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vol.1 ライスワークとライフワーク

[時局 2006 1月号 掲載 / 2010 5月加筆]

 幼い頃から、母方の祖父が僧侶であったと聞かされました。とは言え、祖父が亡くなったのは、母が六歳の頃です。母から伝えられた祖父のエピソードは、大変頭がよかったので僧侶の修行に出されたこと、兵庫県高砂のお寺の住職になったこと、高砂の美しい白浜を朝夕、小さい母の手をひいて散歩したこと…くらいです。それなのに、このところ祖父をとても身近に感じます。母が、肌身離さず持っている写真のせいでしょうか。生みの母が、その生みの父を大切に思う気持ちが伝わってくるのかもしれません。
 
 写真で見る祖父は僧衣をまとい、鼻筋のとおった丹精な顔立ちの真ん中の、凛とした眼差しで遠くを見つめています。病で亡くなった若い仏僧はいったい、何を見つめているのでしょう。彼の生家は愛知県江南市にあります。彼の父親、私の曾祖父は仏教に篤く、頭のよい四男を僧侶にしたくて、当地では藤で知られる曼荼羅寺に修行に出したそうです。祖父はその後、京都の大学で仏教を学びました。龍谷大学ではないかと思われますが、今ではよく分かりません。それから、兵庫県村岡町の旧家の養子となり、実家と養子先の財力を頼みに高砂の寺(2009年に高砂市 月西寺と判明)の住職となるものの、病に倒れて実家に戻り、生まれ故郷で人生を終えたそうです。
 
 寺の住職になるほどのお金と時間と気持ちの投資をして、早世した祖父が求めたものは何だったのでしょう。僧侶は格の高い仕事として、息子を僧侶にした曾祖父には何らかしらの想いがあったでしょう。その想いに応え、親元を離れて厳しい修行に出て、大学まで進学した祖父にも、それなりの決意があったものと思えます。その短い人生において、彼は決意を果たし満たすことができたのでしょうか。
 
 人は時に食べるため、生きるために働きます。やりがいは感じられなくても辛くても、収入を得るために“ライスワーク”に就くことがあります。広い地球には、ライスワークに就けない人々もたくさんいて、飢えや病に倒れたりしています。日本でもリストラや倒産などの理由で、仕事を失う人も少なくありません。辛い事実です。一方で、恵まれた環境にありながら、ライスワークに就いている人がいます。

 高度成長期を経て、日本の生活水準は世界のトップクラスになりました。貧富の差も少なく、お金とモノに恵まれています。それなのに、豊かさを実感している人は多くはなさそうです。朝夕の電車では疲れた顔、無表情な顔たちが座席を争い、眠り崩れます。上司とお客の顔色を伺うことに汲々とすれば、疲れも増すでしょう。私たちは果たして、何のために働いているのでしょうか? 働くことには確かに辛いこと、苦しいこと、やりきれないことがついて回りますが、本当にそれだけなのでしょうか?

 地球のどこかに、作りたてのサンドウィッチとコーヒーを屋台で売っている中年女性がいます。見渡すかぎりの草原で牛を放牧している親子がいるかもしれません。ささやかでも仕事を慈しんで生きる人々、収入が高くても高くなくても、その仕事が危険であっても、人が嫌がる仕事でも、与えられた使命に気づき、自分を活かして働く“ライフワーク”に就いている人々がいます。そうした存在を知る度に、モノやお金に恵まれながら、豊かさを実感できない空しさをつくづく感じてしまいます。

 キャリアづくりを支援するという仕事柄、話を聴いたり、話を説いたり、時には祈るような気持ちで人のしあわせを考えたりする昨今、道半ばで亡くなった祖父に生かされているように感じることがあります。また、道半ばで亡くなった祖父を生かしているように感じることもあります。因縁ということばがありますが、祖父と因と縁で結ばれているとしたら、それは誇りです。祖父が僧侶をライフワークとしたように、私は在家のままで人のしあわせを祈り、人がしあわせになる手伝いをし、そのことをとおして自分を育てていきたいと願っています。この世では会ったことのない祖父はその短い生涯によって、自分を人のために活かす人生を教えてくれました。合掌。

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