「即」という名のアポリア 第27回
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イントロダクション
さて、今回はインド中期大乗に少しわけいっていきたいと思います。中期大乗では、如来蔵思想や唯識思想と呼ばれる新たな仏教思想が発展していきます。特に如来蔵思想については、前回述べた仏身をめぐる問題も大きく絡んでくるので、その点も追ってみたいと思います。
まず如来蔵思想というのは、あえて雑に説明すると、すべての衆生(生きとし生けるもの)は「仏性」を持っているという思想です。「仏性」というのはざっくり言うと「仏としての性質」のことです。この「仏性」のことを「如来蔵」とも呼びます。つまり、仏性と如来蔵というのはざっくり同義語だと思っていただいて大丈夫です。このように衆生はすべて仏性(如来蔵)=仏としての性質を持っているんだけれども、その仏としての性質は煩悩によって覆い隠されてしまっている。そこで、煩悩を取り除いてやれば“本来の”仏としての性質が顕現し、仏の法身と一体になって仏になることができるというのです。
如来蔵思想(仏性思想)は、『涅槃経』や『如来蔵経』や『不増不減経』や『勝鬘経』といった中期大乗経典で説かれています。ちなみに、ここで言う『涅槃経』は、前回何度も取りあげたパーリ長部の『涅槃経』とは別物です。パーリ経典の『涅槃経』と大乗の『涅槃経』はタイトルは同じだけど、内容はだいぶ異なっています。もちろんパーリ経典の『涅槃経』の方が古くて、大乗の『涅槃経』は時代が下ってから成立したものです(以下この雑文では、大乗の『涅槃経』を『大乗涅槃経』と呼ぶことにします)。
如来蔵思想(仏性思想)のややこしさ
これだけだと説明として雑だしいろいろと問題があるので、もう少し詳しく言うと、まず如来蔵というのは、サンスクリットの「タターガタ・ガルバ」(tathāgatagarbha)という語を漢訳したものです。ところが困ったことに、このtathāgatagarbhaという語をどう解釈するかをめぐっては、いろんな人がいろんなことを言っていて、いまだに定説がありません。まずtathāgataというのは「如来」のことです(「如来」というのは仏とほぼ同義語だということは既に申しあげたとおりです)。この点は問題ないとしても、garbhaというのが何を意味するのか、またtathāgataとgarbhaはどんな関係にあるのかといった点については、いまだに定説がないのです。それに、tathāgatagarbhaという字面は同じでも、経典や論書によって意味内容に微妙な違いやズレがあったりするもんだから、話が非常にややこしいのです。
ひとまず、tathāghatagarbhaという語をどう解釈するのかという問題について、よく言われる説を紹介しておくと、
①如来の胎児
②如来の入れもの、如来の容器
③如来の核、如来の精髄
④如来を含む、如来を内包する
などの説があります。このなかで特によく言われるのは①です。仏教学の世界でも、tathāgatagarbhaは「如来の胎児」だと解釈する学者が多かったのも事実です。しかし最近は、①に疑義を呈する研究が出てきています。例えば、下田正弘「如来蔵・仏性思想のあらたな理解に向けて」やミヒャエル・ツィンマーマン「『如来蔵経』再考――仏性の九喩を中心として」(いずれも『シリーズ大乗仏教8 如来蔵と仏性』春秋社)などはそのような方向性の論文で、特に後者は、『如来蔵経』に出てくるgarbhaという概念を綿密に検討し、『如来蔵経』のtathāgatagarbhaが「如来の胎児」という意味ではありえず、「如来を内包する」という意味であることを論証しています。
「如来蔵」ということばの問題はこれだけではありません。如来蔵思想は衆生のなかに仏がいるという話だから、普通に考えると、衆生という入れもののなかに仏が入っているということになります。でも、如来蔵思想を説いた文献のなかには、仏のなかに衆生が含まれていると説いていると考えられるものもあるのです。この場合、仏が入れもので、そのなかに衆生が入っているのだということになります。例えば、如来蔵思想を理論化した『宝性論』という論書には、次のような一節があります。
ここでは、仏の法身はアルティメットまどかの円環の理のようにして宇宙に遍在し、すべての衆生に浸透しているから、すべての衆生はtathāgatagarbhaであると言っています。そういうわけで、如来蔵思想においては、衆生と仏のどちらが入れものでどちらが中身にあたるのかが必ずしもはっきりしているわけではありません。ちなみに、ここで説かれている思想は、前回紹介した『華厳経』「如来性起品」の、「仏の智慧がすべての衆生に浸透している」という思想の流れを受け継いだものです。如来蔵思想研究の権威だった高崎直道は、『華厳経』「如来性起品」は如来蔵思想(仏性思想)の先駆であり、その理論的根拠となったと指摘しています。
