
強制終了になった彼女の人生から思うこと
昨年12月に、友人との突然の別れを経験しました。
彼女との出会いは7年前。
ここ、ドイツで、赤ちゃんだった息子と参加したベビーコースで出会いました。
当時、私はドイツに来てまだ2年目で、ドイツ語もまだ上手く話せず(今でもですが・・・)、近くに友達と呼べる人はほぼ皆無でした。
とにかく寝ない、そして常に機嫌の悪い息子と家に籠もっていると息が詰まりそうで、赤ちゃんと過ごす単調な毎日に何か刺激になることでも出来れば、とコースに参加しました。
トラムに乗って約20分にあるコース開催場所まで行くのにも当時は必死でした。
必ずと言っていいほど、トラムに乗り込んだ途端泣き出す息子。
他の赤ちゃんたちは、ガタンゴトンと揺れる車内でスヤスヤと眠りについているのに、とにかく泣き叫び、泣き叫び続ける息子。
真冬でも、全身から汗を吹き出しながら、それでも通ったベビーコース。
そこで、私は、彼女に出会いました。
彼女には、うちの息子と1週間しか誕生日の違わない女の子がいました。
こういったコースで、初対面の人とドイツ語でやりとりするのは、とても気疲れしましたが、彼女は、なんとなく話しやすい雰囲気で、そして私の下手くそなドイツ語にも、イライラせずに耳を傾けてくれ、私も安心して話せる相手でした。
何より、彼女の女の子も、うちの息子のように全く寝ない、いつも泣いてばかりいる(大分時間が経ってから、その理由が出産時の事故による背中に受けた歪みからだったと分かったのですが)そうで、私たちは、そういった面で、強く同族意識を持つようになりました。
コースが終了してからも、私たちは、会い続けました。
お互いの家に行ったり、公園に行ったり、買い物に行ったり、IKEAに朝食を食べに行ったり。
彼女はいつも、興味深そうに私の話を聞いてくれ、共感してくれ、そしてお互いの苦労を慰め合い、励ましたいながら友情が育まれていたのだと思います。
出会ってから5年が過ぎ、まずは彼女に息子が生まれ、10ヶ月後に私に娘が生まれました。
それから、下の子達も仲良く遊ぶようになり、今度は上の子達が学校に行っている間に、下の子達だけで遊んだり、私たちの関係が新たなるチャプターに入ったところでした。
数年前、一軒家を建てて引っ越した彼女家族。
彼女と彼女の旦那さんは、写真を撮るのが趣味で、自宅の一室を写真スタジオにしました。
娘が生まれた際、写真を撮ってあげるよ、と言われましたが、結局チャンスを逃し、昨年晩秋に、ようやく、クリスマスカード用に子どもの写真と、合わせて家族写真を撮ってもらえることになりました。
日曜日の午後に、家族で彼女のお宅にお邪魔し、写真を撮ってもらったり、手作りのケーキにコーヒーをご馳走になったり。
大人たちが話している間、子どもたちも楽しそうに遊んでいました。
そのときは、もう16時半には日が暮れる時期だったのですが、彼女の女の子が、みんなで散歩をしたい!と言い出し、帰りしなに真っ暗の中、8人で近くを散歩しました。
大きな子たちが先頭に、続いてママたち、最後に遅れて下の子達とパパたちが。
なんとも心が暖かくなる夕方。
こうやって、この先もずっと、お互いの子たちの成長を見守りながら、一緒に年を重ねていくのだろうな、と思う幸せな午後でした。
その時は、それが彼女に会う最後の日だったとは夢にも思わずに。
その日曜日から3週間後、私たちは再度会う約束をしていました。
しかし、その約束の日の数日前から彼女と連絡が取れず。
これまでもよく、彼女の子どもが入院することがあり、今回ももしかしたら急に子どもの具合が悪くなってしまったのかも・・・と思っていましたが。
直接連絡先を知らなかった彼女の旦那さんですが、たまたまInstagramで繋がっていて。
彼が、そちらに連絡をくれました。
「彼女は集中治療室にいる。もし詳しく知りたかったら電話をください。」
と。
全身の血が、足の裏から抜けていくような感覚に見舞われながら、すぐさま連絡しました。
彼女の旦那さんは、電話口に泣いて泣いて・・・。
結局、あまり詳しくは聞けませんでしたが、
倒れて、
心肺停止状態になり、
でも、蘇生出来たものの、
酸素が脳へいかなかった時間が長すぎて、
植物状態を通り越し、脳死状態だと。
つい先日も普通に会ったあの彼女が、
持病なども私が知る限りなかった彼女が、
いきなり、そんなことになるとは。
結局、病院へ運ばれて1週間ちょっとで、旦那さんは彼女を旅立たせるという決断をしました。
旦那さん、7歳と2歳の子を残して。
突然、強制終了がかかったように終わってしまった彼女に人生。
恐らく、自分が倒れたことも、そして、亡くなってしまったということも、知らずに人生の幕が閉じられたのだと思います。
そんなことって、あるだろうか、
何故、彼女だったのだろうか、
いや、何かの間違えでないか、
色々な思いが、頭の中をグルグル巡っています。
これが定めだったのかもしれません。
もはや、我々の力の及ばない、もっと大きな存在が決めた天命だったのかもしれません。
勿論、彼女の死は、本当にいたたまれない気持ちと、深い悲しいをもたらしました。
でも、もし、これが運命だったのだとしたら、
彼女の死をもってまで、周りの我々に伝えようとしていることは何だろうか?
私が、そこから学び、自分や、周囲に循環させられるものがあるのだとしたら?
「死」そのものは、忌み嫌われ、悲しみや苦しみとリンクされます。
亡くなる人も、やり残したこと、悔い、未練などを残していくかもしれません。
そんな「死」の中にも、何か、意味を見い出し、そしてそこから学んでいけるような、そんな人で自分はありたいと思いました。
もし、輪廻転生が存在するのなら、
彼女はまた、すぐこの世に戻ってくる気がしますし、
きっと、また、別の形で出会えるのではないか、
そう思っています。
言葉にしてしまうと、安っぽくなってしまうかもしれませんが、
「明日」は誰にでも平等にやってくる訳ではありません。
突然、今日でこの人生というレースが、思いもしない形で終了を迎えることもありえます。
その日まで、毎日を感謝出来る、そんな人生を送れたら、私は幸せです。