![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172118224/rectangle_large_type_2_91c7e1d42587c1b0e797f98b4ef483ae.png?width=1200)
「いつかお別れがくる」と知った時、私の世界は輝き出した。
「私もやがて死ぬんだ」
50歳を迎えた頃、ふと、自分の人生にも終わりがあることを、現実のこととして感じ始めた。
それまではどこか他人事のように感じていた『死』が、急に自分のこととして、ずしんと重くのしかかってきたように感じた。
「自分らしく生きられる時間は、あとどれくらいだろう」と考えると、一日一日を悔いなく過ごしたいという気持ちが、ふつふつと湧き上がってきた。
そして今、自分だけでなく、私に影響を与えてくれた大切な人々も、少しずつ歳を重ね、いつかお別れしなければいけない日が来る。そんなことを考える日々だ。
先日、母に電話をした時の声が、前回よりも明らかに弱々しく感じられた。かすれるような声、息遣いの荒さから、母の体力が落ちていることを痛感した。
「もしかしたら、もう長くないのかもしれない」
電話の向こうから聞こえてくる母の声に、そんな不安がよぎった。
居ても立っても居られず、自分の予定を確認し、最短で実家に帰れる日の航空券を急いで手配した。
夜遅く実家に到着し、母の顔を見ると、電話で話した時よりも元気そうに見えた。しかし、安心したのも束の間、すぐに母の入浴介助をすることになった。
もう何年も足が悪く、手術を何度も繰り返している母にとって、お風呂に入ることは、想像以上に大変なことなのだ。
健常な人なら、なんてことのない動作だろう。しかし、母にとっては、足を少し上げるだけでも一苦労なのだ。
私が思う『こうすれば楽なのに』が、母にはできない。
そのもどかしさに、胸が締め付けられる思いがした。何度も何度も手を握り締めたり、支えたりしながら、やっと湯船に辿り着いた。
湯船に浸かるのも一苦労、そして、そこから出るのもまた大変だ。
椅子を持って角度を変えてみたり、私も汗だくになった。
久しぶりに会うと、人は驚くほど変わってしまう。これは誰にでも平等に訪れる現実だ。
だからこそ、健康に歳を重ねていけることの尊さを、改めて感じた。
![](https://assets.st-note.com/img/1738124696-X2KOVhFPevorfxZlCitqcaSG.jpg?width=1200)
日々の時間の中で、
大切だと思える人たちと出会える
一緒に笑ったり泣いたりできる。
怒ったりはしゃいだりできる。
一生懸命になれる。
全てがありがたく幸せなことなんだと。
そしてそれは永遠ではない。
だからこそ今日という日が大切なんだと改めて思った。
私が実家に帰っている間に、少しずつ元気を取り戻した母が「買いたいものがある」と言うので、近くの大型ショッピングセンターに車椅子で行くことにした。
母は嬉しそうに、次々とセーターを手に取って吟味していた。その表情は少女のように無邪気で、私の胸を熱くさせた。
人は、誰かと関わり、話をするだけで、こんなにも元気を取り戻せるのだと、改めて感じた。
そして、体が思うように動かなくても、おしゃれをしたいと思う気持ちは、年齢を重ねても変わらない。
母を見て、女性はいつまでも女性なんだなと、微笑ましく思った。