以上のように、「如来蔵思想(仏性思想)というのは、すべての衆生は仏としての性質を宿していると説く思想である」と雑にまとめることは“一応”可能ではあるのですが、細かくみていくといろいろと曖昧でスッキリしないところがあります。以前も少し触れたように、縁起や無我といった仏教の根幹をなす教えには理論的にはスッキリしない部分がいろいろとありますが、同じことが如来蔵思想にも言えるわけです。先ほど申し上げたように、tathāgatagarbhaという字面は同じでも、経典や論書によって意味内容に微妙な違いやズレがあったりするのも話をややこしくしています。『宝性論』なんかは、「すべての衆生に浸透しているから、すべての衆生はtathāgatagarbhaである」と説くわけですが、『宝性論』はあくまでも、いろんな如来蔵系経典に説かれている思想をまとめて理論化した論書です。そのような洗練を経ていない『如来蔵経』なんかは、衆生のなかに如来があるという非常に素朴な言い方をしてたりします。そのような経典や論書による違いやズレが話をややこしくしている面もあるわけです。
仏性――己に内在するストゥーパ
さて、如来蔵とほぼ同じことを意味する仏性ということばについても見てみましょう。仏性というのは、サンスクリットの「ブッダ・ダートゥ」(buddhadhātu)ということばを漢訳したものです。ブッダというのはもちろん仏のことです。dhātuについては前回も少しだけ触れましたが、非常に多義的なことばです。dhātuというのは「支えるもの」を意味するādhāraからきている語で、「置くところ」を原義として、「根元」「基盤」「本質」「要素」「(ものが発生する)原因」「よりどころ」などの意味で用いられます。一般には、
① 何かの本質。同じグループに属する「もの」に共通する本質。
② 本質が同じ「もの」たちが集まる領域。
という二つの意味があります。(特徴や本質を同じくする「もの」が集まることで)外側から区別される領域(②)と、内側にみられる特徴や本質(①)を同時に一語であらわしつつ、①と②の関係性をイメージさせるようなことばです。
ところで、前回述べたことの繰り返しになるようですが、dhātuということばは「遺骨」を意味することもあり、その場合「駄都」と漢訳されることがあります。ストゥーパというのは、このdhātuが納められる場所です。そしてdhātuは、「本質」を意味することばでもあります。つまり、釈迦の遺骨(dhātu)には、釈迦の「本質」が宿っているとみなされているのです。ストゥーパ信仰という文化においては、釈迦の遺骨を納めたストゥーパが生前の釈迦そのもののようにみなされていることになります。釈迦の「本質」は、遺骨を通じて死後もこの世にとどまり続けているのだとみなされているわけです。よって、仏教徒にとってはストゥーパは、釈迦が亡くなった後でもいつでもアクセスすることができる釈迦牟尼仏の身体そのものなのです。これが、前回申し上げた仏の色身というやつです。以上のことから、ストゥーパに納められている仏の色身も、実はbuddhadhātuだということが言えます。
このように仏性(buddhadhātu)というのは、「仏の本質」であり「仏の遺骨」だということになります。そして仏性思想というのは、すべての衆生のなかに仏性(buddhadhātu)があるという思想です。ということは、仏性思想というのは、すべての衆生のなかに仏の身体があるのだという思想だということになります。ただしもちろん、我々の身体を解剖しても目に見える仏の遺骨は出てきたりはしません。つまり、仏性思想においては、我々の身体のなかにあるのは目に見える色身ではなく、目に見えない法身だということになります。ほかならぬあなたのなかにも目に見えないストゥーパがある。アルティメットまどかの円環の理は、あなたのなかにある。そういう話なのです。
釈迦の死という事態に直面した仏教徒たちは、仏が永遠であることを確認するための方法を(無常の教えに反するようですが)確立するために、仏身をめぐる思想を発展させていきました。まず、釈迦の遺骨を納めたストゥーパを信仰し、色身を通じて仏が現存し続けていることを確認しようとする文化が生まれました。次に初期大乗では、般若波羅蜜や仏教経典それ自体に仏身を見い出し、色身に見切りをつけて法身に仏の永遠性を見い出そうとする流れが生まれました。そして中期大乗の如来蔵思想になると、大乗の「色身から法身へ」という流れがさらに発展し、すべての衆生のなかに仏の身体があるのだ、目に見えない仏の法身があるのだという話になったのです。
