『すずめの戸締まり』の岡田斗司夫とか宮台真司よりレベルの高い解説!ネタバレ考察!
※この記事はすずめの戸締まりの詳細なネタバレを含みます。またこの記事は作品に隠された意味を読解する記事であるという性質上、一つの解釈です
うたまると申します。
ワードプレスで個人ブログをやっており、日々研究成果の一部を気まぐれにネットで発信しているのですが最近Googleの気まぐれでPVがガタ落ち。そのためほぼ同じ内容の記事を試しにnoteに投稿してみました。
新海誠監督作品、すずめの戸締まり、を徹底的に本格的に解説します。
この記事ではまず最初にセリフとシーンを確認し、そこから読解問題を解く要領で本作の基本的なテーゼや意図を推理し、つぎにそれを精神分析やユング心理学によって本格的に解析します。
さて、この作品、普通に見たらスズメが母を亡くしたトラウマを克服する物語ですが、深層心理学を駆使して詳細に分析すると実は本当のトラウマは別だと分かります。
さらに新海誠といえばセカイ系と言われますが、本作がじつはセカイ系ではなくセカイ系の喪失を描く作品であることも検証してゆきます。そのことで本作と魔女の宅急便との共通点と相違点も明らかとします。
記事の最後では本作とジブリ作品との心理学的な対応関係を紐解き、本作がなぜジブリ映画を引用しているのかについて整合的な解説を実現。
この記事の特徴は体系的な分析になっている点です。
というわけで本作の物語に隠された意味を徹底読解してゆきましょう。
あらすじ
映画の内容を忘れた人向けにあらすじを紹介
主人公は鈴芽(スズメ)という女子高生。母子家庭であったが幼少期に震災で母を失い以後、叔母の環に育てられる。叔母は過干渉気味でスズメにとっての亡くした母のポジションにある。
物語冒頭。
鈴芽は幼少期に体験したことを夢に見る。
その夢では常世と呼ばれる心的外傷の世界を彷徨い母を探し求める。そこで母親のような女性が現れ、夢から目覚める。
(物語後半で発覚するがスズメが母を亡くした心的外傷は311震災であり、震災のトラウマを巡って物語は展開する。)
スズメは学校に登校する途中、大学生の男に出会い廃墟をたずねられる。彼の名は草太、長髪の美しい青年でスズメを魅了した。
スズメは草太を気にかけ廃墟へと向かう。彼女は廃墟に、どこでもドア、のようなドアだけがある空間を見つけドアを開く。するとドアの向こうは常世に通じており、この世ならざる光景が広がる。
スズメは常世に入ろうとするがドアを潜っても入れずドア越しに常世の景色が見えるだけ。
そんなドアの先に猫の石像が床にめり込んでいるのを発見して引き抜く。すると石像は子猫に変化してどこかへといってしまう。
じつは子猫は要石であった。要石とは地震の原因となるミミズを常世に封印し、日常世界と常世を分かつ石のこと。
また要石は二つあり、二つの石の力で地震が抑えられていた。
そのためスズメが要石を抜いたことで常世のドアが開き、ミミズがいたるところで漏れ出し、地震が起きる。
そして風太は閉じ師と呼ばれる開いてしまった常世のドア(後ろ戸)を閉じて震災を防ぐシャーマンであった。
二人は強力してドアからミミズが出るのを防ぐ。そのあとスズメが草太の腕の怪我を看病をしているところに要石だった子猫がやってくる。
①痩せ細ったその子猫を見つけたスズメはその可愛さにあてられ餌を与え「君、地震怖くなかった、可愛い、うちの子になる?」と話かかける。するとその子猫は「うん、スズメ優しい、好き」と返事をする。
そして猫のダイジンはお前は邪魔といって草太をスズメが所有する壊れた椅子に変えてしまう。
椅子にされた草太は要石にされてしまったのだ。
かくして壊れて三本足の椅子になった草太はダイジンを追いかける。さらに、その後をおってスズメもかけていく。
こうして九州から東京へと猫のダイジンを追い、ダイジンが開いてしまったドア(後ろ戸)をスズメと椅子は協力して閉じてゆく。
ダイジンを追う道すがら、スズメはヒッチハイクでスナックのママの車に野乗る。そのママは双子のシングルマザーで女手一人で働いていた。
②スズメは宿と食事を用意してもらう代わりに双子のお守りをし、その後はスナックで仕事の手伝いをする。
その姿は幼いスズメを引き取り、一人でスズメの世話をして、会社で働く叔母の環や母の姿と重なる。ここでスズメは叔母の追体験をしている。
