発達障害は個性なのか

最近、良くも悪くも発達障害について話題になることが多い。

そこで一考の余地があるのが「発達障害は個性」と呼んでいいのか。ということだと思うのです。

それで、一旦私なりの意見を述べさせていただくと、答は是。です。そうとしか言いようがありません。

ヒトの脳髄は狩猟時代からそこまでの進化を遂げていない。という言説があります。もしそれが殆ど真実だとしたら、我々の子孫は如何して現代まで子を紡いでくることができたのか。

発達の凹凸が強い人は役に立たなかったのか。

そんなはずはない。拘りの強さや癖は職人気質だ。感覚過敏は狩猟や索敵に、多動性は果物を探すことにも大いに貢献したことだろう。寧ろ上手く馴染んでいるとさえ言える。

さて、少し話は逸れるが皆さんは働き蟻の法則を知っているだろうか。働き蟻はその6割が普通の蟻、2割が良く働く蟻、そして残りの2割が働かない働き蟻である。という社会集団の性質を上手く表現した法則だ。

何かしらトラブルが起きても8割の蟻の一部が犠牲になり、補欠の蟻達が出動することができる。そしてまた最終的にはこの6:2:2の法則に当てはまるよう帰結するのだ。

もう少し考えてみよう。地球が生まれ、生命が誕生してから。もう我々には途方もない程の年月が過ぎた。その中でこの地球の生命の進化はある種の成熟期。言い換えると停滞期に入っているのではないか。と。

そう考えてみると、働き蟻から導き出されたこの偉大な法則はどの生命にも置き換えられるのではないだろうか。だから法則などと大層な名を与えられたのだろうと。数学に於いての法則もそうだが、ある程度の普遍性がなければこの名は与えられない。

少々雑なまとめにはなるが、ヒトは進化してここまでの文明を発展させてきた。進化に必要不可欠なものは多様性だ。

ヒトは差別や偏見等に中途半端に知恵を付けすぎた。

エデンの園に行ってはもう果実を齧る以外の方法が有ろうか。人はその弱小な知性と偉大な先人の所為で無用な文明を発達させ過ぎた。

だからこそ我々は知らなければならない。ヒトが犯した業を贖い続ける為に。これ以上不幸な同胞を生まないために。

ヒトが社会的動物で在る以上、要らない人間なぞこの世に存在しないのだ。

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