ながた(すずき)さゆり
感染症に伴い、敗血症性ショック・DIC・多臓器不全・子宮さんと足指さんとのおわかれ・腎臓と心臓の機能低下の治療を継続中。 奇跡的に回復したお話を綴ってここうと思います。
子育てとはなにか
3歳10ヶ月〜4歳0ヶ月まで2ヶ月間、病院で過ごした記録
1次試験合格まで3年、2次試験は2回。 合計4年かけて、令和6年中小企業診断士に。
茶道って何をやっているのかよくわからないと思いながら、お稽古を続けている理由をまとめます。
劇症型溶連菌感染症の治療で使ったお薬の影響で、足指が壊死してしまった。(手先や足先が犠牲になる可能性があることをわかっていて、命を優先させるためにお薬を増量したのだ。) 結果、手先は守られ、足の指が壊死。両足の人差し指、中指、薬指を切断することになったのだ。 とっても親切な形成外科の先生に、具体的に説明をしていただき手術。2週間後に抜糸。(5月の出来事) 指がない違和感が未だにあるが、少しずつ少しずつ慣れてきたのを実感する。のだが・・・ 足指をテーマにした絵を描いてみた。
第3子を出産後、子どもを出産した病院に残して大きな病院に運ばれた私は、生まれたての子どもと3ヶ月間離れての生活だった。 だけど、なんと、乳飲み子に、母乳をあげることができていたのだ。 振り返ればたくさんの方に協力いただき叶えることができた。感謝の意味を込めて文章にしたい。 大きな病院のICUに運ばれて、手術を終えた直後から母乳ケアが始まった。 私が意識がない時から、乳腺炎にならないようにと助産師さんが毎日来てくれていたそう。 意識が戻ってから、母乳をあげたいですか?と聞か
子どもに残すものは、生き様、思想、事業、資金の順に考えると良い。 という教えを夫婦で大切にしている。 生き様とは、背中を見せろと言うことだと思う。 息子は今は落ち着いているが、一度悪くなった腎臓を抱えて生活をしている。一度悪くなった腎臓は悪くなりやすく、将来、腎代替療法が必要になる可能性は高い。 今、腎代替療法が必要な私は、複雑な思いの中で、腎移植を選択している。その選択への背景や家族の在り方、移植後の生活など全て、息子は見ている。将来、息子が腎代替療法が必要になった時
腎移植に向けた、第2ハードル、「わたしの心機能の評価」が一息ついた。 *第1ハードルは、わたしの腎臓にできたシコリ。それは問題なくクリア! *おそらく最終第5ハードルくらいある。 劇症型溶連菌感染症の影響で、心機能が20%まで落ちた。(EF値(心室の駆出率)と呼ばれるもので60%以上が正常だそう。) いろいろな検査と治療を経て40%まで回復! 腎移植をするための全身麻酔に耐えられる心機能だろう。と診断を得ることができた。ほっ。 色々勉強したり医療の現場に患者として関わる
今の気持ちを水彩画にしてみた。 きっかけは、ドイツに住む叔母が勧めてくれたことだ。 小さい子どもを育てるお母さんにこそ絵をやってほしい!!と勧められた。 正直、絵なんて描いてどうなるの?それっていくらになるの?目的は何?とか考えてしまう。そうすぐに考えてしまう自分は浅い人間なのかもしれないなと。 今このぐちゃぐちゃな感情の表現方法は、文章だけではなく絵を描くことでも表現できるかもしれない。 表現することで気持ちの整理がつき、より一歩を踏み出しやすくなる。もっともっと自分の
本やネットで移植の体験談を読む。 本当にみんな色々あるんだなーと思う。移植になった経緯も選択してきた治療も十人十色。 腎移植に関しては、慢性腎不全・腎移植を選択という共通項はあるものの移植後の生活や拒絶反応なども本当にみんなバラバラ。 人間は、人を一色単にして、この人はこういう人。と括るのがお得意。なのだということを実感する。初対面の人と話すときに、あーこういうタイプの人ね。と相手をさほど知ろうともせずに、括って謎に自分の中で完結する時がある。 そうして自分のこともこう
移植、なんて自分には無縁の世界だと思っていた。 感染症にかかり、一夜にして腎不全になってしまった。こんなことが起こるなんて思ってもいなかった。 5ヶ月前感染症だとわかったとき、生命がかなり危険な状態だった。「とにかく脳と心臓です。腎臓は腎代替療法があります!」と力強くドクターが言ったそう。 あらゆる医療機器に繋がれたわたしはなかなか脳のCTが撮れない、これでもかとアドレナリンを打ってもなかなか血圧があがらない。そんな時を経てわたしは今ここに生きている。 脳のCT画像を見
今まで健康優良だったのに、感染症の影響で慢性腎不全になり血液透析をするようになった。 慢性腎不全は障害者手帳をもらえる対象。わたしも早速、申請し受け取った。 受け取った時、「あー障害者になっちゃった。」と不快にも思ってしまった。 障害を持ってたってイキイキ生きている人はたくさんいる。障害は一つの個性。そう自分は考えていると思っていた。 でも障害者手帳を受け取ったとき「「障害者になってしまった」」そう思った。 それって心では障害者を差別をしているってこと?障害者であること
