田中眞海老師 3
生涯の公案
田中眞海老師はわたくしに言われた、
「あなたは、婆子焼庵(ばすしょうあん)の話は知っていますか?」
「はい、有名な公案ですから、一応は知っております」
「あなたはこの公案は見たのかね?」
「いえ、これは臨済宗では難透の一つに数えられておりまして、私などの及ぶようなものではございません」
私なりに、この公案に対する見解がないわけではないのだが、そんな程度のもので透るものでないことくらいは承知していた。老師の前で知ったかぶりをして何かを口にするほど、私はもはや若者ではなかった(笑)
「ではこれの出典は知っているかね?」
「はあ、たしか無門関だったでしょうか、碧巌録だったでしょうか?」
老師は首を横に振られた。
「ちょっと待っていなさい」
そう言われると、老師は書院を出られ、自室にでも戻られたようであった。しばらくすると老師は、分厚いノートを二冊、手にして戻って来られた。茶色の厚いカバーに覆われた立派なノートであり、それぞれに年代が記されていた。おそらく、これまでの禅の参究が克明に記されたものであるのに違いなかった。
そのうちの一冊を開くと、おもて表紙の見返りに、一枚の紙片が貼り付けられていた。老師はそれをこちらに向けて示された。
(時間があれば、もう一冊のノートの方も見せられたかも知れない)
婆子焼庵の公案が、ペンで丁寧に書かれていて、その最後に出典が記されている。
「この出典を控えておきなさい」
メモしてきたものを見ると、「五燈會元・第六」とある。中国南宋の時代の禅録である。
次に老師は、これを読み上げて下さった(原文は漢文である)。
※
昔、婆子(ばす;おばあさん)あり
一庵主を供養して、二十年を経たり
常に一人の二八の(十六歳の)女子をして
飯を送って給仕せしむ
一日、女をして抱定(ほうじょう)せしめて(抱き付かせての意)曰く
正与麼の時(しょうよものとき;まさにこのようなとき)如何
主曰く、
古木寒厳に倚る 三冬暖気なし
(こぼくかんがんによる さんとうだんきなし)
女子帰って婆に挙す
婆曰く、
われ二十年、ただ箇の(この)俗漢を供養し得たり
遂に遣出して(おいだして)庵を焼却す
※(以下拙訳)
昔、一人のお婆さんがいて
立派な若い僧の修行のために、庵を寄進して、供養すること二十年であった
常に、美しい少女に食事を運ばせていた
ある日、お婆さんは、少女に言い含めて、僧に抱き付かせてみることにした
そして、「まさにこのような時、どうなさいますか」と尋ねさせた
僧は少しも動じることなく、
「古木が、冷たい岩に寄りかかっているようなものだ
冬の三箇月の期間のように、暖かみなど何も感じないわい」
とだけ言い放った
少女は帰って、お婆さんにそのことを報告した
するとお婆さん、激怒して曰く
「わたしは二十年というもの、こんな俗物を供養していたのか」
そして、僧を追い出すと、庵を焼き払ってしまったのだった
※
眞海老師は言われた、
「これは、私が出家したばかりの頃、(得度の)師匠が授けてくださったものなのだ。
その時私は、5歳年下の高校生の少女と出会い、心を寄せるようになっていたのだが、それを見ていた師匠が、ある日、私にこれを示したのだ。
その少女とは、それ以上進展することはなかったのだが・・・
以来、この公案は、私の生涯の公案となり、こうして持っておるんだよ」
はじめてやって来た若輩の来訪者に、何という正直でオープンな告白であろうか。OSHOの弟子(サニヤシン)であり、また少しく参禅もしてきた者に対する、敬意の表れなのであろう。
それを聞いたとき、可憐な少女の生々しいエネルギーが、伝わってくるような心地がした。
この公案はまた、老師が私に授けようとしているものなのだ。
これはやはり、私の生涯のテーマになるであろう。
老師は、生涯の、と言われた。今でもそれと向き合っている、ということだ。
「男というのはバカなものでな、いくつになっても、好みの女性に会うと、惹かれてしまう。
ここにおって坐禅しておれば、何も問題がなくなってしまったように思うのだが、東京の永平寺別院にでも出掛けると、やはり、そうでなかったことがわかる。はっはっは、そんなものだぞ」
そう言うと、眞海老師は、飛び切りの笑顔を見せられた。
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