旅2 本文
1 観光やら
1/1 観光と日常
観光客と居住者の違いはどこからくるのだろう?近所を歩くことで近所を知るけど、観光客も「歩いて知る」ことをしている。近所であっても、次の季節に歩くことは初めての体験なのだし、美的な体験が可能だ。それに普段でも「歩いて出かけること」と「乗って出かけること」の違いを意識すれば、違う視界を体験することになる。旅先で自転車を借りることも珍しくない。旅や二拠点生活で得られる効果の一部を、普段から体験しているといえそうだ。
二都市型ではなく、都市と地方の二拠点のとき、別荘地として人気のあった方面が注目されやすい。そこで問題になるのは、アクセスの負担が低く、庭のように見てしまうことだ。
地方は東京の庭ではないし、未開の地フロンティアでも植民地でもない。すでに当地の人たちが暮らしている、自分のいつもとは、違う日常世界。そこにお邪魔をすることになる。とはいえそこは、地元と観光、二拠点目の複数が重なるエリアになっている。これは訪れるものから見れば、副業の勤務地のように考えることもできる。
本業であっても勤務地が変われば、周囲の散策をする人は少なくないと思う。散策は自然体験の方が近いかもしれないが、広い意味での観光はそれを含む。地元の人が地元を散策しようと思えないのなら、観光だけでなく、二拠点や関係人口による交流は盛り上がりにくいのではと思う。
1/2 文化のある暮らし
つまり「観光地があるから観光する」のではなく、「観光するから観光地になる」という成り立ちはある。地方出身の人と会話をしていると、よくどこそこに行っただとか、あそこは「おまち」でどうのだとか、そういった話が聞ける。それはデベロッパーが開発に関係して生まれた動きではなく、歴史文化や自然が豊かな中で、余裕のある暮らしをしているから観光が生まれている。
観光地と一括りにするのではなく、性質を強調する視点が必要だと思う。例えば、「喫茶店」「カフェ」「コーヒーショップ」は一括りにカフェといってしまいがちだけど、ニュアンスはそれぞれに違う。そして観光があるということは、一つとして同じものはないという強調が支えていると思う。
まず傾向として、西日本は歴史観光地が多く、中部、東日本は自然観光地が多いように感じる。個別に目を向けると、「地元」を楽しむ視点が基礎になるものは、他の地域にはない親しみあるものの個性、地元の当たり前なものだろう。その動きの発見で、当地を照らすことができるかもしれない。
その意味でテーマ別目的、歴史や景観、アウトドアアクティビティといった条件探しの観点は、都市から見た仕分け方だと思う。よく、地元の人はそれほど山に登らないなどという話も聞く。
1/3 平日と観光
オーバーツーリズムは、いつもゴールデンウィークのような状態だと思った。その負担を考えれば無理のある状況だ。またおよそ、日本人であれば都市から多くの人がやってくるのだろう。上記の、都市から見た仕分け方が効いて、その土地を訪れていると思う。
しかしひとまず、観光客は友でも敵でもなく、白でも黒でもなく、中立的な存在としてとらえれば、悪いばかりではないかもしれない。であれば逆に、観光客である僕たちは、都市から見た仕分け以外の目線を持たなければならない。
観光業は、都市から見た仕分け上にあるエンターテインメント性だけではない。それ以外の方向性が浸透しなければ、都市型企画や都市型目的が主体になってしまい、オーバーツーリズムに対しては値上げや規制以外には、当地の落ち着きは見えてこないと思う。これは後述する「ブランド」の話と関係してくる。
観光業以外の市民も商業的な姿勢に巻き込まれたりするかもしれないし、その当地の市民も観光をする人はいるだろうし。
であれば観光地「化」の課題は、経済的な問題、どのような開発や再開発かだけではない。それに、日本の感覚でいう観光はかつて、観光地を訪れるものだったのだろう。しかし外国人の様子や時代の変化を見るとそうではなく、むしろ「観光地」よりも独特の生活文化に興味を移している。そのようなニュアンスのずれで余計に、生活しているところに観光客が大量に入り込んできたという混乱を感じているのではと思う。オーバーツーリズムにも、爆買い的なもの、映え的なものなどと幾つにも分けられる。これらを混同すると、対策もおそらく効果が出ない。