スズメは東京の特大ミミズを抑え大震災を阻止すべく要石化した椅子の草太を常世のミミズに突き刺し地震を封印する。これにより常世の深奥に草太を失う。
③草太を要石にされたことに激怒したスズメはダイジンと喧嘩。ダイジンは、スズメがダイジンを好きと言ったから要石にした、とスズメに反論する。これに対してスズメはダイジンを大嫌い!と言ってキレる。
かくして失った草太を取り返すため草太の級友である芹澤の助けをかり、さらに心配して追いかけてきた叔母と一緒に311の心的外傷の場所(被災地)、幼少期に常世に迷い込んだ場所へと向かう。
道中、もう一匹の要石であるダイジンの親猫のサダイジンにも出会う。
④このときスズメは叔母の環と喧嘩になるが、そのときサダイジンに取り憑かれた叔母が、スズメを引き取るのは実は迷惑だったと言い出す。そのことにショックを受けるスズメ。
これに対して、スズメは幼少期に震災のなか母を探し彷徨っていると、叔母に「うちの子になろう」と言われ保護されたことを思い出し「環さんがいったんだよ。うちの子になれって」と反論。
これは③のダイジンとの喧嘩の再現シーン
目的地につくとスズメは子猫のダイジンに対して、私が要石になる、といって常世に突き刺さる草太を引き抜くとダイジンは要石に戻り草太も椅子から人間に戻る。
ダイジンは最後に⑤「ダイジンはね、スズメの子にはなれなかった」という。
一件落着する。
すずめの戸締まりの基礎解説
最初に、ここではすずめの戸締まりを深層心理学の知識なしで、中学国語の読解問題を解くのと同じやり方で解読する。
まず前提として、ダイジン=スズメ、サダイジン=叔母&母、という構図が本作の基本となっている。このことはごく自然にシナリオを整理することで結論できる。
あらすじの項目にある①から⑤のパラグラフを確認して欲しい。
①から⑤のセリフとシーンから明確に、スズメの分身がダイジン、叔母の分身がサダイジンと分かる。ダイジンがスズメにつきそい、サダイジンが叔母に憑依したのもこの対応関係のためだ。
また『ダイジンとスズメの喧嘩』が『スズメと叔母の喧嘩』に対応しているのも①~⑤を確認すると一目瞭然であろう。
つまりダイジンとスズメの関係は、スズメと叔母の関係に対応しリフレインしている。
だから、叔母の本音を知り、母=叔母の欠如を引き受ける物語が、すずめの戸締まり、の主題となっている。
スナックのママの下、ちょうどスズメが叔母に引き取られたころの年齢の双子の世話をしてスナックで仕事を手伝うのもこのため。
まとめよう。
まずスズメは幼少期に震災により母を亡くしたことがトラウマとなり、どこか母の死、母の欠如を受け入れられないでいる。そのためトラウマがうまく処理されず、抑圧された無意識のトラウマ(ミミズ)が後ろ戸を突破して現実世界=意識に漏れ出てしまう。
そんなスズメが母の死を受け入れるための旅が本作の全てであり、それゆえ母の欠如をなす311というトラウマが物語の終着地となる。
したがって一見して過保護な叔母に見えるが、そのじつ叔母に母を投影して執着していたのは同時にスズメでもあって、そのスズメが叔母と母を分離し、叔母の子どもとなること(叔母を母とすること)を断念することが本作の旅においてなしたスズメの精神的イニシエーションの達成である。
ダイジンがしつこくスズメに執着し、最後にスズメの子にはなれなかったという台詞はスズメが母の子ども、つまり叔母の子どもになることを断念したことを示しているわけだ。ここに母の欠如(叔母は母ではない、もう母はいない)を受け入れ、叔母と母親とを分離し、叔母を母でなく叔母と認め、母子の分離を実現したということ。
つまり母の死、不在を受け入れたわけだ。
こうして母子分離ができたからこそ、スズメは男と付き合うこともできて草太も復活というわけだ。思春期の女子は父母から分離することで異性と付き合える。
また子のダイジンとの喧嘩シーンで彼氏=草太を要石にされてキレるスズメは、叔母が「スズメを子どもとして引き取ったから婚活で彼氏がつくれなかった」とキレるのに対応する。ようするに叔母の追体験をすることで成長して母子分離する物語ということ。
以上が、深層心理学なしで常識的に本作を視聴した人がたどり着く模範的回答の一例だと考える。
本作を観劇した多くの人も概ね似たりよったりの読解をしたことと思う。
