「おねえちゃん」の呪い

自己紹介では書き忘れたが、私には3学年下の弟がいる。弟は甘えん坊でかまちょで愛嬌がある。今でも毎日母にベッタリだ。

対して私は、親にベッタリしたのなんでいつが最後だろうか。親にくっついたり、ベッタリ甘えたりした記憶が全くない。全くないのだ。甘えたい気持ちを我慢した記憶があるかといっても、それもない。くっつくとか甘えるとか、そういうものと無縁な人生を歩んできたような気がする。

「おねえちゃん」への憧れ

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と親から言われた子供は我慢しがちになる”
というのは有名な話だ。だが私はそれに少し訂正を加えたい。

“「お姉ちゃんなんだから我慢すべき」という社会の価値観が、子供を我慢させる”
のだと私は考える。

実際、私は親から「あなたはお姉ちゃんなんだから」と言われたことはほとんどない。
だがしかし、私には「お姉ちゃんだから我慢しないと」「お姉ちゃんだからしっかりしないと」「お姉ちゃんだから……」という意識がある。

それはなぜか。1番は「お姉ちゃんは我慢すべき」という価値観が強く根付いているからだ。

私の母も弟のいる姉であった。
小さい頃、母から「私はお姉ちゃんでね……」という話をよく聞いた。
「だからあなたもお姉ちゃんとしてそうするのよ」という教訓では無く、ただ母の体験談を聞いているだけであったが、幼い私にとって母はロールモデルであるから、母の体験談は、私の価値観生成の材料として十分であった。お姉ちゃんであった母に憧れを抱くようになり、おねえちゃんになることを夢みた。

そのような中で母が妊娠。弟が生まれることになり、「おねえちゃんになるからしっかりするぞ」と意気込んでいたのだとか。当時のことを親は「あんたはすごーく良い子だったよ」と言う。おねえちゃんだから良い子でいようとしたのだと思う。


「弟ファースト」

弟誕生。正真正銘「おねえちゃん」になる。このときから、私の中で「弟ファースト」の価値観が作られた。何をするにもまず弟を優先に考えた。何かを選ぶときはまず弟に選ばせる。それが私にとっての当たり前。弟が生まれる前は、親は私を最優先に考えてくれた。だから、その分、私は弟に対して最優先に考えたいと思ったのだ。

おねえちゃんだから甘えないのが当たり前

私は甘えた記憶が無い。甘えたい気持ちがあったかと言われると分からない。甘えたいという気持ちよりも前に「お姉ちゃんだから甘えないのが当たり前」という意識があったように思える。
だから、甘えたいかどうかなんてそもそも考えたことがなかった。おねえちゃんなのにベタベタするのは恥ずかしいことだと思っていたし、弟がいつも甘えていたから、そういうものなのだと思っていた。

小学校2年生のときに「もっと甘えていいんだよ」と親に言われたことがあるが、私からしたら「甘えるってなんだろう」というレベルである。
甘え方なんて知らないのだ。

姉とはそういうのものであると思っていたから不満も感じていなかった。

迷惑かけないように、怒られないように、嫌われないように、良い子でしっかり者の「おねえちゃん」でいるよう心がけていた小学生時代だった。

可愛くない私

ネガティブで否定的で完璧主義な私。褒められても素直に受け取らない可愛くない子供。
中学生になり、病み期と思春期が重なり、余計に悪化した。何を言われても棘を含む言い方をしてしまい、母に拗ねられ、「またやっちゃった……」と反省する日々。
母と異なる自分の意見を持つと「じゃあ勝手にすれば」と突き放され、自分の意見など求められていないことに気付いて余計棘を持ってしまう私。しまいには、泣かせてしまう始末。

親を怒らせ、泣かせてしまう私。

素直に受け取れずひねくれている私。

棘のある言い方をしてしまう私。

可愛げのないことを自覚していた。
こんな自分で申し訳なかった。嫌いだった。
「こんな自分は愛されるはずがない」と心の中で周りを突っぱねた。人間不信になり、親からの愛も信じられなくなり、親に対して「こんな私にご飯を作ってくれて、生かしてくれている人」と思うようになったこともあった。


そんな私と比較して弟は笑顔いっぱいで素直で可愛くて幼くてポジティブで、可愛くないわけがない。弟の方が愛されている自覚があったし、私がこんなだからしょうがない事だと思った。私が悪いのだから、羨ましいとかそんな感情は無かったし、自分が悪いのだから思ってはいけないと思っていた。
ただひたすら自分が嫌いだった。

ボディタッチの苦手な私

くっつくという経験がないから、ボディタッチは苦手だった。パーソナルスペースがかなり広い方なのだと思う。腕組みですらしんどかった。人とくっつく意味が分からなかった。「くっつくのは恥ずかしいこと」そう思っていた。ボディタッチは自分には向いていないし必要ないと感じていた。


「おねえちゃん」の呪い

私は「おねえちゃん」だから、我慢しないといけないと思っていたし、甘えたいと思わないのが当たり前だと思っていた。甘えたいと感じていなかった。

でも実際には、感じていなかったんじゃなくて、自らその感情を封じこんでいただけだった。

「おねえちゃんは我慢するもの」という社会の価値観によって、「我慢することが正しいことだ」という歪んだ認知を幼稚園生にして持ってしまったのだ。

この認知のまま15年間「おねえちゃん」として生きてきた。

幼い頃からの価値観というものはそう簡単には変わらない。

これは一つの呪い。
自分で自分にかけた「おねえちゃん」という呪い。

呪いに呪いをかけ過ぎて、「おねえちゃん」の呪いをかけていたことにすら私は気付いていなかった。

呪いは強力だ。

「甘えたい」という感情を持っていなかったのではなく、封じこんでいたと気づいたのはつい数ヶ月前のこと。

人生17年目にして初めて「甘えたい」「くっつきたい」という感情を自分が持っていたことを自覚した。


私はこの「おねえちゃん」の呪いを少しずつ解いていきたい。封じこんだ感情を解放してあげたい。

そう思えたことが、呪いを解くための第一歩のような気がする。



今日もまた、自分の感情探しの旅に出る。



「おねえちゃん」の呪いを解くために。

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