漸悟と 頓悟 プロセスを経る悟りと ダイレクトな悟り
禅は、初期の歴史段階において、北宗と南宗とに分かれていた時代があった。
ボーディダルマから数えて、五祖にあたる弘忍(ぐにん)禅師の時代のこと、その一番弟子に神秀(じんしゅう)上座という人がいた。学徳を兼ね備え、五祖の法を嗣いでからは、長安の都で法を説き、多くの人々の帰依を得て、国師と仰がれた。この神秀の禅が、当時の中国の禅の主流とみなされていたことは間違いないだろう。これを北宗と呼んでいる。北宗の特徴は、「漸修(ぜんしゅう)」と言って、長い時間をかけて段階的に禅を学んでゆくやり方であるとされている。その最後に、悟りに達することを目標とするので、これを「漸悟」と呼ぶ。
一方、南宗と呼ばれる禅は、これと対照的なものだ。
五祖のもとに、ある時、南方(いまの広東省)の田舎から一人の貧しい青年(慧能)がやって来た(この青年は、故郷ですでに悟りの一瞥を得ていた)。学問もなく、正式なお坊さんにもなれないまま、行者(あんじゃ)として、米搗(つ)き小屋で米搗きの作務に明け暮れるばかりであった。法話も聞かず坐禅も教えられないままに、居ること八か月にして、慧能は早くも禅の奥義を体得してしまっていた。まさに天才である(慧能は、禅の秘教スクールによって送り込まれた古い菩薩の生まれ変わりであったのに違いない)。五祖はこれを認めて慧能を密かに呼び寄せ、六祖となし、南方で禅を広めるようにと託した。六祖慧能は、長年、聖胎長養(しょうたいちょうよう; 悟りを熟成させるというほどの意味)し、開法する時にあたって初めてお坊さんとなった。
この六祖の禅は、我々がすでにブッダであることを何のプロセスも経ないで直接に覚する、というような革命的なもので、「頓悟」と呼ばれる。この南方の辺境に興った禅が、後の禅の礎となった。中国の、そして日本へと続く禅は、ここから始まったのである。
私の理解するところでは、漸悟と頓悟とを二つ対立させて、別物のように考えるのは正しくはない。これらは対立概念ではない。この二つは、禅の異なった局面について、それぞれ述べているように思われる。頓悟の頓というのは、それが時間ではない、ということだ。時間・思考・分別、これらは皆同じものなのだが、それらを介さないで直接に覚知するということ。そのようなアートを学ぶことが、頓悟の道ということになる。それを弛みなく学び続けるということが、すなわち漸悟ということにならないだろうか。
南宗の禅が、今日まで伝わっている禅だということを述べたが、実は、北宗の禅も日本に伝わっていた。それは天台宗を開いた伝教大師・最澄に伝わっていたのである(詳しいことは省略する)。天台宗の緻密な仏教学を見ると、そこに神秀上座の教えの何がしかが入っているようにさえ感じられる。
直感の南宗禅は、自由自在に飛翔するが、言葉足らずで、奇行に走りがちなところがあるかもしれない。北宗禅や天台宗は、それを言葉にする努力を怠らない。禅は、あくまでも体験に立脚したものだが、それを何とか言語化して(あるいは他の媒体でもって)人に伝えようとする。体験したというだけでは不十分なのだ。天台宗は、特にそのような点において優れているのではないだろうか。かと言って、言語のための言語に陥ってしまっては元も子もない。その時は、南宗禅の活策略が分別のマインドを粉砕するだろう。
私見だが、六祖慧能の禅の教えの本質を、もっともよく表現し得たのは、弟子の永嘉玄覚ではなかっただろうか。「永嘉大師・証道歌」は、禅の基本思想(それは思想ではないのだが)の大部分を早くも構築しているように思われる。この人は元々、天台宗の人であった。
今日の結論は、このようなことだ、
頓悟の学びを漸悟してゆくのが、すなわち禅のアート(わざ)なのだ、と。
わざわざ言うまでもなかったかな?