その一つとして、やり方次第では観光地化が、感性で伝えられてきた日常的なものを元気にするかもしれない。昭和新町などは再開発候補地としてではなく、歴史化しつつあるものを壊さず、文化的な価値を生み出すという舵取りが増えてほしい。昭和生活が観光地に転じる可能性のために、美学が必要になると思う。
2 文化的やら
2/1 文化資本と旅
子供がやりたがることと大人が旅先で求めるものは違うと思う。観光の範囲を広げると、もっと多様な体験が可能になる。虫取り、道具を使う体験、縄跳びなども楽しめたらよいし、雪遊びなどは多くの子どもが元気になるのは想像しやすい。
また歴史や暮らしだけでなく、特に造山帯にある日本は山頂を目指すだけでなく、地理や地学方面の興味はかなり広げられる。植物や生き物の観察もできる。
温泉発掘で呼び込むこともできるが、歴史のなさか、なにか馴染みきれていない雰囲気は感じ取られるのではないか。これは温泉ではなく箱物といわれるものなのだろう。
他には町を出なくても、城下を眺めることで、地理や歴史の挙動などの理解が深まる。人の動きや土地の制限や条件などがみてわかる。それによって、当地の文化の成り立ちが理解できる。
観光は視覚的な学びにもつながるし、リベラルアーツを体現している。このようなソフィスティケイトなアクティビティという印象に転じることができたら、大きな動きになる。
2/2 人生と旅
経済面から離れて旅の価値を考えると、若者以上に、子ども時代に優先するものだと思う。自然の中で遊ぶ経験がなければ、いきなり行っても案外難しいものだろう。
草木の中で自転車を漕いだり、自然現象を観察したりすることで、知らなかった世界、世界Bと出会える。世界に複数のレイヤーができて、一つが破れても「やり直せる安心を知る」という意味が生まれる。このような体験が、生き方に深い価値を与え、あったかもしれない人生という転換も得られると思う。
そこを返せば問題は、旅を目的やテーマを絞り込んだ形で捉えてしまうと、人生が複数化しにくくなるところだ。現状の自分でも知ることができる有名どころや特定の評価のある場所にしか行かないことになるからだ。まずこれが、都市から見た仕分け方だ。
人生が宿る場所は、情報や商業施設の中ではないし、ランダムなのが現実世界だ。細かい規定や、絶対的なテーマ設定をしない旅には、思いつきを試したり、素早く思考を切り替えたりする自由がある。その結果、予習ができない物事に出会うかもしれない。
目的ありの場合には、行くまえに検索をしているが、自由度の高い旅では旅先で検索ワード、つまりワンダーに出会う。そのように自由な世界に入り込める。信念や目標設定は、自分が使えない。
ワンダーを重視した旅は、いつもと同じ日常ではなく「あったかもしれない日常」のような、「いつもが違う」といった違いがほしい。どこも同じで、サイズや配置が違うだけの町を作っても、外部からみたら、用がなければ行くことはなくなる。
重要なのは、知らない土地は別の世界ではなく、パラレルなB視点を持つことだ。非日常ではなく別の日常だ。なぜならその土地に暮らしている人にとってそこは、少しも非日常ではないからだ。また世界や日本の各地にいったが、今日ではない日があったことはない。
こういった現実認知のずれが大きすぎれば「ここはランドじゃねえ」問題になってくる。つまり旅人の態度としては、成果的に訪問地を増やす欲望的なものではなく、現実の見方を増やす能力的な喜びの姿勢が大事だ。
2/3 企画もの
いくつかの「小京都」を眺めて、空間や都市をどこまで経済理論に詰めて作れるかではなく、自然に対して順目に感じる作りが、長期的なバランスを保ちやすいと思う。商業によって作られた街は、商業を楽しむばかりになり、飽きが早い。
情報発信によってある地域に興味を持つことは多いし、魅力的な要素もたくさんある。「行ってみたい」という気持ちが高まる人もいるはずだ。しかし、どちらにも失礼な言い方になるがそれは美術館のようなものだ。実際に訪れて、その土地の情報化できない、感性に頼るしかないものに注目して楽しめる人は、美術館を訪れる人と同じようにあまりいないのではないだろうか。
切り取られた視覚的な良さや、憧れといった体験をこなした満足に満足し、感性上の理解に至らないことはあると思う。それは僕がそうだったからだ。
そして限界集落のような場所の多くは訪れるのが困難だ。地方に興味を持つ人が増えたとしても、そこまで深く入り込む人は多くないだろう。結局、移住や二拠点目に地方を選ぶ場合でも、都市との連携が良好であったり、車を使わなくてもアクセスできる場所が好まれる傾向にあるのではないだろうか。
