現代と瞑想1 ディアーナ

瞑想の「瞑」という字はもともとの字義からすると、「目を閉じる」という意味である。
「冥」となると、暗い・闇・奥深いところ、という意味がある。目に見えない心の奥底、またあの世、死後の世界という意味にも繋がる。
したがって「瞑想」という言葉が示しているのは、目をつぶって外界の世界からいったん離れ、心の世界に奥深く分け入ってゆくこと、というようなことになりそうである。

われわれ現代の日本人がが瞑想と言っている時には、英語のメディテーション(meditation)を翻訳したものと考えて良いのだろう。
元来、メディテーション自体はキリスト教において、イエスや聖母マリアを心の中にありありと思い浮かべることを意味していたという事だ。
しかし現代においてメディテーションというときには、東洋のヨーガや仏教の修養法を主に指している。

古代インドにおいては、サンスクリット語でディアーナ(dhyaana)、パーリ語でジャーナ(jhaana)であり、中国に渡ると禅那(ジャンナ)、禅(ジャン)となる。これが日本では禅(ゼン)と呼ばれている。インドでは現代でもディアーナと言うと通じる言葉である。

そのような訳で禅は、東洋一般に共通して、同じものを指して使われている概念である。メディテーションは元々キリスト教の言葉だったものを、西洋人が東洋の禅を指し示すために用い、それが日本に逆輸入されて、禅と呼ぶべきものを、ことさらにメディテーションと呼んでいる事になる。横文字にすると何か新しいもののように感じられるのだろう。

しかしながら、インドのディアーナと日本の禅には、違いがないでもない。インドのディアーナは中国・日本へと伝わるにつれて、独自の進化発展を遂げてきたのである。
それは宗教の枠さえも超えて、現代文明の根底そのもの、人間のあり方そのものを、ダイレクトに見据える、おそらくは唯一の眼を持ったものなのではないだろうか。禅は宗教であるよりは、宗教性そのもの、非宗教的宗教性のエッセンスであると言ったらどうだろうか。

(ALOL Archives 2012)

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