見出し画像

個であり、全であるという性質

 ナグです。

 スピリチュアルな話を、いろいろと思うままに書き綴っているのですが、気づきの段階、取り組んでいることの段階によって、“必要な認識”と言うものがあると思っています。

 これは、何についてもそうですが、
“この段階をクリアするためには、これだけのことをマスターしておく必要がある。”
というものがありますよね。それらを体形立てていくと何かを学ぶときの「カリキュラム」のようなものが出来上がってくると思うのです。

 精神世界的な(スピリチュアルのことを昔はこう言っていた)教えや学びというのは、理解するには抽象的だったり、難解なところがあるのかもしれません。

 こう言った“抽象性”を理解するには、“具体的なもの”から、抽象的なことがらを抽出し、統合する、という思考の訓練が必要になってきます。

 『自分(わたし)』という存在を考えた時に、“身体”が「わたし」である。という考え方が基本になっているのか?“霊(スピリット)”が「わたし」である。という考え方が基本になっているのか?この点だけでも、その人の在り方や生き方、価値観などに大きな影響が出てくるのがわかると思います。

 どちらがよい、と言うわけではないですし、それぞれの選択ですのでその人が信じる生き方をしていけば良いのですが、もし、「わたしは身体だけの存在ではない、霊的な存在だ。」ということを感じていて、それを探求していこうとするなら、歩んでいく道程、段階というものがあります。

 古い昔においては、「秘儀参入」と言うかたちで、その道への参入を望むものたちに対して、先人たちが“資格あり”と認めた者だけがその道へと入ることを許されてきたと言う面もあります。

 “限られたものにだけ伝えられる秘儀”

として、霊的な教えが存在していたのです。

 時代を考えると、それも仕方のないことだと思います。一般の人々が実際的に、生きる(生き延びる)ことに必死になり、現代と比べると常に死の危険と隣り合わせであった時代の中で、“知識(智慧)を求める”よりも、その日一日の糧を得ることが重要であったのでしょう。

 生きていくために、自分でやらなければならなかったことが、昔はとても多かったのです。

 たとえば、今のように蛇口をひねれば水が出る。ということはありません。近くの川(そもそも川が近くにないところもあります)や井戸へ水を汲みにいく、米を炊くにも、薪割りなどをして木を燃料にできる状態にする必要があります。生活の一つ一つに手間をかけなければならない。そう言う時代においては、生きるための知恵を試行錯誤して“自らの体験を通して学ぶ”のでは、間に合わないわけです。

 ですから、知恵のあるもの、知識のあるものに教えを乞い、日々のやるべきことを片付けながら人々は生活していたのです。たいていどのような集落にも、知識と経験が豊富な年長者がいて、その人に困りごとを話し、『それは、このようにすればよいのじゃ。』と、解決策を聞くというような感じだったのでしょう。

 一方、現代では物理的に、日々の基本的な生命活動のために自分が動かなければならないこと、という部分が昔の時代に比べると、少なくなってきています。(それでも、“時間”にゆとりがあるかといえば、そうではないので、その部分はまた稿を改めてお話しすることにしましょう。)

 昔は、はたきで埃を落とし、箒(ほうき)で床や畳を掃き、雑巾掛けをして掃除をしていたものが、今は自走式の自動掃除機がゴミ捨てまでやってくれたりします。部屋の電気をつけるにしても、アレクサに一言言えば明るさまで調整してくれるのです。

 なんて便利になったのでしょう?!

 昔の人から見ると、現代人は全員「魔法使い」です!

 昔の人たちは、「心のこと」については、思い悩んでも仕方がない、というふうな諦めではなく、(これは日本人的なものかもしれませんが)八百万の神々や仏さまに、ある程度よい意味で委ねながら生活をしていたのです。そこには「神仏に対する信頼」があり、現代人のように思い煩うことは少なかったのでないでしょうか?(それでも生きる上での悩みがなかったとは言いませんが。)

 心のことはある程度、神仏に委ねながら、物理的に忙しく、日々を過ごしていた昔の人に比べると、私たちは物理的には便利になっているにもかかわらず、心のことはすべてそれぞれが自分自身で背負わなければならないような時代になっているのだと言えるでしょう。

 心のことを、それぞれ一人ひとりが背負うようになっていくなかで、自分のことを自分で背負うことができない場合は、どうしてもそれを「他責」(誰かのせい)にするより他ない状態になってしまいます。そうした流れの中で、心のパワーというか、エネルギーの奪い合いや“マウントの取り合い”のようなことが起こっていくのです。

 そうした殺伐とした心の状態からの解放を望み、いわゆる「安息の地」を求めて、スピリチュアルへ、精神世界へと足を踏み入れていくのでしょう。

 “わたしは身体だけではない、霊的な存在なのだ。”

という観点から自分の人生を見つめる立場に入っていくのですが、それでもまだまだ、一人一人の魂は「自意識(「わたし」と言う意識)」に色濃く染め上げられていて、最初の段階では、私と言う存在の本質である霊(魂)は、未だ“個の魂”なのです。

 般若心教に「色即是空。空即是色。」という一説がありますが、僕の個人的な解釈になりますが、これは「魂、霊の本質」を示していると捉えています。

「形あるもの(色)は、是即ち、何もない(空)。何もない(空)ということは、是即ち形あるもの(色)である。」

 最初のうちは“禅問答”のような、不可解な言葉に感じるでしょう。しかしながら、「霊」「魂」というスピリットの性質、というものをこれほど的確に表現している言葉はないと思っています。

 「言葉」というものは、一方を表現すると他方を表現できないという性質があります。たとえば「自信を持つこと」の大切さを表現しようとする時、「謙虚であること」の大切さは影を潜めます。

 スピリチュアルな道を歩んでいく中で、「ワンネス」という言葉に出会うと思いますが、霊や魂に対する認識に矛盾を抱えたまま、言葉では「ワンネス」という魂の全体性を語りながら、意識では「私の魂」という“個”のレベルを超えていない、という状態になっている。そのことに気づかないでいるので、霊的な体験が「個」の体験になり、現実的には“分離状態”を体験してしまうということになっている場合が多くみられます。

 “自分と向き合う”と言うことの大切さを語る“スピリチュアル”は多いのですが、それがゴールではありません。自分の内側を通して、「魂」をとおして、霊的な世界へと入っていくこと、その先に“相手の中に自分を見る”という意識の状態へと進んでいく段階があるのです。

 “全体である”というワンネスを体験するには、“個”を超えていく必要があります。だからといって、“個を捨て去る”わけではありません。

「個であり、そして同時に全である。」

言葉で表現すると、矛盾が含まれているようですが、霊的な視点と立場からみると、これは全く矛盾していないのです。

 霊的な領域から、私たちを守り導く“ガイド”たちからすると、

「あなたがたは、自分という“個”を大事にしすぎている。」

ということになるのですが、初めは全く意味がわからなかったものです(汗)。

 「私」という意識は、この物理的な世界で体験を積み重ねる上では、とても大切なものになるのですが、霊的な理解を深めていく上では、「私」から“全体”へとつながる道筋を見出すことが大切になってくるのです。

 スピリチュアルな旅を続けていく上で、何かのヒントになれば幸いです。

 読んでいただき、ありがとうございました😃
(「スキ」をいただけると喜びます(笑)読者登録もよろしく)


ナグさんに関心を持ってくれた方は、「Lit.link」からいろいろ行けます。
https://lit.link/PrimariastoneNag

不定期で配信しています、主にスピリチュアル系がテーマです🎵

電子書籍
『最後の恋 永遠の愛』(Kindle版)
Amazonにて、販売中!

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?