ジェイラボワークショップ第 61 回『教育的とは何か~掃除教育を添えて~』【教育研究部】[20230724-0806]#JLWS
今回の WS では「教育的」という言葉に注目し、その性質について考察をしました。とっかかりとして学校における掃除教育を取り上げましたが、意外にも疑問を持っていた方が少なくコミュニケーションに違和感を覚えることもありましたが、いくつか率直な意見をいただくこともできました。先行研究の調査に終わってしまい、我々の意見を前面に押し出すことができなかったのは心残りですが、今後の課題として引き続き考えていきたいと思います。以下 WS のログです。
1日目 最初の挨拶
■シト
おはようございます。教育研究部部長のシトです。
本日から2週間を通して教育研究部のWSを行います。よろしくお願いいたします。今回のテーマは「教育的とは何か:掃除教育を添えて」です。
皆さん、学校で掃除をしてきたと思います。自分がお世話になっている教室などを掃除することで思いやる気持ちを育てるなどとよく言われていたと思います。専門的なことだと人格形成を掃除教育によって行うことができると言われています。これらに共通することは、教育的だということで導入されているということです。そもそも教育的とは何でしょうか?
WSは以下のように進む予定です。
1日目 あいさつ
2-5日目 学校での掃除に対する意見
6日目 座談会
7―8日目 学校における掃除の歴史
9-13日目 教育的の歴史
14日目 最後の挨拶
それでは皆さん、ぜひよろしくお願いいたします。
2日目 アイスブレイクの質問
■蜆一朗
こんにちは。本 WS の中心テーマである「教育的」について考えるためのアイスブレイクとして「学校教育における掃除」について考えてみたいと思います。いきなりですが質問です。
Q1. 学生時代、学校での掃除について違和感を持っていたことはありますか?
Q2.(業者を入れられるだけの金銭面の事情が許せば)生徒たちに掃除をさせる必要はないと思いますか?そうであっても掃除をさせるべきだと思いますか?
明日以降、各部員による学校教育での掃除に対する意見を1日1人分投稿していきます。皆さんのご意見もお待ちしております。よろしくどーぞ!
■Tsubo
■Takuma Kogawa
■chiffon cake
■YY12
3日目 学校での掃除に対する意見
■シト
小中高で経験してきた掃除について思ったことは2つあります。
1つ目は、システムとしての掃除になっているということです。挨拶でも書きましたが、教育学において掃除教育は一般的に人格教育として有用だとされています。ものを大切にする心、協調性、思いやる心などを育てることができるとされています。また、海外からは、災害時の日本人のマナーの良さはこの掃除教育からきていると注目されています。ただ、自分が経験したことをもとに考えると、当番制というシステム化されたものをただ回してやっていたにすぎないと思います。考えないでただ順番が来ればやることにすぎませんでした。また、協調性などと言っていますが、子どもの中ではだれがどの役割をやるかなどといった擦り付け合いなどで行っているにすぎないので、それを協調性というのはどうなのかとも思います。小さいころから先生が掃除をやる意義を唱えまくった結果、そういうものだと思い込ませ人為的にその心というものを発生させているのではないかと思っています。
2つ目は、高校で掃除教育をすることの意味がわからないということです。人格形成は10歳までにされると言われています。高校教育はその範囲から出ているので、やる必要がないということです。それにもかかわらず、高校でも掃除の時間はあります。学校の方針であるというのならわかりますが、特に理由なく当然のようにあるのは理解ができません。
全体を通して言うと、義務教育段階であれば、国が定めていれば極端なことを言うとどんな理由であろうと掃除教育があっていいと思います。もちろん、言っていることとやっていることがしっかりとリンクしているということも必要です。
4日目 学校での掃除に対する意見
■蜆一朗
こんにちは。今日は学校教育における掃除について僕個人の考えを述べたいと思います。ご意見等もお待ちしております。
【学校でどこまで掃除について教えるか】 生きていく上でできないといけない掃除の対象は「公共の場」でなく「個人の場(家・部屋)」です。"自分たちの教室" は「個人の場」と「公共の場」の両方の属性を持つがゆえに話がややこしくなっていると感じます。学校の教室も一時的に自分のものにさせてもらっているだけなので公共の場とみなしても問題ないと思いますし、公共の場で衛生面について意識することは「自分勝手な理由で汚さない」ことに尽きるのではないかと考えます。小学校の生活科や社会科では地域に根差した教育を行うことがありますが、たとえばその一環として、各自治体におけるゴミ捨てのルールを調べるとか、自治体ごとにルールが違っていることを教えるとか、ならアリだと思います。個人の場における具体的な掃除の方法について学校で教える必要があるのかについては疑問です。