もちろん、こんな見れば分かることを書いていては記事の価値がないので、次の項目では深層心理学の知識にたよって本作の意義や特徴を明らかとしたい。
椅子と移行対象とトラウマ
ここでは本題に入る前に、まず手始めに初歩的な精神分析による本作の読解を試みる。
椅子と移行対象と対象a
さて、本作では壊れた三本足の椅子が徹底的に重要となる。なにせこの椅子は要石でもあり草太でもあるからだ。
じつはこの椅子、亡き母がスズメのために創った椅子でありスズメにとっての宝物。
このような母の代理としての椅子をウィニコットは移行対象と呼ぶ。移行対象とはラカンにおける対象aのことで子どもが母との分離をなすさいに生じる母と自己との中間物のことをいう。ライナスの毛布とか子どもがしがみつく布きれなども対象aの典型だ。
既に確認したように本作は母子分離が主題であった。そのため母子分離のさいに要請される移行対象としての対象aが物語の中心をなすのには合点がいくだろう。
すると椅子がなぜ壊れている必要があるのかが気になる。本作では椅子は壊れていて三本足になっている。
じつはこのような壊れた道具のこともラカンは対象aと呼ぶ。
対象aにはかなりの種類があるのだが、壊れた椅子としての対象aは、母子一体の原初の世界との連続性を宿した対象(大文字の物)の断片と解釈できる。
つまり最初、言語を習得する以前の母子一体の世界においては、言語によって分節される以前の物の直接性の世界がある。授乳による母との一体の満足体験などは、物の直接的体験の典型となる。
このような原初の母子一体における言語以前の無媒介な物の性質を断片的に備えるのが壊れた道具(三本足の椅子)だとラカンはいう。
つまり椅子などの道具は象徴的なものであるため椅子という言語概念(象徴)によって媒介されてしまう。ところが道具はひとたび壊れると、椅子などの言語概念へと回収されることが困難となり、壊れたスクラップそのものとして、言語的意味を超えた生々しい直接性のもとに現前することになる。
このような言語以前の直接性が母子一体の原初の物の享楽の体験(授乳)に通じ、その享楽を断片的に想起させる。それゆえに壊れた椅子は対象aであり、原初の物(母)との連続性を想起させる対象を示す。
※椅子を鏡像と見なし、三本足を鏡像の欠如であり母子分離の契機とする見方もできる
要石と心的外傷と対象a
さて、対象aが母子一体の言語以前の物(対象)を想起させる物の断片であると分かった。
するとなぜ、そのような対象aが心的外傷の爆心地、トラウマの最奥部にてトラウマの世界(常世)を塞ぐ要石なのかが気になるだろう。
じつはこのことも椅子や要石を対象aと見抜くことで、整合的に説明可能となる。
対象aとは言語化以前の始原の直接性の世界の断片であって、つまり言語的な意味以前の世界への門である。
もとより対象aとは心的外傷にある母子一体の直接性(現実界)と言語化された日常世界との裂け目、日常世界(象徴界)に空いた穴(現実界)に想起される対象をいう。
このようにいうとなんで母子一体の始原(言語以前の現実界)がトラウマなんだと思われるかもしれないのでそこも解説しよう。
まず母子一体の世界では子どもには自由がない。つまり子は母の身体器官であり母の命令に従うだけの存在で子どもの主体は母に呑み込まれてしまう。このような始原の母の呑み込みはユング派がグレートマザーの負の側面と呼ぶものにもいえる。
このような主体が消去される始原の幸福体験が主体成立後にトラウマ化することは容易に理解されよう。つまり始原の母子一体の世界とは主体の死につうじるあの世なのだ。
ここに人間が彼岸の死を欲望しつつ母から分離した主体の死を恐れ迂回する欲望のアンビバレントがある。
このような事情で壊れた椅子はトラウマの最奥部にある要石となる。
現実界と日常世界(象徴界)との裂け目を塞ぐ要石とは日常世界に空いた穴の場所に想起される対象aであり死の不安であり憧憬の対象なのだ。
スズメの本当のトラウマ
さらにここまでが分かるとなにゆえに、スズメの被災による母の死がトラウマを形成しているかもよく分かる。
つまりトラウマでは震災で母が不在となったことが問題となっているが、それは同時に母からの分離の拒絶が心的外傷を形成しているということ。
