見出し画像

「ふりだしに戻る」|生きる行脚#6@宮城

 僕は大学で学んでいることや「大学」という環境、自分の将来のことなど、いろんなことについてとにかくもやもやを感じていた。
 そんな中REIWA47キャラバンでの株式会社ポケットマルシェ(現:株式会社雨風太陽)のCEO、高橋博之さんとの出会いをきっかけに、大学3年生(2021年度)の1年間を休学し、日本各地で一次産業を生業とされている方の隣で一緒に作業をさせてもらう旅、「生きる行脚」をすることを決めた。
 生きる行脚とは、一次産業を生業とされている日本各地の漁師さん・農家さんのところに住み込みで1週間~1か月ほど滞在し、漁師さん・農家さんが普段やっているようなことを隣で一緒にやらせてもらう修行の旅である。
一次産業という産業のなかで物理的に命を扱ったり命と向き合ったり、一次産業を生業とされている方の生き様などを通して「生きる」とはどういうことなのかを感じたり、考えるため、2021年の3月8日(火)から2022年の3月28日(月)までのおよそ1年間、この「生きる行脚」を実施した。
 このnoteでは、この1年間で日本各地の漁師さん・農家さんのところへ行かせていただいたときに僕が見てきた景色や、僕が感じたことや思ったこと、考えたことを綴っている。

キ跡と意気込み


 6月11日、この日がやってきた。岩手での修行を終え、新天地を求めて宮城へと旅立つ日だ。だけど、具体的な行き先は決まっていなかった。ポケットマルシェのアプリを使い、2週間以上前から数人の漁師さんに船に乗せていただけるようお願いをしていたがなかなか良い返事をいただけなかったり、返信自体をいただけずに時間だけが過ぎていった。そしてついに、行く先が決まらないまま岩手での修行を終えた。

 ポケマルを使ってもうまくいかない、Twitterを使ってもうまくいかない、ということで岩手を発つ前の日の夜に「宮城県 漁業 求人」と検索バーに入れてググってみた。すると、気仙沼の一艘の船が目に留まった。船の名前は「第十八 一丸(かずまる)」。ポケマルを使ってお願いしたが、返信をいただけていなかった船の1つだった。詳細に目を通すと、どうやら「突きん棒」という漁法でカジキを獲っているらしい、ということが分かった。また、別のサイトを見て、魚市場前にある鶴亀食堂というところに行って相談してみたらどうにかなる気がした。だから決めた。

「気仙沼に行って、歩くなり人に聞くなりしてこの船を探す。そしてその場で直接お願いしてみよう。」

 11日、17時16分。バスに揺られて最寄り駅に着いた。そして鶴亀食堂を目指したが、鶴亀食堂は朝の早い漁師さん向けの食堂で7時から13時までの営業であったため、僕が着いた頃には既に閉まっていた。結局その日は何の情報も得られないまま、ホテルに着くまで約20㎏の荷物を抱えて8kmほど彷徨い歩いた。
 翌日、たいていの市場は土曜日が休みだからきっと鶴亀食堂もやっていないだろう、と思いながらも「やらずに後悔するよりはいい。」と思い、片道1時間かけて歩いて鶴亀食堂へと向かった。
 こういうのは意外とやってみるもので、予想外にも鶴亀食堂は営業していた。そこでお店の方に「すいません、佐々木夫一(ゆういち)さんっていう漁師さんを探してるんですけど…」と尋ねると、「あぁ、一丸!ちょっと待っててね。」と言われ、電話を繋いでいただけた。
 そして、電話口で「すいません、今日から2週間くらい船に乗せていただきたいです。」とお願いしたところ、二つ返事で受け入れていただけることとなった。宮城でまた新しく漁業について知ることができる。どうにか首の皮一枚つながった。どんなに大変でも2週間しがみついてやる、と思っていた。この時は。

画像1
気仙沼港の様子。300~400トン級の大きな遠洋マグロ船や、100トン級のサンマ船がずらりと並んでいる。北は北海道の根室、南は宮崎から船が来ていて、見たことない漁港の規模感に圧倒された。


戦場(船上)


 朝4時に出港すると、3泊4日の突きん棒・大目流し網の航海が幕を開けた。船に揺られることおよそ5時間、漁場に着くとまず突きん棒が始まる。 
 突きん棒とは、海面からほんの少しだけヒレを出して泳いでいるカジキを目視で探し、船の先端から少し出っ張った「突き台」と言われる場所から長さ約5m、重さ約12~13㎏もあるモリを投げ込んで仕留める、野性味溢れる漁法だ。どこまでも果てしなく広がる海の中からほんの数十㎝しか見えないカジキのヒレを見つけ出すのは雪原の中のつまようじを探すようなもので、睡魔とも闘いながら常に神経を尖らせて海を見ていなければならない。

