人にみせるためのものとして、舞があるのではないこと、その時空に宇宙タイミングで居合わせ、宇宙や地球や神さまと各々自由に響きあい、よろこびあうことが、舞ですること。
タイトルは、笑ってしまうような仕様になっているが、その本質は、パフォーマンスではないということだ。
見てもいいとか、見てはだめとか、そのこと自体は重要ではない。
愛が響きあう体感が無限に純化していけるなら、見ても見なくても、どちらでもいい。
他者を意識するのではなく、どこまでも無限に、自分自身になっていく。
それができれば、愛は自ずと、使えるし、響く。
それが肝であり、そここそに、地球という星で、ある一瞬をごいっしょできることが、どれだけ奇跡的な愛の瞬間かが、みえてくる。
その奇跡を、あらゆるシチュエーションで感じることができれば、常に最大値の安心が、地球のどこにいようとも、どんな目にあっていようとも、たった今、全身全霊に響くだろう。
「言葉」もいっしょだ。
本来言葉は、みるものではない、響きを感じるものだ、と言えるかもしれない。
書き留めることがなければ、言葉は音としてだけ存在する。
また、書かれたものも、音を読み、響きを感じる。
五感に響くと、五感が自由に、各々の好きな感性で、その瞬間だけに響く感性で、響きの調べを変え、響きを超え、愛を開花させる。
言葉はどこから来て、石などに刻まれ、使い方を忘れ、いつのまにかコミュニケーションの道具として普段使いされつつ、すんでのところで、ギリギリのところで、宇宙や神との親和性を保ちながら、DNAのように、愛が運ばれ、受け継がれてきているか。
なぜ今をコミュニケーションする言葉で、地上をつくりあげ、地上のバイアスを生みつづけながら、微量でも愛の源泉を、見失わせず、この本来無限に融和を実現してしまえる、各個人が有する、別次元の愛というエネルギー体を、一瞬に保存し、瞬間に内蔵しつづけているのか。
どうして一瞬や瞬間の愛を遠ざけ、あまり発動させないようにし、生命がつづいている風のほうが本来の愛であるかのように、設定されつづけているのか。
そのような地球のデフォルトがあるなか、もうすこしで、宇宙テクノロジーと地球の蜜月がはじまり、すべての概念が宇宙愛に転換するシンギュラリティに至ることが、自明の理になる、宇宙タイミングが、地球にも近づいているようにも感じる。
そのカギになるのが、パラレルフロウという概念でもあるのだとおもう。
LIVEでは、安心についても聞かれた。
どうしてSF安心というタイトルがついたのか。
SF安心では、これまで地球で安心とされてきた安心とはまるで違う安心が書かれている感覚がある。
ぼくは母子家庭で母と子という人生を生きる期間があった。
母親がいくつになっても世話を焼いたり、心配したりすること含め、子どもにとっては、ウザいこと極まりないことは親子間で、たくさんある。
DNAの一要素として、親子の問題は受け継がれてきているようなものだったりもするだろう。
いい悪いは別にして、地球ではおおむね、親子は、お互いを安心させあうために、存在しているのを感じる瞬間に、人生のなかで、立ち会ったりしてきた。
ただ、その地球での安心のほとんどは、心配や恐怖などから発信されてきているのが最近の、多くの地球だったのだろう。
それらが、近代の経済にも資本主義にも、主流の価値観として、使いまわされ、お金にもなってきたのを感じる。
そんな地球の、恐怖や心配由来の安心の使い方の絶頂期が、過渡期にむかっているような宇宙タイミングで、安心の基準を安心由来に替えるものとしてSF安心は生まれたのではないだろうか。
地球がこれまでのままだと、安心は、ストレスを大量に生むものとして、その能力をより稼働させ、不安のデフレスパイラルに、螺旋を描いているようにも感じるから。
心配や不安からの安心ではない、安心からの安心があるのではないか。
その安心とは、地球上の穢れがあろうとも、愛の純度を保ち、アップグレードでき、オセロのようにひっくり返せるものとして、神事や舞などの、口伝やバイブレーションのなかで伝えられ、維持され、受け継がれてきてもいたものだ。
メイクラブもそのひとつで、決して、子どもを産むためとか、生活が安定するためとか、快楽とか、射精などが優先の目的ではなくて、愛しあう、愛を生みあうものとして性愛はあり、チャクラをつかいあうことで、安心からの安心が生まれていく。
地上では、世間体などによって、ゆがめられてしまったセクシャリティがあまりにも多いのも感じる。
地球も、愛さえうまれつづければ、平和なのだから。
これまで地上に生まれてきた本や映画や絵画などにも、その技術や感性を有した魂を持つ方々が、宇宙タイミングという不思議なかみ合いを経ながら、表現のなかに、愛や安心由来の愛や安心を含有させたりしてきていたのではないかとおもう。
愛や安心由来である、宇宙的安心のなかですごせる人とのひと時は、純粋で美しく、安心できる。
えもいわれぬ安心が、すべてをまもる。