【生徒たちがどこまで学校の掃除に関わるか】 研究室を年度末に掃除するくらいならあるかもしれませんが、大学では基本的に学生が教室や校内を掃除することはありません。それと同じように、僕は小中高でも業者さん (あるいは自治体) が入って掃除をすればいいと思っています。ただ、そういった方々を雇う金銭の問題はもちろんのこと、小中高ではプライバシーに関わるものを教室に残す (置き勉、体育館シューズ等) ので、大学と同じようにはいかないとも思います。他者に踏みこまれたくないところは自分で掃除をして、そうでないところは業者に任せる、というのでいいかもしれません。
本日の投稿は以上です。ご意見等ありましたら気兼ねなく投稿ください。
5日目 学校での掃除に対する意見
■チクシュルーブ隕石
これまで保育園、小学校、中学校、高校と学校で掃除をして感じた事の一つ目は、「掃除の仕方にかなり独自性があった」ということです。特に印象深いのは小学生の頃の掃除で、教室の掃除は、横一列に並んで勢いよく雑巾掛けをするというもので勢いが足りないと(途中で疲れてしまう)とダメと指導されました。しかし、今振り返ってみると勢いよく雑巾掛けをする事に明確な意味を感じません。それどころか、勢いをつけての雑巾掛けは児童同士の衝突等により、児童の怪我に繋がる可能性すらあります。当然、自分がある程度大きくなってから日常生活として掃除をする際に小学生時代に行っていたような掃除の仕方は全くしていないので、掃除を通じて掃除教育をするという大義名分から鑑みるとその効果には疑問を持たざるを得ません。
また、経験として感じた事の二つ目は「掃除する環境の整備が整っていない」ということです。学校では、掃除は雑巾と箒でするのが良いという雰囲気がありますが、僕自身はこの雰囲気は妥当性があるのかについて非常に懐疑的な立場をとっています。今現在、掃除をする時に主に使うのは掃除機ですが、教育として雑巾と箒がベストであるのかのように伝えられるのは何か違和感があります。
現実的な問題として、掃除用具に掛けられる費用には限度があり、雑巾と箒・塵取りの代用となるものを買うことができないということがあるとは思いますが、個人的にはある程度ありのまま伝えるのが良いと考えています。
ここまでで挙げた2つに共通する問題点は、実際の生活と教育が結びついていないという点です。教育をするという目的で掃除教育を行っているのにも関わらず、実生活にほとんど寄与しない営みであるとしたら大変な問題であると考えます。もしそうであるならば、先にあげたような事例は間違いなく問題点を孕んでいるのだと思います。
6日目 座談会
この日は Discord にて座談会を行い、WS では投稿がありませんでした。
7日目 学校における掃除の歴史1
■チクシュルーブ隕石
こんにちは!ここまででは、掃除がどのような活動なのかを経験則をベースとして考えてきましたが、掃除という行為及びその行為に付随する概念について考えていくにあたってここからは、掃除の起こりとその意味の変遷について詳しく見ていこうと思います。
1日目では掃除の主な歴史、2日目ではそこからできる考察を述べていこうと思います。
古の時代において「掃除」という行為は宗教的意味の強い行いでした。平安時代頃からは神事としての掃除、鎌倉時代から室町時代にかけては仏教の修行の一環としての掃除、というように掃除の意味は時代によって大きな変遷を遂げてきました。特に、仏道修行としての掃除では「掃除が心を磨く行為であると悟る」という説話が根幹にあり、現代につながる意識が見られます。
また、江戸時代から近代(明治・大正期)においては公衆衛生・衛生的という観点に重きを置いた掃除という側面が強まってきます。以前から知識として知られていた「極度に汚い場所では死のリスクが高まる」という事を全員が共有し、国家として公衆衛生を保つことを推し進めたことで掃除なる概念がより身近なものとなっていきました。
その後、掃除は効率化の道を進んでいく事となります。現在ではほとんどの人に周知されている掃除機という存在がその中心を担っていきました。
このような形で掃除という行為は変遷を遂げてきたのです。歴史の観点から見て分かるように、掃除にはいくつかの意味が込められており、そこにはある種の思想性が存在していたのでした。
8日目 学校における掃除の歴史2
■チクシュルーブ隕石
昨日は、掃除の歴史を眺めながら改めて掃除という営みについて考えてきましたが、本日は「歴史的観点から見た掃除と学校教育」について考えていこうと思います。昨日の内容を追って頂けると幸いです。
掃除の意味は大きく「神事での祓・清め」、「仏道修行」、「公衆衛生」という流れで時代ともに移り変わっていきました。
さて、翻って現在について考えてみた時、学校教育ではどの側面が強く反映されているでしょうか?
