情報化社会におけるクオリアの論考 ~星を見るゴリラ~
IT社会がもたらした、アプリオリ的な知識社会
情報化社会はアプリオリな知識の大氾濫を引き起こした。コンピューターがもたらすバーチャル体験は、現在、ありとあらゆる現実の諸活動を忠実に再現している。
SNSを見れば人々が交流しているし、Amazonを見れば、多様な品々が出品され、MarketPlaceには、多くの幸福を求める個人が経済活動をしているように見える。
恋愛ですらも、マッチングアプリと、様々な心理学の発達で、コレから起こる過程が高度に予測が可能になった。
情報化した現代社会は、正にロジックによって動いているのである。ロジックとは、公理から推論されたアプリオリな知的体系である。バーチャルとは、ある前提を元にした、推論による仮定なのだ。
しかしながら、代償として、人間の脳で多くの活動を占めるはずのクオリア的知的活動が失われた。
失われたクオリア
クオリアとは、その個人による体験の集合知であり、連想、右脳、体験的活動によって身に付いた血肉そのモノである。
SNSのメッセージによる非同期的コミュニケーションは、現実におこる、天候、表情、状況、相手の社会的立場を考慮する人間の思慮の能力を不要にした。
Amazon等によるECマーケットの発達は、経済の諸活動における複雑な因子による、値段の上がり下がり、心情も考慮された、市場経済の値段決定プロセスを、コンピューターによって隠蔽し、”値段とはECマーケットによって、勝手に、トップダウンで決定されるものである”とユーザーに錯覚させた。
人間は情報化社会の到来によって、数多くのロジックによって社会が動く様子を体験し、「知識とは、アプリオリ的なモノである」と錯覚してしまったのである。
日々拡大するバーチャル社会と、大量に流れてくるアプリオリ的な知識は、「バーチャル社会は、人間のクオリアと同等の体験をもたらす」という共通認識を構築したのである。
それは、我々IT技術者の成果の一つであり、「楽をする努力を怠らない」という我々コンピューターギークの教義によってなしえた社会の変革である。
シミュレーションされた計画社会
煩雑な社会において生きづらかった、コンピューターギークは、コンピューターによって社会の諸活動が自動化された理想世界を追い求め、それは、完成直前まで来ているのである。
しかし、アプリオリ的知識とバーチャル体験はクオリアに変わることは出来ない。
私のクオリア
私は、プログラマーであり、イラストレーターでもあるのだが、ここで宣言する。プログラミングに使う脳の働きと、イラストに使う脳の働きは全く真逆のモノだ。
プログラマーは「仕様」というモノを非常に大事にする。プログラムとは「仕様」つまり、「仮定」によって構築された論理であり、シミュレーションだからだ。
つまり、仮定の世界が構築されないと、ロジックを構築することが出来ないのである。
クオリアを使った知的活動。創造性とは
しかしながら、イラストとはイメージによって作られた連想の理想郷である。それは、詩作、劇作、絵画、彫刻、と言った活動。創造性とインスピレーションによってもたらされる。個人による自由な発想の顕現だからだ。
より格式ばった言葉を使うならば、連想によって作られる理想郷はイデア、それが手を通して作られたモノはエイドスである。
イラストレーターは、イデアが無ければ、イラストを書くことは出来ない。創造性とインスピレーションは、創作活動には必須のものだ。
クオリアがもたらす豊かさ
では、そのイデアとは何によってもたらされるのかと言うと、その個人の体験である。
我々が美女を書くとき、何を元にして書くだろうか。恐らく、初恋の人の甘い日々を想像したり、かつて追いかけていた、片恋慕の恋人を思い浮かべるのではないだろうか。
これは風景画においても同じである。美しい山や木々、小鳥のさえずり、揺れる枝葉や、流れる雲、傾く太陽。さらに、今住んでいる動物、かつて住んでいた動物、今は使われていない田畑や農作業小屋、など、
連想は幾らでも出来る。
このように、連想によって、イラストレーターはイメージを構成するのであるが、その一つ一つは、その個人の体験によるものである。
クオリアをアプリオリ的な知識には還元することは出来ない
このように、創作にクオリアは欠かせないものだが、何故、我々はアプリオリ的な知識では満足できず、クオリアを追い求めるのか
クオリアとは、その人間の人生経験によってはぐくまれた、膨大な知的活動の痕跡を残す、脳と全身の臓器、そして、身体全身に張り巡らされた神経活動の集合体である。
私は日本の成人男性であり、女性を見ると興奮したり、仕事すると不快に感じたり、疲労を感じたりする。
プログラマーであるので、IT用語で書かれた文章を読むのは得意だが、女性誌のような流行の文章を読み解くのは苦手としている。
青森県出身であるので、東京の文化に疎い。もう少し田舎のシャッター街のような街の方に親近感がある。
魂の素材としてのクオリア
コレは私が人間として生まれてきたことと、私の人生経験から形作られた、私と言う人格そのものであり、私のコピーを構成するのは理論上可能だが、現実的には不可能なのだ
そして、私の人格をバーチャルで塗り固めた仮定で代替するのは不可能である。現実における社会は、仮定によって完全に定義するのは不可能である。現実における社会は、様々な複雑な諸活動から構成される、さらに、その複雑な諸原理の中で活動するのは、気まぐれで複雑な心を持つ、私という人格であり、コレを固定的に定義するのは不可能だからだ。
そして、その多数のクオリアによって形成される人格が、我々が「魂」と呼ぶモノである。自由な魂は、クオリアによる経験知と意思によってしか生まれることは出来ない。
情報化社会とクオリア
情報化社会の進展によって、クオリアは、アプリオリ的な知識より低いモノとされ、ロジックは社会の中心で人間の活動をコントロールするようになった。
そして、アプリオリ的な知識の氾濫によって、クオリアとクオリアによる人格の形成は大きく危機的状況にあるのである。
しかしながら、人間はアプリオリ的な知識とクオリアのバランスを取り戻し、理想のバランスを取り戻してくれる、と私は願っている
要するにどういうこと・・・?
※今北産業
IT社会が進展して、耳年増が増えたよね~、ってことです。
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