なので表面的には母の喪失がスズメのトラウマのように見えるが深層心理学的には、本作が描写するスズメのトラウマはそうではない。母との分離、母の不在をひきうけることが拒絶されていることことがトラウマなのだ。
死んだはずの母がいつまでも死なないことがトラウマの正体だといってよい。
だからこそ、本作の主題は母子分離であり、トラウマの克服が母の回復ではなく母の喪の作業、分離の作業によってなされている。
また重要なのは、このような母の欠如の引き受け、喪の作業、葬式はまた同時に母との結合を異なる次元でなす点にある。
それは本作のラスト、実はスズメが幼少期に常世で出会った母に似た存在が今の自分であったことに対応する。
※欠如した母のポジションに自己がつけることで無意識(母)の主体性を自己主体とし主体性を獲得することを示す
またこれは自己の分身であるダイジンに対して、スズメが叔母であり母のポジションをとったことにもいえる。ここではダイジンに対して母となることで、自己の分身であるダイジンとの分離(母子分離)が実現している。
スナックのママのとこで母(叔母)のように子育てや仕事の体験をして母子分離、叔母からの子離れをなしたのもそう。
さて冒頭の幼少期の夢では、母としての自己が何を欲望し話すかは示されず、夢が覚めてしまう。
このような母の言葉の欠如、これこそが欲望を形成する。この沈黙であり母の言葉の欠如こそが子どもの主体性を構成する。
※ラカンはこれを人間は他者の欲望を欲望するという
子は母子一体を目指し母の欲望の対象となろうとするが、もし母の欲望の言葉が曖昧で意味が欠如していたら子どもはその欠如した母の欲望を自らの頭で考えねばならないだろう。ここに母の欠如が子どもの主体を生成する原理がある。
つまり冒頭の夢における母(自己)の沈黙、それが語り出す直前で目覚めてしまうこと、これこそがトラウマである拒絶された母の欠如に対応している。
次にラストで幼少期の自分に母として、自分の言葉で自らの欲望として母の欲望を語るシーンがあるが、これこそが母子分離において、母の欠如した欲望(言葉、法)を自己の欲望(言葉、法)として主体化した証なのだ。
ここではスズメは欠如した母の語らいを自らが主体的に紡ぐことで母子分離をなし主体性を確立して語りの出立と呼ばれる思春期の課題をクリアしている。
このとき母とは無意識の主体であり、母となることは無意識の主体を自己化することで主体を確立することに相当する。これをフロイトはエス(無意識の主体)のあったところに自我をあらしめよ!と呼ぶ。
ようするにそのつど自分の行為や発言についてそれが自分の行為であり発言だと受け入れろということをフロイトはいっている。
というのも心的外傷にたんを発する神経症の症状(ミミズ地震)は自らの意志や意識に反して生じる自己の衝動や想念、行為を示すのだが、
このとき、この意識を無視した行為(症状、ミミズ)を人は無意識の主体性の発露と捉える。このような自己意識に拒絶された症状を言語的に解釈して引き受けることで神経症が克服される。
つまり無意識の主体が意識化、自己化されることで症状は一時的になくなるのだ。
だから母となって、その言葉を自らの言語で語るとは、地震ミミズ=症状である無意識(母)の主体(欲望)を言語的に解釈して、自らの言葉として自己主体化することに相当する。
つまり本作のラストで母の位置から幼少期の自分に対して、自らの言葉で母の欲望を語るシーンは、フロイトがいうエスのあるところに自我をあらしめること、精神分析において到達する症状の解釈に相当する。
そしてこのような症状=地震ミミズの克服の様態と、母の欠如を引き受ける母子分離の作業が本作では共同しているのである。母の欠如の引き受けが自己の主体化であったことを思い出そう。神経症の克服とは、このような主体化によってエスを自己化することに他ならないというわけだ。
以上がラカン派精神分析を用いた、基礎的な本作の読解になると思う。
ちなみに神経症の症状とは根源的な心的外傷を背景に、無意識に抑圧されたその心的表象が、変形して意識に回帰することで生じる。つまりミミズ地震とは抑圧されたものの意識への回帰物なのだ。
ミミズは現実界の母であり、ミミズを常世に封じることは母子分離を示す。
なんとか無理矢理コンパクトに心理学的基礎読解をダイジェスト解説したので、次項はいよいよ本作の核心に迫る!