人々を動かす動機によっては、「地方に行こう」という動きが生まれても、特に移住では、楽な場所を選んで動く傾向になる。情報で人を動かす試みも、一部の人にしか効果がない。むしろ、情報に流されやすい人が動きやすいのが現実だと思う。体感を重視し、自分の判断で動く人々にとっては、単なる情報だけで行動を促されることは少ない。
多様化は機械的に作り上げるものではない。有機的な多様性がなければ、人々がその土地で生きることは難しくなるだろう。そのためには、理由を叫ぶこと以上に、配慮や許容、そして想いを馳せる想像といった要素が不可欠だ。
3 住むとか
3/1 観光ができる暮らし
例えば東北の人にとって表参道は観光地であり、神楽坂の風景は観光地のイメージと重なる。では東京近郊に住む人が表参道に行くことは、日帰り観光ではないだろうか。そしてそこに行きなれたら、観光よりも生活の一部になっていると思う。そう思うと観光と生活は分離されているようで、実は密接に関連している。
視点を変えると、田舎暮らしをしていてもたまに旅行ができる暮らしがあれば、東京近郊に住む人と、観光機会との距離は同じだと思う。アクセスに頼った発想だと、移動時間のかかる田舎は、移住条件が厳しくなる。
「独身の間にどこにでも行ける」ことが強調されがちだが、実際には「結婚後にどこにでも行ける」かが鍵だ。独身期に自由に動けるからと生まれた土地を離れた結果、その場所から動けなくなる現実がある。
これは、場所にとらわれないパソコン仕事であればいいということではない。常に移動していたい人はそれほど多くないだろう。それに地方の活性に主眼を置くと、もう少し事情が広がるからだ。ワークシェアなどの仕組みが活性化し、時間を作れる仕事が増えることを望んでいる。
3/2 住んでみる観光
都市から見た外部への目線は、昔、過剰にリゾート地が注目されていた時代と異なり、地方都市で部屋を借りるようなイメージの方が近くなっていると思う。そこで旅から移住に移すと、賃貸アパートなどで数年間の二拠点生活が増えるのも、「ひとまず」よいのではないだろうか。そちらの方が行く人間には当然気楽だ。好きな言葉ではないのだが、サブスク的な転換だ。
また地域でゴミ拾いや草取り、どぶさらいを行う人が増えれば、その地域の活性は維持されるのかもしれない。大袈裟に構えることではなく、かつてあった町内活動や里山の生活のようなもの。
そして進んでやる人はここでしかやりたくないのではなく、きれいになるからやる。これは体験談だが、草取りして嫌がられるところや、タダでやるんだろとかここを取ってくれとか、都合よいように見てくるところには行きにくい。例えるなら美人にはいい顔をするような店。そんな土地は行きにくくなる。地域が、地域活動を下層にしないことは大きい。
4 頭から私に引っ越す
4/1 関係
日常生活では、政治的・社会的な思想傾向はほとんど関係ない。誰でも買い物をすれば値札通りに商品を買う。スーパーマーケットに入るのに特別な愛国心とか特別なグローバリズムとか必要がない。ただの町中にいる人間の、日常の一場面だ。
しかしスマホをみるとそうもいかなくなってくる。これは現状では事実だとしても、冷静な人には関係がない。
SNSやメディアの影響で批判や怒りが拡大する。しかしおそらく、元々なんで怒っているかはわかっていないと思う。皆同じようなことを言っているからだ。情報に巻き込まれて、感情が反射しているようなものだと思う。
新旧メディアに強く影響を受けた、わがままやミーハーの理想を叶えるために、地に足のついた生活が軽視されてしまえば多様な選択肢を失う。人間みんな同じだと考えるなら、社会性が欠けている。みな同じなら一定の配慮はしないからだ。
視点を変えれば、観光客が問題なのではなく、生活に馴染まない遠慮知らずな性格や品性に欠けること、過度な自己愛傾向などが問題なのだ。
4/2 関係の形
コミニュケーションは分業ではなく手分けの心だ。町の変わり方が手分け的にできていないことに気をつけることが始まりだと思う。おしゃれカフェを作って若者を集めたいと思っても、特に小都市やその周辺では、先に必要なのはお年寄りがきやすい店という場合も少なくないと思う。