画像2
船首にある見張り台。ここから見下ろすようにして、目視でカジキを探す。
画像3
突き台からカジキめがけてモリを投げ込む直前の瞬間。1日にカジキと遭遇できる機会は限られているため、この瞬間はかなり緊張感が漂っている。
画像4
モリで突いたメカジキを船に上げるときの様子。小さいものでも100kg前後、大きいものだと300kg近くあるため、クレーンのような機械を使って引っ張り上げる。
画像5
デッキに上げられたメカジキ。電気ショッカーで瀕死の状態になっているとはいえ、急に暴れだすこともあるため、解体するまでは気が抜けない。


 15~16時辺りまで突きん棒をやった後、休む間もなく大目流し網の網入れ(網を海に落としていく作業。)が始まる。
 大目流し網とは、潮の流れや風に任せて海面に網を流し、そこに泳いできて絡まったアオザメやヨシキリザメ、モウカ(ネズミ)ザメなどのサメやメカジキを獲る漁法だ。
 大体1時間ほどで網を入れ終わると夕飯を食べ、22時半まで仮眠をとる。そして23時頃から網上げが始まり、翌朝5~6時まで網を上げ続ける。それから朝食を食べて仮眠をとり、9時からまた突きん棒が始まる、というのが1日の流れで、このサイクルを4日間繰り返した。

画像6
大目流し網の網上げの様子。網に絡まっているのは、(たぶん)ヨシキリザメ。
画像7
1週間近くは沖に出っぱなしで陸に上がることがないため、獲れたサメはすぐに頭と内臓を取ってなるべく鮮度の良い状態にしておく。


 日をまたぐほどの長い時間船に乗っていたことのない僕は初日から酔ってしまい、最初の2日間はご飯も喉を通らなかった。また、船にはシャワーもトイレも付いていないため、4日間体を洗わずに過ごし、船から落ちるのが怖くて排泄も我慢していた。そして、仮眠をとっていても、普段の生活リズムとはまるで違うためどうしても頭がボーッとした。想像をはるかに上回る体力的なしんどさで、立っているだけ、デッキに出ているだけで精いっぱいだった。

 そして体力的な厳しさもあったけど、それ以上に精神的な厳しさの方が大きかった。突きん棒では、カジキとの勝負は一瞬であることや、船に上げる際に吻(口先が長く伸びた部分)や尾で叩かれて怪我をしたり電気ショッカーに誤って触れると感電する危険性があることから、カジキが見つかると船の上にはものすごい緊張が走る。また大目流し網は、網に手や足が絡まれば海に引きずり込まれかねないし、網を巻き上げる機械に手などを挟まれれば大怪我をする可能性もある。そして作業時間が押せばその分仮眠時間が削られてしまうため、昼に行う突きん棒のとき以上に船の上にはピリピリとした空気が流れる。
 そして、これは僕の配慮が欠けていただけなのだが、大目流し網で獲れたサメに興奮して写真を撮ったら「写真撮ってんでねぇ!」と怒られたこともあったし、「〇×△▢※…って言ってこ!!」と言われたものの「〇×△▢※…」の部分が方言と、漁師さん特有の訛りと、専門用語で聞き取れず、「は⁉」とか「なに⁉」と聞き返していると「馬鹿この!!!」とものすごい剣幕で怒鳴られたこともあった。また時には背中や尻を叩かれたこともあった。

 海に出れば常に危険と隣り合わせだ。1つのミスで骨が折れたり、下手をすれば命を落としてかねない。「ミスは絶対に許されない。完璧な仕事をしなくちゃあ、ダメだ。でも人間がやってることだから間違いっていうのは当然あって、実際に100%完璧っていうことはない訳さ。だから、完璧を目指して限りなく100%に近い仕事をしなくちゃならない。そうすると必然的に言葉遣いとか口調が荒くなったり、声を荒げることが多くなんだよなぁ。」と、親分の夫一さんは話してくれた。そしてまた、「お前はあいつら(乗組員さんたち)から最高の歓迎を受けたんだよ。普通なら『下がれ!!!』って一喝されてあとは指くわえて見てるしかないんだからよ。」と教えてくれた。いずれにせよとにかく経験したことのないほどの緊張感で、僕はその殺気立った空気に終始飲まれっぱなしだった。

 体力的にも精神的にも限界で、本気で「海に飛び込んで泳いででも帰りたい。」とか不謹慎ながらも「なんでこの船に乗せてもらおうと思ったんだろう…」と何度も何度も思った。4日目に帰ると聞いたときは喜ばずにはいられなかった。カジキは探さずに水平線の奥をじっと見つめて見えるはずのない陸を本気で探した。
 正直、高校野球の練習より辛いことはないと思っていたし、「そんじょそこらのやつとは根性とか諦めの悪さが違う」、という自負が僕の中にはあった。だけど、この突きん棒・大目流し網の漁でそんなものはいとも簡単に打ち砕かれた。僕の人生はまだ20年しか経っていないけど、今まで経験してきた何よりも圧倒的に辛かった。

画像8
船からの景色。今見ると「きれいだなぁ。」と思えるけど、当時は、「とにかく陸に上がりたい。」という一心で、雲と海の切れ目で影になっているところが山に見えた。(港から船を走らせて約5時間の沖合なので、山とか陸地なんてみえるはずはない。)