すずめの戸締まりの真の意味
本作はセカイ系という観点からみてゆくとその特徴がよくわかる。ここでは最初におまけとして父性の問題と作中に出てくる蝶の意味を考察してから、セカイ系という観点で本作の本質を分析したい。
父の不在と二匹の蝶
本題に入る前に本作の特徴の一つに簡単に触れておこう。
本作を見て気になったのがスズメの父の不在だ。もとより母子家庭で父は姿すら登場しない。
そして父に代わり日曜大工をする活発な母親が印象的だ。
母はスズメにとって父の代わりでもあったのかもしれない。
さて、これは何を意味するだろうか。いっぱんにラカン派精神分析では母子の分離は父による子どもの承認によるとされる。
ところが本作には父は出てこない。父を代理していたっぽい母もすでに亡くなっている。
また父に相当する存在として草太の祖父が登場する。祖父は威厳のある父の像をなすが、病魔に犯され入院生活を余儀なくされる。
このような一連の描写は、日本における父性の終演を象徴しているのかもしれない。じつは世界的にみて父の機能が衰弱し母子分離が困難になってきていることが臨床心理学の論文ではしばしば指摘される。
これをラカン派などは母の気まぐれな欲望が優位だといったりする。
すると本作は父亡き時代に父なしの母子の分離を描いた作品と見ることもできる。とすればいかなる条件と構造によってそれがなされたかが問題となるだろう。
少し考えてみたがそこまでは分からなかった。
ところで本作では草太が対象aにおとしめられてしまう。じつは相手を対象aにおとしめるのは本来は男性とされる。
母親が日曜大工をこなれた手つきでしていたり、本作におけるジェンダー描写は非常に先進的な側面があるかもしれない。
かつてユング派の河合隼雄はこれからの日本社会は女性の意識にあるといっており、本作の女性はそのような止揚された新しい女性像なのかもしれない。
もっともラストでスズメが椅子にキスをして草太はもとに戻るので、たんにカエルの王様がモデルなだけかもしれないが。
次に本作で意味ありげに登場する黄色い蝶々について考察しよう。
冒頭の夢からの覚醒シーンやラストの常世のシーンで二匹の蝶が登場する。他にも蝶が飛び立つカットなどが要所で差し込まれている。
蝶はギリシャ語でプシュケーであり、これは魂を意味する。冒頭で目覚めたときにスズメが「お母さん」とつぶやき、その場面に二匹の蝶が舞うので、これを母の魂と読解する手がある。
しかしユング心理学的には二匹の蝶はスズメの魂ととるのが妥当と思う。
魂とはもとより母なる無意識(常世)へと自我をつなぎ導く存在だからだ。なぜ蝶が二匹なのかが気になるだろうが、これは分裂と分離の主題として解釈できる。
双子の蝶は魂の分裂を示し、スズメの母からの分離の主題を表象するとユング派ならば解釈するのではなかろうか。するとスナックのままの子どもが双子だったこともうなづける。
スナックのママの双子は幼い頃のスズメの分身であるからスズメの母子分離の主題が双子という分裂のメタファーとして登場していると考えられる。
母子分離が母の場所から自己に語りかけること(エスのあったところに自我をあらしめる)であったことを思い出そう。母子分離の成果とは、本作のラストでスズメが幼少期の自分自身に語りかける場面にあるように、自己を自己に見られる自己(語りかけられる自己)と自己を見る自己(語りかける自己)とに分離しつつ同じ自己として同一することであった。
したがって同じものの分裂、母子分離の主題として双子のモチーフが登場していると考えられる。
偶然かもしれないが双子はおそろいの黄色いTシャツを着ていて、どこか双子の黄色い蝶を連想させる。
セカイ系的な側面
本作について、人によってはセカイ系という印象をもつ人もいるかもしれない。なにせヒロインの心的外傷や男との恋愛感情が、そのまま100万人の命を巻き込む東京の大震災に直結しているからだ。
しかし、本作は少なくともオールウェイズ三丁目の夕日や三丁目のゴジラ(マイゴジ)におけるようなセカイ系とは一線を画する。