「空」の思想から「有」の思想へ
さて、如来蔵思想には、従来の空の思想とは決定的に異なる点があります。如来蔵思想では、仏の法身は無常でも無我でも空でもなく、永遠に不滅だと説いているのです。つまり、初期大乗の空の思想が「すべては空であり、仏にも涅槃にも実体はない」と説くのに対して、中期大乗の如来蔵思想では、空ではない領域が認められているわけです。如来蔵思想でも、机だの椅子だのりんごだのみかんだのは実体なき空なる「もの」だとされますし、煩悩も空なる「もの」だとされます。ですが、仏の法身は永久に不滅だとされるのです。「いかなるものにも実体がない」という空の思想が、「最後まで否定されない永遠不滅の何かが“ある”」「結局のところ何かが“ある”」という思想へと大きく変容したのです。一例をあげると、『勝鬘経』という如来蔵系経典には次のような一節があります。
このように如来蔵思想では、仏は「常楽我浄」だとされており、永遠に不滅だとされます。この点は初期大乗の空の思想と明らかに異なっています。特に問題になるのが、仏は「我」だとされていることです。つまり如来蔵思想は、永遠に不滅の「本当の自分」が“ある”と言っていると解釈できることになります。仏の法身は「本当の自分」であり、それは煩悩に覆われ隠れてしまっているんだけど、煩悩を取り去れば「本当の自分」が顕現するのだという話だと解釈可能なのです。実際、『大乗涅槃経』には次のような一節があります。
先ほど申し上げたように、如来蔵思想は『華厳経』「如来性起品」の思想を受け継いでいます。でも、『華厳経』は「仏の法身は遍在しており、仏の智慧はすべての衆生に浸透している」とは言いましたが、仏が「常楽我浄」であるとは言っていませんでした。ですが、如来蔵思想はそこからさらに一歩踏み出して、とうとう仏は本当の「我」であると言うに至ったのです。永遠に不滅の「我」が“ある”と主張する如来蔵思想(仏性思想)は、仏教の無我説と矛盾するのではないか。こんなものは仏教ではない――そのように主張する人もいることは事実です。如来蔵思想に対してこのような疑問を抱く人々は、如来蔵思想が登場した当時から存在していたようです。というのも、例えば『勝鬘経』にはこんな一節もあるからです。
また、『大乗涅槃経』にもこうあります。
このように如来蔵系経典には、「常楽我浄」の「我」というのは、バラモン教やヒンドゥー教が説くアートマン(自己)とは異なるのだと「言い訳」するかのような箇所もあります(どう違うのかという具体的な説明はないのですが)。如来蔵系経典にはこのような「言い訳」めいた箇所も見られ、「こういうものは仏教の無我の教えと矛盾するのではないか」という疑問を抱く人々が、如来蔵思想(仏性思想)が登場した当時から存在していたことがうかがえます。
真如・法界・法身
さて、如来蔵思想(仏性思想)に関する話を続けていきたいところですが、その前にちょっとだけ寄り道をして、「真如」と「法界」という仏教用語について少し触れておこうと思います。というのは、これから如来蔵系経典という『不増不減経』を見てみたいのですが、その前に「真如」と「法界」という語が大乗でどのような意味で用いられているかを知っておくと、見通しがよくなるように思われるからです。
まず、「真如」というのは、サンスクリット語のtathatā(タタター)という語を漢訳したものです。tathatāというのは直訳すると「そのようであること」「そのような状態・様子」ぐらいの意味で、ものごとの「本当の姿」「真のありよう」「本来のありさま」といった意味で用いられることばです。ものごとの「本性」を意味することばだと言ってもいいでしょう。例えば我々一般人は、目の前にある机や椅子やりんごやみかんや猫や犬といった「もの」が確固として存在すると思っており、それらを実体視しています。つまり、「これは机である」「これは椅子である」といった具合に「もの」を「分別」して俗なる世界を生きており、ものごとの「本性」や「真のありよう」を見たことがない。でも、長い修行を経た者は、ものごとの「本性」や「真のありよう」を如実に見て、最終的に仏になる。この「本性」や「真のありよう」が真如です。ところで、大乗においては「すべては空である」とされます。よって、机も椅子もりんごもみかんも空であり、すべてのものごとには空という共通の「本性」があることになります。よって、このすべてのものごとに共通する「本性」を真如と言うわけです。