学校教育では掃除を「健全な精神を育む為の行い」という指導が行われていますが、そのフレーズには(仏道)修行のニュアンスが強く含まれていることに気づくと思います。学校の清潔を保つという事も掃除の大きな目的の一つですが、殊更学校においては掃除"教育"の側面がかなり強調されています。このことは掃除教育並びに学校教育の大きな特異性の一つと言えます。当然ですが、普段私達が掃除をする際、掃除のルーツに修行があった事に思いを馳せながら掃除を行う人は殆どいません。
もう少し踏み込むと「掃除によって心を磨く」という思想の根拠として、「そのように教えるのが教育的である」と述べる方もいますが、それは正しいのでしょうか?
学校教育における掃除の特異性をより深く考察していくには、"教育的"という概念について考えていく必要があります。
ここから先では教育的という概念について考えていこうと思います。
本日の投稿はここまでとなります。
9日目 「教育的」の歴史1 ~辞書・辞典から~
■蜆一朗
こんにちは。本日からは僕が「教育的」という語にまつわる歴史について発表させていただきます。よろしくお願いします。
教育研究部による過去の WS においても学校教育のおかしな点について皆さんに意見を乞うたことがありましたが、今回は掃除教育を例に、一見おかしな実践が高尚な意味をもつものとして行われていることについて考えてきました。今回われわれが問題意識を持っているのは、「教育的」という語があたかも何か理想的で望ましい規範を定義づけるような印象を与える一方で、実際にはそのような意味を持ってはおらず、自分の意見を押し通すための詭弁として機能してしまっているのではないか … (★) という点です。今回の WS 後半では『教育言説の歴史社会学』という書物を大いに参考にして、「教育的」という単語がどのようにして規範的・理想的な性質を帯びるようになったのかという歴史を振り返ってみたいと思います。
まずは辞書的な意味を見ていきます。
本日の投稿は以上です。明日の投稿では「教育的」をさらに分けて「教育」と「的」それぞれについて考えたいと思っています。「教育」は実は比較的新しく作られた語であること、そしてその誕生経緯に教育についての考え方の変化が表れていることが肝心です。
10日目 「教育的」の歴史2 ~「教育」と「的」の登場~
■蜆一朗
こんにちは。今日は「教育」と「的」という語を見ることで、これらを合わせた「教育的」が持つニュアンスに踏みこめればと思います。
【「教化」から「教育」へ】 江戸時代初期には『教育』といふ言葉は一般には広く用いられず、「教化 (きょうげ)」と言われていました。この言葉は室町時代ごろから仏教用語として用いられたもので
『仏の教えによって人を善に転化させる』
ことを意味していました。そして江戸時代初期に入って儒教の影響が強まるにつれ
『治者の教えによって人を善に転化させる』
という意味の「教化 (きょうか)」が広まりました。この2つの言葉に共通する重要な点は、「自分自身が修養を積むことによって人々を感化し影響を与える」という意味を持つことであり、現在の「教育」が持つ「他者に対して意図的・組織的に行う」ニュアンスはないということです。「教育」という言葉が生み出されるようになったきっかけは、中世と近世の間での子供観の変化が大きかったようです。『教育言説の歴史社会学』にも引用された一節を紹介します :
【「的」は「tic」の当て字?】 明治 10 年 11 月 ~ 11 年 10 月の郵便報知新聞の用語の 1/12 の標本調査 (延べ 99348 語、異なり語数は 22272 語) のうち「〇〇的」は「絶大的」「可及的」の 2 語だけでした。明治 10 年頃には「的」は一般的には使用されておらず、学者階層が専ら学術的な翻訳書あるいは論文の中で用いただけだったようです。明治 10 年代末になると小説等にも登場し、30 年代に入ると漱石の作品などに多用されるようになりました。
「的」の語源に関する一説として、広田栄太郎による大槻文彦の引用を採りあげてみます (もともとの文が極めて読みにくいので、ここでは読みやすいように手を加えております) :