というのも本作では徹底して無意識の主体が問題となるからだ。つまり他者がいる世界を描いておりセカイ系によくある他者(無意識)のないセカイではないということ。ちゃんと本質的な仕方で外部が描かれているといってもいい。なのでセカイ系といっても山崎監督よりエヴァの庵野に近い。
が、庵野のセカイ系ともまったく違う。
では本作のインナーワールドと外的現実世界との直結するセカイ系性は、どのように解釈するのが妥当だろうか。
僕の考えではそれはアニミズム的な日本的心性として解釈できる。
本作におけるような外的世界と内的世界の対応は近代以前のコスモロジーに親和する。
たとえばアフリカのエルゴン山の部族は日の出の瞬間の太陽を崇める宗教儀式をする、その儀式のために太陽は昇り世界の秩序が保たれると考えている側面がある。これは本作で戸締まりの宗教儀式によってミミズを食い止め地震を阻止して世界の秩序を保っていると思い込む草太やスズメの心性とピタリと一致する。
※地震は古来日本では地下のナマズの仕業とされた
また新海誠の出世作である『君の名は。』でも日本の古い伝統が登場するわけで、新海誠作品は古い日本の心性を示唆する民族学的描写が多い。
さて太古的な心性では、個人の主観は個人に限定されず外界へと投影されていた。そのために主観的な神話や儀式が外的現実世界と直結していたのだ。
本作の内的世界と外的世界の連絡はそのような太古的心性に通じるだろう。
このような心性は日本人に顕著で日本人は現代も、こうした太古的な心性に親和することが臨床心理学の論文ではしばしば指摘される。
またユング心理学におけるコンステレーションのロジックは本作のような外的事象と内的事象の共時性を見出す論理であり、したがって本作はユング的な側面も強いといえる。
そもそも母子分離という極めて普遍的な題材を取り扱うため、本作の外的現実と内的現実の直結は、その意味では悪くない。むしろあの震災が日本人の多くに、母子分離に関する外傷性を投影されうるという監督の洞察があったとしても僕は驚かない。
しかしこの洞察は本作のセカイ系性の本質ではない、この作品はかなり衝撃的なことをやっている。次の項目でそのことを解き明かそう。
セカイ系の否定と真のメッセージ
本作はスズメの思春期における母子分離のイニシエーションを描く。
異性を相手に自らの言葉で自らを語る必要に迫られ、そのことで母子分離のイニシエーションが始まったとみることもできよう。
しかしスズメだけでなく、草太や芹澤、叔母の環もまたイニシエーションにある。草太と芹澤は教員試験を控えており、こうした社会的ステータスの変化する試験は深層心理学ではイニシエーションの典型とされる。
ちなみに環は娘代わりのスズメ(ファルス)を断念するイニシエーションにあった。
さて草太はシャーマン(閉じ師)だったがシャーマンとしては生きていけず教師になろうとしていた。
これらの設定は現代において太古的イニシエーションは否定され、その結果シャーマンも社会的には全否定、太古的イニシエーションが存在しないことを示す。
※太古的イニシエーションとは、日常から隔絶された超越的宗教世界(非日常、常世)へと参入し、そこで試練を乗り越えて再び日常世界へと帰還することで心理的に成長する儀式のことで子どもから大人などのステータスの移行にさいして行われる
つまり、かつて神話的なコスモロジーが生きていた時代にあった集団での神聖な儀式による外界と内界の直通するイニシエーションはもはや消滅し、現代ではそのような太古的イニシエーションそのものがないことを描く。
現代に残った神話的イニシエーションは、辛うじて個々の不思議体験として残る個人的なものに過ぎずそれは妄想に等しい。
また芹澤に関しては神話的イニシエーションの途中でドロップアウトしてしまう。さらに環も最後までは神話的イニシエーション世界(常世)には入り込めない。こんなことは太古のイニシエーションでは考えられない。
※近代人のイニシエーションでは神話的イニシエーション世界(常世や夢など)が否定されることで逆説的に心理的イニシエーション(変容)が実現する構造がしばしばあり本作の芹澤と環はその典型
