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腎移植のココロ


劇症型溶連菌感染症の影響で、腎不全になった。
なので生きていくために、腎代替療法が必要になった。
家族とも話し、腎代替療法の中の腎移植を検討している。

ドナーとなってくれる人から1つ腎臓をいただき、わたしの体に腎臓を移植する。ドナーの方は健康な方に限る。つまり健康な人にメスを入れる。

ほんとうにいいのかな?リスクは0ではないしな。私の中にいただいた腎臓が定着しない可能性もあるしな、、それだとなんのために健康な人にメスをいれたのかわからないよな。とかウジウジしてしまう。

ありがたいことに母がドナーになりたいと言ってくれた。息子のネフローゼが分かった時、息子が将来腎不全になったらわたしの腎臓を移植しようと思っていた。(残念ながらわたしが腎不全になってしまったのでそれは叶わなくなった)
なので、ドナーになりたいと言ってくれた母親の気持ちもわかる。

いざ自分がもらう側になると、申し訳なさや他の選択肢はないのかと模索してしまう。得体のしれない不安でいっぱいになる。

ある記事で、「「腎移植ではドナーが身体に傷を負い、日常生活を送るのには充分であるものの腎機能が低下するという不利益をこうむります。しかし代償として自分の子どもや夫や妻が人工透析から脱却して正常な社会生活に復帰することができ、ドナーもその幸福感を共有できるのです。だからこそ生体腎移植は親族間に限り例外的に許される医療なのです。」」という文章を読んだ。(引用:「日本の臓器移植 現役腎移植医のジハード」)

幸福感を共有できるっていい言葉だな。何も制限がなければ透析を離脱した人生を送りたい。そのためには私には腎移植の選択肢がある。腎移植を安全にするために自分ができることを徹底的にやろう。それが私だけでなく、私の家族の幸福感につながるのだ。


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