次に「法界」というのは、サンスクリットのdharmadhātu(ダルマダートゥ)という語を漢訳したものです。dharmaを「法」、dhātuを「界」と訳したわけです。まずdharmaというのは前回も申し上げたように、「保つもの」というイメージのことばで、「法律」「法則」「教え」「真理」「(存在なり現象なりの最小の単位となる構成)要素」「(固有の性質を維持する)もの」などを意味します。そしてdhātuというのは先ほど述べたように、「根元」「基盤」「本質」「要素」「(ものの発生する)原因」「よりどころ」などの意味で用いられます。一般には、
1.何かの本質。同じグループに属する「もの」に共通する本質。
2.本質が同じ「もの」たちが集まる領域。
という二つの意味があります。昔の人がdhātuを「界」と訳したのは、「界」は「区切り」や「範囲」を意味する漢字だからです(日本語にも「藝能界」とか「学界」とか「業界」とか「界隈」といったことばがありますよね)。よって法界(dharmadhātu)というのは、
① 法の世界。法の領域。
② 法の根源。法の原因。
ぐらいの意味になります。それでは、「法の世界」とか「法の領域」とか「法の根源」とか「法の原因」というのは一体どういうことなのか。
まず①の場合、「法」が真理を意味すると考えれば、それは仏教の文脈では仏が覚った真理のことです。よって「法界」というのは、「仏が覚った真理の世界(領域)」だということになります。
次に②の場合、法界というのは「仏が説いた教えの根源や原因」だということになります。「仏が説いた教えの根源や原因」とは何かというと、仏が見た真理です。そして仏が見た真理とは何かというと、大乗では真如だとされます。よってこの場合、真如と法界はほぼ同義となります。
難しいでしょうか。ともあれ真如も法界も、「この世のすべてのものごとに共通する真実のあり方」「仏によって見られた世界の本当のありよう」という意味あいの概念です。よって真如も法界も、仏の法身に近い概念だということになります。これまでに何度も用いてきたたとえで言うと、アルティメットまどかちゃんの円環の理のごとく、真如(法界)が全世界を貫いているということになるわけです。法身や法界や真如といった概念は、おそらくこの雑文で今後も登場することになると思いますので、同じような意味あいを含んだ概念として念頭において頂ければと思います。
『不増不減経』の一元的世界観
話を戻しましょう。先ほど述べたように如来蔵思想(仏性思想)では、それまでの空の思想と異なり永遠に不滅な領域がみとめられてます。この「永遠」とか「不滅」という問題について申し上げておきたいことがもう一つあります。先ほど、仏性というのはbuddadhātuを漢訳したものだと申し上げました。このdhātuという概念は、「永遠」とか「不滅」ということと絡んできます。繰り返しになりますが、dhātuには「根源」「基盤」「要素」「(ものの発生する)原因」「よりどころ」「本質」などの意味があります。そして仏性思想においてはbuddadhātu(仏性)は永遠に不滅だとされますから、buddhadhātuは永遠に不滅な「根源」であり「基盤」であるという話になってきます。『不増不減経』という如来蔵系経典には、このdhātuの問題に絡んでくる次のような一節があります。
読んでのとおり、『不増不減経』は、衆生界と法身と如来蔵は“本来的に”イコールであり、「真理の領域はただ一つである」と言っています。『不増不減経』はサンスクリット写本が発見されていないのですが、先ほど登場してもらった『宝性論』には、『不増不減経』が結構引用されていますので、ある程度サンスクリット原文を知ることができます。で、サンスクリット原文を見ると、「衆生界」に当たることばはsattvadhātuで、漢訳ではdhātuが「界」と訳されていることがわかります。先ほど申し上げたように、dhātuには「同じグループに属する『もの』に共通する本質」とか「本質が同じ『もの』たちが集まる領域」という意味がありますから、sattvadhātuは衆生と呼ばれる「もの」全体を集合的に捉えたことばだと解釈できます。要するにsattvadhātuというのは、「すべての衆生」のことを指しているのだと解釈可能なのです。よって『不増不減経』は、「すべての衆生は“本来的に”如来蔵とイコールであり、法身とイコールだ」と言っていると解釈できます。また、dhātuには「本質」という意味もあるわけですから、「衆生の本質は仏の本質とイコールだ」と言っているのだということにもなるわけです。