二人とも人生の節目にありステータスの移行時期にあってイニシエーションが要請されて、スズメと草太の神話的イニシエーションに関わったが、現代人ゆえに神話的イニシエーション世界に入り込めず途中でリタイアしてしまう。そしてそのことで、心が晴れて実存にちょっとした変化が起きている。
現代のユング派の重鎮、ギーゲリッヒによると現代西洋人においては夢の中ですら太古的イニシエーションは消滅し、人々は夢の中でさえ太古的イニシエーション(常世)の入り口までしかいけない、という。
※ギーゲリッヒは現代欧米人が夢などで体験できる神秘は常世の入り口までで、入り口を超えてイニシエーション世界(常世)に入るのは不可能という。これは環が常世のドアまではついていけてもそのドアをくぐれなかったことに対応
本作の芹澤や環のあり方はこのことをよく示す。
例えば、芹澤がドロップアウトするのは母猫のサダイジンが喋ったのを聞いて驚き車がクラッシュしたため。これは猫が喋るという太古的なイニシエーションのあり方にほとんどの現代人がついていけないことを示す。
つまり本作は外界と内界の直接的な太古的連続性を描く一方、そのような太古的なあり方(セカイ系)が現代社会ではもはやありえないことを示していると考えられる。
その意味では本作は滅びてしまった太古のイニシエーション(セカイ系)の喪失を描いた作品となる。
つまり母の喪の儀式という主題はここでイニシエーションそれ自体の喪に通じているのだ。
この仮説の根拠を以下に本作の描写から探ってゆこう。
結局、100万人を巻き込むと言われる東京の大震災というのもスズメが事前に止めるので起きないのである。すると、とつぜん宙に舞う少女として周囲の人に目撃される程度のことはあったが、基本的には、勝手にスズメと草太がインナーワールド(太古的妄想)にのめり込み、古代的な妄想(コスモロジー)のなか、あらぶっているようにしか見えない。なにせミミズは草太とスズメと草太の祖父にしか見えないわけで。
だから本作ではスズメ視点のミミズが荒ぶるセカイと一般人達の日常セカイ、二つのセカイの光景を丁寧に描いているのだ。東京でのカットをよく見て欲しい。わざわざミミズが見えない景色と見える景色の二つが描写されている。
旧来のセカイ系ならミミズは全員に見えていてミミズのいないセカイ、神話の外部の視点など存在しない。
辛うじておかしな動く椅子と宙にとぶ裸足の狂った少女が僅かの人に目撃されただけで本作の出来事の核心にある壮大な首都救済の神話は外部の人には感知すらされていない。ある意味ではそれは妄想に過ぎない。
だから二人の関係を外からみるだけの現代人の芹澤は、途中でイニシエーションの道をドロップアウトし、二人の関係を遠巻きにうらやましがるのである。
車がお釈迦になり、イニシエーション世界へと駆け出すスズメと環を見送る芹澤の台詞を確認すると「いいなぁ、草太の奴」といっている。
芹沢は自分はここまでが限界で太古的なイニシエーションに入ってゆけいないことを知っている。だから太古的な心性を宿す草太とスズメをうらやましがっているのだ。ここでは失われた太古的心性への郷愁が描かれていると解釈できる。
僕が思うのは、このような監督の現代における神話的イニシエーションの死という洞察こそが本作が人をひきつけてやまない本当の理由なのではないか、ということ。
ここまでを理解すると、本作がセカイ系という読解が微妙だと分かるだろう。そうではなく、本作はむしろセカイ系的な内界と外界の直結する太古的セカイに対する喪失がテーマであり、その意味でセカイ系の終わりとしてのポストセカイ系なのだ。
ジブリ映画、魔女の宅急便との関係
さて、本作は喋る猫が登場し、ルージュの伝言という曲がかかり、思春期の女性が恋愛を通じて親元を離れ成長する物語となる。
すると魔女の宅急便との共通性が明らかとなろう。魔女宅も母の元を離れた思春期の少女キキがルージュの伝言を聴きながら旅に出て喋る猫ジジをつれ、トンボに恋をして大人になる話だからだ。
ところが両者は根本的なところが違う。
魔女宅ではヒロインは幼児の心性として表象されるアニミズム的なセカイ(空飛ぶ魔法の力)を失い、その力が異性愛という一点に限局されること(恋するトンボのためにだけ空を飛べる)で大人へと成長する。