この言説を真に受けるのであれば、当時の翻訳家たちは「tic」という語の訳出の難しさを「的」という記号に置き換えるという絶妙な方法で何とか切り抜けたということになります。実際には難しさがそのまま「的」に遺伝されただけで tic の持つ捉えにくさを訳出できたわけではありません。「教育的」という語がどこかフワフワしているのもこの事実に沿えば理解できるような気がしてきます。
本日の投稿は以上です。明日以降の投稿では、教育を扱う専門雑誌に投稿された記事における「教育的」という語の使われ方を分析していきたいと思います。よろしくお願いします。
11日目 「教育的」の歴史3 ~「教育的」の登場&雑誌記事中の「教育的」の分析1~
■蜆一朗
こんにちは。『教育言説の歴史社会学』では、「教育的」という語の使われ方を分析するために、『教育雑誌目次集成』を資料として
①『小学雑誌』(善誘社) 1 ~ 10 号 (1879 年 2/25 ~ 7/15)
②『小学雑誌』(修正社) 1 ~ 115 号 (1882 年 6/10 ~ 85 年 3/25)
③『教育持論』
④『小学校』 (実践面の紹介が中心で ①②③とは性格が違う)
の目次を検討しています。
①② の目次には「教育的」は登場せず、③ についても 1894 年 (明治 27 年) 6 月の 330 号まで「教育的」が目次に現れません。これらのことから 1890 年代にはまだ一般的に普及していないことが読み取れます。また、初期の③には「の/~に関する」の意味の用例が多く、現在では違和感を感じる使われ方が多いです。1910 年代末頃になると違和感のある「的」は消えていき、「価値」「意義」「精神」といった抽象的な概念への接続が増えていきます。④では創刊間もなくの 1906 年時点で「教育的」が登場していて、以後はコンスタントに現れ「価値」「意義」などへの接続が目を引きます。価値的・規範的なニュアンスを含む「的」の使用例が多いことから、 実践の場に近い部分では、こちらが主流になっていたと想像できます。
ここからは ③『教育時論』を 10 年間隔に分け、それぞれ 1 年分の記事の中に「教育的」がどれだけどのように使われたのかを検討します。検討項目は
・どの程度の頻度で登場するか
・どういう語に接続しているか
・どういう意味・ニュアンスで用いられているか
の 3 つです。執筆者層や編集方針の変遷といった雑誌そのものの性格分析が必要になるため、
・誰が使用しているか (体制-反体制、学者-実践家)
・どういう主題に関する記事の中に多く使われているか
については採りあげないことにします。また、現代語訳は僕が個人的に付けたものです(参考にしてください)。
1890 (明治 23) 年の「教育的」
この時代に現れる例は次の2つですべてです。前者は「教育の場で」、後者は「教育の目的で」ぐらいの意味となります。
1900 (明治 33) 年の「教育的」
使用例が急増し、注意深く見れば
⑴ (外国人の教育言説の)機械的な翻訳語として
⑵ 日本人が自分の文章中に使用し、価値・規範的な意味を含まない
⑶ 日本人が自分の文章中に使用し、価値・規範的な意味を含む
という 3 種類の「教育的」があることがわかります。ここでは⑵⑶の具体例を 1 つずつ見ていきましょう :
⑵ の例 : 「教育の/に関する」という意味が多く、今となってはあまり見ない表現です :
⑶ の例 : 今でも使われていて、われわれが問題意識を持つニュアンスを含んだ「教育的」です :
1910 (明治 43) 年の「教育的」
⑴「教育的」に加えて「非教育的」が登場します。規範的な意味を持つ「教育的」が定着したことが伺えます :
⑵「の/に関する」の意味の「的」の比率が減少し、規範性を帯びた「的」の割合が増加します (ここからは現代語訳は必要ないと判断して省略しています) :
かなり長くなりましたが、本日の投稿は以上です。明日は 1920 年代の様子を見ていきます。よろしくどーぞ!
