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得意と好きと、できると辛い

 わたしは譜読みが得意だ。
 人がすごく困って読むものを、30分を2回とかで読むことができる。(比較的早いという表現である。)
 でも、それをするのは心のハードルが大きい。
 できるけど、一度でもできない瞬間があった時、「ああ、また失敗した」「多分また間違える」と自己否定に走りがちだからだ。
(これを早めに治すべきの、心の癖であることが百も承知だが、その瞬間にその自己否定を否定しても、沈んだ気持ちや死にたい気持ちがなくなるわけではないのだ)
 譜読みは、できるけど辛いことなのである。

 反面、好きな瞬間もある。それは、譜読みと音楽の分析が一緒になった瞬間である。
 音楽の分析には種々あるが、歌には詩がある。
 詩と音楽の方向が揃った時、それを自分で把握できた時が一番楽しいのだ。
 その、音楽が輝いて見える瞬間が見たくて、ハードルを乗り越えてやっていたのだ。

 でも、それがもうできなくなりつつある。
 わたしは元来、本が好きな人間だ。
 本を読んで、内容をこねくり回して、あるいは自分の中に入れて、いつの間にか統合されて自分の知恵になっているのが好きだ。そうでなくても、文章を読んで高揚するのがわたしだ。

 譜読みに向き合い続けていると、いつの間にか高揚する気持ちをどこかへ置いていってしまう。
 譜読みは義務である。わたしが音楽を(学問として)続けているうちは、譜読みは避けて通れない道だ。

 夏休みの間、何度も音楽と向き合うことができないことに苦しくなって、泣いた。動悸が止まらなかった。ただ、それは音楽と接している間のわたしにとって普遍的なことだったから、スルーした。当然だ、誰にでもある苦しさだと誤魔化した。
 普通ではなかったのだ。できなくて、頑張ろうとして、頑張って、そのために死にたくなって動悸がしたり、食欲がなくなったり、泣くのは。わたしはそれを理解できていなかった。 夏休みの間にそれに気がつければよかったのに、気づいたのは終了の4日前である。
 また、譜読みの義務が近づいている。それが怖くて、深夜遅くまで起きたり、お腹が痛かったり、動悸がしたりしている。

 何もなかった。別に夏休み中、変わったことは。ある意味で日常の延長線上にあった。
 ただ、できないことをできないと、苦手だと、言おうと思った。

 人に弱音を吐くのは苦手だ。共感されることで自分の苦しさが、その人のサイズに矮小化されたと感じるからだ。
(これがおかしいことはわかっているが、大抵の場合、無意味な共感は何も生まないと思っている。それよりも「あなたはそうなんだね」「これからどうする?」と一緒に考えてほしいと、そう思ってしまう)

 人の評価を自分の中に入れるのも、やめにしたい。他人はあくまで他人だ。
 自分が辛いと思ったことは、辛いでいいのだ。苦しいでいいのだ。楽しいものも楽しいでいいのだ。他人の荷物を自分が背負う必要もないのだ。

 人間は、遺伝子の多様性を持つことで進化につながった。だから、他人は他人で、わたしはわたしなのだ。

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