いわば太古的なイニシエーション世界(魔法)を喪失(限局)することで起こる近代的な成長を描く。
このようなモデルのイニシエーションをユング派では近代以後に固有の形態としてイニシエーションの否定によるイニシエーションと呼ぶ。
※このようなアニミズム的享楽を一点に限局することを精神分析では、ファルスによる享楽の局在化と呼ぶ
対して、すずめの戸締まりでは、どういうわけか草太は太古的イニシエーションの世界に留まってしまう。
彼は教員として社会に適応しつつ、シャーマンを継続し、その核心を近代化されず太古的イニシエーション世界に留まるのだ。
草太は非常に乖離的だと思う。
※太古的世界は子どもの心性に親和し、本作では双子の子どもが椅子の草太の秘密に勘づくシーンにそれがよく現れる
また閉じ師のことを知るスズメも本質的には太古の心性を手放すことがないのかもしれない。つまりイニシエーションの残滓の終わりまでは描かず。なんとも言いがたい仕方でそれが残存する解離的二重世界(ミミズがいる世界といない世界)の継続を提示して本作は幕を閉じてしまう。
草太がシャーマンを継続し戸締まりを続けるのは、震災の被害を今後も忘れずに鎮魂することを示すのだろうが、太古的なレベルでそれを継続する必然性はないと考えられる。
したがってこのような太古的なものの残存、終わりなさがポストモダン時代の特徴なのかもしれない。
※本来、草太がシャーマンを継続する限りスズメにとって草太は彼岸の男性であって交際は成立しないがスズメもまた太古的な心性に留まるゆえ交際が叶ってしまっている
さらに考えると、芹澤が眼鏡のチャラ男でなんとなくトンボに似ていなくもない、そして草太はなんとなくハウルに似てる。現代人の芹澤(航空力学のトンボ)と魔法使い(シャーマン)のハウル(草太)という対応を連想する。
トンボ(近代主体)を排除してハウルを選んだキキ、つまりいつまでも魔法が使えて猫が喋り続ける状態を選択したのがスズメなのかもしれない。
その意味では本作のポストセカイ系のあり方は、オルタナティブな魔女宅と観れる。
監督が魔女宅を意識しているのは確定だろうから、なぜこのような成長しきらない子どもと大人の狭間みたいな終わりにしたのかは不思議である。
終わりに
今回は本作をセカイ系の余塵をめぐる物語として読解してみた。
いうまでもなくすずめの戸締まりは名作であり、他の人がマネできない構造をしている。
もっともあくまでも僕の解釈に過ぎないのではあるが。
定型を崇めるつもりはないが、個人的には魔女宅のストーリーのが定型的で健全に思うのは僕だけだろうか。非定型を乱費する現代人の狂気には魔女宅的な物語の回復は凄く大切だと思う。もちろん素朴に過去の物語を反復するのは無効なのであるが。
日本人は疫学的にみてあまりに太古的過ぎて文明がなりたたないレベルなので、新海誠監督には今度は、完全に古代的な心性の埋葬をなす作品を幻想そのものの自己展開としてつくってもらいたいという思いがある。
かってな要望ではあるのだが。
また本作のミミズ描写を精神病における世界没落体験(享楽の脱局在化)として捉え、スズメの父の不在における妄想性隠喩の獲得として一連の物語を読解することもできると思う。むしろそっちのが物語の辻褄があうかもしれない。
※追記:君の名は。は否定神学構造の典型でありパラノイアの構造がそのままトレースされているので、本作はやはりラカンの精神病理論と凄く親和性が高いようである
このベクトルの読みをしなかった理由は現代社会では精神病が普通化(無発病化)してしまったため、現代社会論としてみたときにこれだと微妙な読みになる可能性があったから。
この作品の主人公はぼくの中では芹澤(啓蒙主義者のノスタルジー)だったりする。どうしてもスズメと草太が太古的な妄想に取り憑かれたパラノイアにしか見えないからだ。ミミズは二人にしか見えていないから太陽を拝むエルゴン山の住人や雨乞いの儀式をする古代日本人が現代社会に迷い込み勝手にあらぶっているようにしか見えなかった。