12日目 「教育的」の歴史4 ~雑誌記事中の「教育的」の分析2~
■蜆一朗
こんにちは。本日は 1920 年代に発行された雑誌「教育持論」における「教育的」という語の使われ方の分析を見ていきたいと思います。
1920 (大正 9) 年の「教育的」
規範性を帯びた「教育的」の割合が圧倒的になり、接続する語としても「努力」「見地」「精神」「価値」などの抽象語が目立ちます :
論者の言説の正当性・妥当性は「視点が教育的か」により保障されるようになってきています。教育に留まらないさまざまな領域・事項を「教育的」な言説がカバーし、「教育的」はもはや善のイデアとして自明化したかのようです。
ここでE・エヴァンスという教育学者を採りあげてみます。彼は 19 世紀の公教育の発展過程を検討し、社会秩序の内面化・従順な労働力の形成を目指した大衆教育が、学校生活への「適応」を主たる方法にすることによって、その政治的性格を見えないものにしていったことを明らかにしました。道徳や徳目を一つ一つ教え込むことで労働者・貧民・移民を統制しようとする初期の段階では、学校教育が治安維持を目指す政治装置であることは明瞭でした。南北戦争以後、都市部で登場した教育行政の中央集権化・学校の組織構造の規格化により、個々の徳目の教え込みから効率よく教育効果を発揮する学校組織への改革に転換していきます。社会統制の深化が「教育の合理化」、すなわち従順さや規律正しさを「教え込む」のではなく、学校生活を営む中で「自然に身につく」ように組織を形成することとして語られるようになったのです。最後に筆者の考えを引用します :
本日の投稿は以上です。明日の投稿では「教育的」の分析を引き続き行いますが、1930 年代になると、我々がかねてより持っている問題意識に迫る内容が色濃く現れてきます。その様子を見ていただければと思います。よろしくお願いします。
13日目 「教育的」の歴史5 ~雑誌記事中の「教育的」の分析3~
■蜆一朗
こんにちは。これまで 5 日に渡って「教育的」についての分析を見てきましたが、今日で最後になります。よろしくお願いします。
1930 (昭和 5) 年の「教育的」
⑴ 「教育的」が爆発的に増加し、接続する後の種類が多様になります。意味としては特に規範性を帯びたものが圧倒的です。
⑵ 独自の価値と倫理を持つ領域であることを強調する用例が目立ち、言説の領域も学校外の諸領域へ無限定に拡大されています。教育を一般社会とは異なる価値を追求する仕事と捉えるのは、それが「脱政治性」(反労働運動的性格) と関連していく点に注目する必要があります。 :
「真の」という言い方は、口先だけで教育的と言っているものがいること、そしてそれを問題視する向きがあることを意味しており、現在の状況と同様な「教育的」の中身をめぐる水掛け論の出発点でもあるといえます。また、「教育的」が正当化の論理に使われていることを見抜いて批判する例もあります :
本日の投稿は以上です。我々の問題意識は約100年前にはすでに議論されていた古典的なものであることがわかりました。この100年の間にも多くの教育的な実践がなされ、様々な意見が交わされてきたことと思います。学校教育への不信感・問題意識が活発に議論され、自分が思う「教育的」を気軽に発信できるようにもなり、そういった意見が実際に公教育に影響を与える事例もしばしば見受けられます。しかし、そういった意見の中には、自分が思う「教育的」をただ一方的に押し付けているだけのものが見受けられることもあります。時には自分の意見は偏った視点からのものではないかと自答することの重要性について言及したく、本 WS の議題に取り組んだ次第です。
明日で WS は締めくくりとなりますが、ご意見や質問等はまだまだお待ちしております。よろしくお願いします。
14 日目 最後の挨拶
■シト
今回のWSでは、教育的とは何かについて見ていきました。
皆さんが経験してきた掃除教育からスタートし、各部員の個人的な意見や皆さんの意見を見ていきました。そのあと、掃除教育の歴史を見ていき、教育的について歴史を追っていきました。
座談会では皆さんの掃除教育の体験について話すことができてよかったです。
教育には今回の教育的だけではなく、さまざまなふわふわとしたものがあります。そのため、ちょっとした時代の流行の影響を受け、時代に合った教育などといった話が出てきています。このWSをきっかけに教育におけるふわふわとしたものについて考えてもらえたらなと思います。
2週間ありがとうございました。