劇症型溶連菌感染症の影響で、腎不全になった。 なので生きていくために、腎代替療法が必要になった。 家族とも話し、腎代替療法の中の腎移植を検討している。 ドナーとなってくれる人から1つ腎臓をいただき、わたしの体に腎臓を移植する。ドナーの方は健康な方に限る。つまり健康な人にメスを入れる。 ほんとうにいいのかな?リスクは0ではないしな。私の中にいただいた腎臓が定着しない可能性もあるしな、、それだとなんのために健康な人にメスをいれたのかわからないよな。とかウジウジしてしまう。
劇症型溶連菌感染症の影響で腎機能障害となった。 徐々に尿量も増加しむくみがなくなってきたので透析離脱できないかとがんばったけど、結果尿毒症のような症状が現れて、透析は離脱できないという結果となった。 透析離脱の検討は緊張感があった。週3回必要な透析をスキップする。スキップして体内の毒素がたまらないかなどを観察する。ドキドキがたまらなかった。 ある日、突然嘔吐した。(尿毒症の症状の一つ)あーやっぱりダメか・・となった。でも私は少し安心した。ようやく結果がわかったと。そして透析
気がついた時には何が起きたのかよく分からなかった。 医療職の皆さんが口を揃えて、「よくここまで頑張った」「素晴らしい」「なかなか助けられない疾患だから症例報告をしたい」「奇跡だ!」「すごい!」などなど言ってくれて、私が助かったことは稀有なことなんだと認識した。 中でも印象的だった言葉は 「あなたを助けられたことはもちろん嬉しい。それ以上にあなたの3人の子どもたちにお母さんがいるという環境を作れたことが心から嬉しい」と言ってくれたことだ。 病気になるまで、私はどこか「お母
100日の入院生活の中で、1ヶ月半ICUにいた。 気づいた時には、人工呼吸器に繋がれていた。 肺の筋肉が落ちていて自力呼吸がしづらく、人工呼吸器を外すのが大変だった。 医療職の皆さんは外すことできますよー。というけど、人工呼吸器を外す怖さや息苦しさがあった。 たくさん睡眠薬を飲んでいるのに、人工呼吸器を外すと寝れない・・・。 48時間外すことができたら一般病棟に移れる。けど人工呼吸器を外すとなかなか夜間を過ごすことができない。ジレンマだった。 人工呼吸器をしていると声が出
三男坊出産後、劇症型溶連菌感染症になり100日の入院をした私は、三男坊の生後3ヶ月をこの手で育てることができなかった。 ふにゃふにゃのぽけ〜としている顔や母乳の匂いでいっぱいの新生児期を。 長男次男が三男坊に初対面した時の顔も私は見ることができなかった。 昼夜もない生後3ヶ月。交代で育ててくれた家族には感謝の気持ちでいっぱいだ。 だけど、、だけど、、、自分ができなかったこと。しょうがないとはわかってはいるし、命あって今ここに戻って来れたことだけでも感謝なこともわかってはい
「今夜、乗り越えられるか、、わかりません。今日が山場です」と医師に言われたわたし。 その日はどうにか乗り越えることができたが、脳へ感染していないか、障害がどれくらい残るのか、体は今後動かすことができるのか、不全になった臓器はどれくらい戻るのか、、などなど死の淵は脱したけれど、その後のことは不安いっぱいな状況が続いたそう。 加えて40度の発熱が続き、なかなか出血が止まらない。。困難な状況が続く・・。家族は毎日面会に来てくれて、きっと大丈夫と言い聞かせながら、何度も私の名前を
子宮全摘の手術後、わたしは気を失ったままだった。 敗血性ショックになりお薬を入れてもなかなか血圧が上がらない、、からの多臓器不全。。。 ドクターが家族に、「正直厳しいかもしれない。会いたい人がいたら会わせてください」と伝えたそう。 そんな状況に、東京にすむ姉妹たちや遠方にすむ義理の両親がすぐに駆けつけてくれた。 ICUにいるたくさんの医療機器につながられた私に、たくさんたくさん声をかけてくれた。 その時私はとても不思議な夢を見ていた。 ICUに置いてある機械に乗ってIC
第3子が産まれた次の日から40度の高熱が続いた。 寒気で震えると思ったら、暑くて暑くてたまらなくなったり温度調整が難しい。 産後ってこんなに大変だっけ?年取ったからかな?とふらふらになりながら思う。 コロナ陽性と診断をうける。 わぁ。コロナだから高熱なのか、、。個室の時で良かったな〜よくなってから退院しようと思った。 そこから気を失い、、気づいたらたくさんの医療職に囲まれていた。ご家族に連絡をとりたいです!!と言われて起きた。何が起きた?!私も知りたいのでここで電話してく