そして、仏の法身が煩悩にまとわれて迷いの世界をさまよい続けているとき法身は衆生(界)と呼ばれ、法身がそこから脱出すべく仏道修行を実践しているときは菩薩と呼ばれ、法身にまとわりついている付随的煩悩をすべて取り去って清浄になったとき如来(=仏)と呼ばれると言っています。迷いの世界をさまよう衆生は、実体をもたない空なる付随的煩悩に覆われてしまってはいるものの、“本来的には”仏の法身と同一である。だからその付随的煩悩を取り払えば、法身があらわになり、仏になれるというわけです。
さらに、「この(如来蔵)が、(善・不善の)すべての諸性質の根本であり、(如来の)一切の諸徳性をそなえ、一切の徳性と結合して」おり、「(真実ならざる)世俗の諸現象に伍し」ていると言っています。つまり、
①法身=如来蔵は永遠に「堅固不変」であり不滅であるが、机や椅子やみかんやりんごや我々が抱く煩悩などといった諸現象は空なる「もの」であり実体はない。
②法身=如来蔵は、そういった実体のない諸現象の根本となっている。
と言っていることになります。要するに、衆生が迷いの世界をさまよったり、そこから脱出するために修行して仏になったりといった現象のすべてを成立させる根源的な基盤が仏の法身であり、法身(=如来蔵)が現象世界を成立させる基盤になっているのだという世界観を語っていることになるわけです。すべては仏の法身という唯一の永遠に不滅な「もの」に帰するのだという話なのです。「一見すると世界には、机もあれば椅子もあれば犬もいれば猫もおり煩悩もあるといった具合に多くの『もの』があり多種多様であるように見えるが、それらは実体のない空なる『もの』である。確固として存在する永遠に不滅な唯一の『もの』は、仏の法身である。結局のところすべては一つなのだ」という一元的世界観なのです。すべてはアルティメットまどかの円環の理に帰するというわけです。
如来蔵思想と梵我一如
さて、今まで述べてきたことを念頭に置いたうえで、ここでちょっと次のテキストを見てください。最初に言っておくと、これは仏教文献ではありません。
これは、バラモン教・ヒンドゥー教の聖典であるウパニシャッドと呼ばれる文献群に出てくる一節です(ちなみに、ウパニシャッド文献にもいろいろあるんですが、この一節が出てくるアイタレーヤ・ウパニシャッドは、紀元前に仏教が誕生する時代より前に成立したと言われています)。ここに書かれているのは、アートマン(自己)による世界創造の物語です。
最初に存在していたのはアートマン(自己)だけだったんだけど、アートマンはプルシャと呼ばれる存在を創造し、さらにそのプルシャから言語や、資格や聴覚といった感覚や、火や風や太陽といった世界を構成する諸要素が創造された。これらの諸要素はいったん大きな海のなかに落ちるんだけれども、アートマンが連れて来た「男」のなかへと入っていく。かくして人間が創造されたと言っているわけです。
そしてこの物語では最後に、アートマンがみずから人間のなかに入っていくのです。
かくして、万物を生み出したアートマンは、みずから作り出した人間のなかに入っていったというのです。万物の根源であるアートマン(自己)は、あらゆる人間のアートマン(自己)となったというわけです。この物語では、まずプルシャから世界を構成する諸要素が創造され、それから火は言語になって口に入り、風は呼吸になって鼻孔に入り、太陽は視覚になって両目に入るという具合に、諸要素によって人間が創造されたことになっています。ということは、世界を構成する諸要素と人間を構成する諸要素は同一であり、世界は人間の身体や感覚機能を映し出し、人間の身体や感覚器官は世界を含んでいることになります。そして、世界を創造したアートマンと、人間のなかにあるアートマンは一致している。かくして、宇宙が人間を包みこんでいるだけでなく、人間は自分自身のなかに宇宙のすべてを包み込んでいる。そういう世界観なのです。このような世界観は、前回紹介した『華厳経』「如来性起品」で説かれている、「部分のなかに全宇宙が含まれており、全宇宙のなかに部分が映し出される」という、「一即多」とか「一即一切」と呼ばれる世界観と相通じるものがあります。また、この世界創造の物語でいくと、すべての人間のなかに万物の根源であり「真実の自己」であるアートマンが存在しており、すべての人間は万物の根源を分有していることになります。ところで、如来蔵思想はすべての衆生が如来蔵という形で永遠に不滅な仏の法身を分有しており、如来蔵は常楽我浄であり「真実の自己」だという話です。ですから如来蔵思想は、このウパニシャッドで説かれている世界観と構造がよく似ていることになります。
