『海辺のカフカ』村上春樹【読後脳内】

自己。
客体。
内なる迷宮。
図書館。


僕たちは呪われている。
作中での呪いはひどく具体的だったけれど、行動を規定する記憶、感情を呪いと呼ぶなら、きっとみんな呪われている。

忘れられない記憶。
言葉にすると安っぽいけれど、それはきっと特別な場所に匿われている。
そこに入って、置いてきて、出てくる。
そこに入るのは僕で、そこ自体も僕で、出てくるのも僕であれば、置いてきたものも僕。

僕は僕の眼で世界を見ている。
ある意味では、それは僕にしか見えていない世界で、その世界は僕でもある。
世界はメタファー。

とりあえず、僕が読み終わって考えたことを雑に書きました。
村上春樹は、完結していないエンターテインメントを提供する作家であると、改めて感じてました。
本を読み終わっても、村上春樹の用意した世界や物語は終わっていない。
そこから「考える」フェーズを必ず用意してくる。
これは半ば強制的なものです。
『ノルウェイの森』
『1Q84』
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』
『風の歌を聴け』
『神の子どもたちはみな踊る』
『女のいない男たち』
そして、『海辺のカフカ』
思い出せるだけでも、これだけ村上春樹を読んできましたが、1度たりとも、読み終わってすぐ喫茶店を出たことがありません。
考えなければいけない。
それは物語が抽象的で理解に時間を要するという意味ではなくて、「村上春樹は僕に何を求めたのだろう」ということです。
そして、今作はもっともその色が強かったように感じられました。
「あなたとは何であるのか、必死に考えてみろ」と。
作中に描かれた「入り口の向こう側」は、一見ユートピアのように感じられますが、それは考えることを放棄した世界だったのではないでしょうか。
そこでは、時間も記憶も重要ではない。
現実に地に足をつけて生きるなら、この2つから離れることはできませんから。

脱線します。
僕は哲学に明るいわけではありませんが、デカルトの考え方を思い出しました。
彼は全てを否定しました。
僕は現在、足を組んでおり、目の前のテーブルに右足の太ももが、右足の膝の裏側が左足の太ももに触れています。それを目で確認してもいます。
それらの感覚が、全て脳から与えられたもので、実際にはテーブルもなく、足も組んでおらず、なんなら足の存在すらもない。
それを否定することはできないと、デカルトは言いました。
そして彼がたどり着いた結論が、「このことについて私は考えている。考えている私は確実に存在している。」です。
かの有名な「我思う故に我あり」です。
考えているから僕は存在している。
それは、考えるかぎり僕は存在し続けるという意味にもなります。
案外脱線ではないのかもしれませんが、僕は読み終わってから、デカルトのことを思い出しました。

村上春樹作品はたくさんあります。
読むたびに、何がしかを考えます。
僕は彼の作品を個別に楽しんでいました。
ドラゴンクエストなどのように、共通概念や共通言語が存在するわけではないので、そうすることが自然です。
ですが、作品群がひとつのものに明確につながっている、それは村上春樹の脳です。
同じ作者が書いた本なのだから、それは当然だろうと思うかもしれませんが、僕にとっては盲点でした。
つい、物語を「そこにあるもの」として認識していたと思います。これは考えることの放棄の一種と言って差支えありません。
ですが、それぞれ書いた人がいる。
そして、書いた人は何かを考えている。
そのクイズに正解しようというのではありません。そんなことに意味なんてない。
それを考えること、考えることで僕自身が少しづつ変容し、世界を変える。
大袈裟な表現ですが、世界は僕が見ているもの、世界は僕のメタファーなのですから、世界を変えることは文字通りの意味よりかは案外容易い。

僕はなんなんでしょうね?
村上春樹自身もこの問いには答えられないことを望みます。
それを考え続けているがために、彼は物語を書いているのでしょうから。

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