「好き」ということ。


 帰ってきた日の晩ご飯のとき、夫一さんに「どうだった、単刀直入に。」と聞かれた。
 「単刀直入に…」と言って少し間を置いたあと「きつかったです。もう…たくさんです。」と僕は答えた。悔しかった。来たばかりの頃は「2週間食らいついてやる。」なんて意気込んでいたのに、1週間でリタイアしてしまうなんて。でも、沖に出ていた時はビリビリとした空気感と体力的な疲労で正直、口が裂けても楽しいとは言えなかった。それに、プライドを持って働いているプロの仕事を見せていただいたり、体験させてもらうのに前向きな気持ちになれていない僕がついていくべきではないと思った。そして当然、「楽しかったです!もう1航海行きたいです!」なんて嘘もつきたくなかった。だから、正直に心の内を明かした。

 すると夫一さんは分かっていたかのように「だろうな。」と言って続けた。
「でもな。あんなのはまだまだお遊びだ。ほんとはあんなもんじゃねぇんだからな? 1週間以上沖さ居ることだってあるし、27時間休憩もしねぇでずっと立ちっぱなしで網上げ続けたことだってあんだぞ? こんな事言っちゃ悪ぃけどな、お前たち“ゆとり世代”って言われる若いやつらはまだまだどん底を知らねぇんだわ。俺たちからすりゃあんなの屁でもねぇんだわ。

 漁師さんたちはメカジキが獲れれば手を叩いて喜んでグータッチをする。食事中も、「家で飼っているウナギが餌を食べる様子を見ながら2時間酒を飲んだ」とか魚や海の話ばかりしている。大の大人が、キラキラと目を輝かせて子どもみたいに楽しそうに笑っている。僕からしたら、この光景はちょっと異常だった。でも、

「あぁ、これがきっと「好き」ってことなんだろうな。こんなにも魚とか海が好きだから、初航海のときや新人の頃から今回僕が体験したような思いをしてきても、漁師でい続けられるんだろうな。」

と思った。この時、学歴とか資格とかスキルみたいな肩書きのようなものじゃなくて、「好き」っていう想いとか心がないとなれない職業があるということを初めて知った。
 「いやぁ…、ほんとに好きじゃないとできない仕事だと思いました…。」と返すと、

「だからよ、漁師ってのは本当に魚とか獲ることが好きじゃねぇとできねぇ仕事なんだ。いっくら金を積まれたからとかそういう話じゃねぇんだ。だから大貴、お前がなるのは漁師じゃねぇな。陸さ上がってるときの方がいい顔してるわ。」

と一刀両断された。
僕はそうなんだろうな、と思った。
 これまで漁師になりたいのか、と聞かれたときに僕は「分からないです。」と答えてきた。それは、いくつかの漁業の世界を転々とする中で楽しさを感じていたことは間違いなかったし、「もしかして自分、漁師になりたいのかな?」なんて思うこともなくはなかったから。だけど、具体的に漁業の何に惹かれているのかは分からずにいた。ただ1つ言えるのは、魚を食べることは好きでも魚や魚を獲ることに対して漁師さんほどの深い思い入れはなかった、ということだ。何となく船に乗っているのが気持ち良くて、何となく船の上から見る景色が好き、という程度だった。その程度では「好き」とは言えないのだと肌で感じたし、そんな生半可な気持ちでもし万が一漁師になったとしても逆境に立たされたらきっとどこか途中で折れてしまうんだろうな、と思った。だからきっと、「僕がなりたいのは漁師じゃないんだろうな。」と確信した。


若輩者


 「魚獲るって大変だったでしょ。でもこれも経験だからいいの。でもね、もっともっと辛いことなんていくらでもあるから。そう思ってこれからも頑張ってね。」
 これは、夫一さんの奥さんの言葉だ。確かに、今まで僕が見ていた景色はこのだだっ広い世界のほんの一部にすぎなかったのだと思う。まだまだ見ていない景色がある。知らない世界がある。
 そしてこの気仙沼での滞在で「向き合う」こととかなにかをやる姿勢について考えさせられたり、「自分がやりたいことは何か?」という問いに対する抽象度は上がったような気がする。なんか、そういうことを色々含めてふりだしに戻ったというか、「まだまだ青いんだよ。」と平手打ちをくらったような気分になった。

         「心入れ換えて出直してこいや。(笑)」

という乗組員さんからの言葉が心に沁みた。


 突然やって来たにも関わらず面倒を見てくださった夫一さんご夫婦、帰る直前まで「おめぇももう1航海一緒に行ぐんだぞ!」といじってくださった(頑なに遠慮させていただきました。)愛情深い乗組員のみなさん、本当にありがとうございました。

画像9
港へ魚を降ろしに行って帰ってきたときに撮った1枚。漁以外のときは乗組員さんたちもユーモアで溢れていて優しかった(?)。
ほんとに良い体験をさせてもらったと思う。ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?