このような世界観を語るウパニシャッド哲学は、「梵我一如」と呼ばれる思想を説いているのだと解釈されてきました。梵我一如というのはざっくり言うと、宇宙を貫く根本原理であるブラフマン(梵)と、永遠不変の自我であるアートマン(我)が同一であると覚ることで永遠の幸福が得られると説く思想です。第5回でも少し触れたように仏教は、既存のバラモン教の権威が揺らいだ時代に、バラモン教に対する「アンチ」として登場した宗教でした。インド仏教では無我説が説かれていますし、いわゆる「初期経典」では、(アートマンやブラフマンがあるのかないのかといった類の)人間が経験できない問題については答えないという無記の教えも説かれています。梵我一如のようにアルティメットまどかちゃんの円環の理とアートマンが一致するとは説いていませんし、「すべては一つである」という一元的世界観を説いてもいません。ところが先ほど見たように、中期大乗で出現した如来蔵思想(仏性思想)は、すべてを一なる仏に帰する一元的世界観の性格を帯びています。中期大乗以降のインド仏教の歴史は、元々はバラモン教の権威を承認しない宗教として出発した仏教が、バラモン教やヒンドゥー教に近いものに変容していく過程だという側面があります。
buddhadhātuと性の思想
如来蔵思想(仏性思想)は、インド仏教やチベット仏教では主流にはならなかったのですが、中国では大流行し、広く深く浸透しました。そして、そうやって仏性思想が主流になった中国仏教が、日本を含めた東アジア全域に輸出されていくことになります。その結果、中国仏教や日本仏教では、ほとんどすべての仏教思想が「すべての衆生には仏性がある」という不動の前提の上に築かれているといっていいほどになりました。ナーガールジュナの『中論』のような形でこの世のすべてを空じる思想ではなく、「最後まで否定されない永遠不滅の何かが“ある”」「結局のところ何かが“ある”」という思想が主流になったのです。
中国に広く深く仏性思想が浸透していった背景には、いろんなことが考えられますが、ここでちょっと思い出していただきたいのは、第25回で述べた「性」の思想です。第25回でも申し上げたように、一般に中国思想の文脈では性というのは「人間の本性」「人間の本来的な性質」のことであり、人間の内なる天のことです。儒家の経典の『礼記』には、「天命これを性という」とあります。天が人間に与えたものを性と呼ぶのだと言うわけです。この世を貫いている非人格的な法則・理法である天は、アルティメットまどかちゃんの円環の理のように万物を貫き、万物に宿っている。人間も万物の一つだから、人間のなかにも天が宿っている。この人間のなかに宿った天こそが、性である。そういう発想です。孟子の性善説も、『荘子』外篇・雑篇にみられる「あるがまま」の性に復帰せよという思想も、そういう文脈から出てくるわけです。このあたりは第25回で既にお話したとおりです。
もうお気づきの方もおられるかもしれませんが、中国の伝統的な「性」の思想と仏性思想は、構図がものすごく似ているのです。前者は、天という名の円環の理が性という形で人間のなかに宿っているという話ですし、後者は、法身という名の円環の理が、如来蔵(仏性)という形ですべての衆生に宿っているという話なのです。
ところで、中国に仏教が入ってきたときに、一体誰が訳したのかは知りませんが、buddhadhātuということばは「仏性」と訳されました。これはさりげなくすごい発明だったりします。先ほど申し上げたように、buddhadhātuという語のdhātuというのは遺骨のことですし、仏性思想というのは「すべての衆生のなかに法身(仏の遺骨)がある」という話なわけですから、buddhadhātuを「仏骨」などと訳してもおかしくはなかったわけです。でも、buddhadhātuは「仏性」と訳されることになり、その結果として中国思想の思想的伝統であった「性」の思想と仏性思想がドッキングしたのです。かくして「仏性」ということばが誕生し、すべての人は仏になる「天性」をもっているのだという人間観が新たに中国思想の世界に提示されることになったのです。中国仏教の世界ではその後も、「仏性」をめぐる問題が様々に解釈されていくことになりますが、そういった流れは、中国に元から存在していた性や天の思想の新たな展開だという側面があります。そのへんの話は中国仏教篇で触れることになるかもしれません。
ともあれ今回はこれくらいにします。
第28回はこちら
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