思いに従ったターゲティングが先行するのではなく、全体が和めることが先立つのが基本形だと思う。それは、売る側が売りたいものを売るために道具や影響力を駆使する底の抜けたマーケティングの感覚ではなく、買いたい人が選べる状態が、横断的な関係なのと同じだ。
見た目を整えるのであれば、空間や配置を本来の形に戻すことが重要だと思う。駅前が高齢化しているのなら、そこを無視してしまわない方が配慮ある人の町になると思う。ただ、昼の街といったエリアには、昼の利用が配置されるものでもある。
人々の普段の動線上に、必要な店があり、同時に存在がぶつかり合わないような制限。これはかつて日本中にあった商店街がそうだった。
4/3 生み出される
そして話の規模は変わるが、現代性を加味すると、本や文具のセレクトショップが地方都市で増えてほしい。よく地方の中心都市に、高級お洒落エリアと、チープな若者ファッションエリアを見かける。後者が充実することは、若者や庶民的なワクワクは高まるのではと思う。
他にも趣味の店で、工作や美術などのショップがあるといい。休みや夕方以降に、できればアルコールやギャンブルなどではなく、趣味に没頭できる方がいいと個人的には考えているし、地域の特徴を生むと思う。マルシェはおしゃれでもよいと思うが、バザーか縁日のような、庶民的な雰囲気の方が活性を上げるところもあるのではと思う。
人間に限らず多くの事で、一定の安定が得られたあとは過度に制御しない方が良い結果を生む。これは、町(町さん)の自由に深く関わる。
5 理屈やら
5/1 旅を考える
旅は自分探しといわれる。なぜそう思い込まれているのかはまだわからない。ただ、「自分探し」という言葉には、おそらく「自分にたどり着くため」という意味合いが軸にあるように思う。
しかし僕の実感はそうではなく、自分をはじめるためのものだ。それは、自分の世界を自分自身でつくりはじめること。むしろ「作られた自分の解体」といえる。マニュアルやコピペ、要領のよさで何者かになろうとするのではなく、つくられた表面的な自我的自分を否定し、持ち合わせの能力を活かしながら本来の自己を築いていくこと。それが、僕にとっての旅の意義だ。
こうした観点から考えると、「旅」と「自分」という概念は必ずしも直結するものではない。旅が本当に結びつくのは、自分ではなく「新しい世界」だ。旅を通じて、誤った情報や偏った思い込みを修正し、頭の中や世界に対する認識をアップデートしていく。それが旅の持つ力だと思う。
もし信じたものの正しさを確かめるためだけに各地を巡るのであれば、旅の効果は逆転してしまう。それでは「自分固め」、つまり既存の自分や世界観を守り続ける行為になってしまう。これでは新たな視点や世界観を育むどころか、他者の意図による自分に、自身を閉じ込めてしまう。
旅は、城から城下を眺めることや、海から船で陸を見ることと同じだ。見られる側が、見る側になったと気づくことができる。それにより新たな視点やレイヤーが生まれ、世界を異なる角度から理解することができる。
曇った目を晴らすために旅に出る。それが晴れるまで旅を続ける――そうした衝動に駆られることがあるのなら、それもまた一つの形だと僕は思う。
5/2 人間がある
旅行は「施しを受けること」を、再確認できる場合がある。過度に商業/損得勘定が生活に入り込んでいなければだが。
慣れ親しんだ仕組みの中では、人は「申し訳なさ」や「深刻さ」を意識せずに過ごすことができるのかもしれない。しかし旅に出ると、縁や関係していること、相互依存的な力が働いていると気づくことができる。これも新たな視点やレイヤーだ。これは正しさの共有ではなく、現実空間に共存する者同士であることだ。個人同士では、性格の共有のようなものだ。
正しさを振りかざす態度は、見下すことや非情、ケチなこととは容易に共存できる。しかし自然の中に身を置けば、自然が正しいと思うほど、強情に思い込み続けられない。
僕は自然の味方をしてきて、自然は正しいとすら考えている。しかし、自然が正しいのは僕のおかげではないし、僕とは無関係だ。この場合の自分が正しいという考え方は、自然という正しい存在への侮辱ですらある。
6 価値を生み出せるか
6/1 守る魅力
イタリアでは、家族がよく話し合いをする文化があると聞く。また、文学作品から感じられるのは、イタリアの古書店が果たしている役割と、日本における語り継ぎの文化が似ているかもしれないということだ。もしそうであれば、多くの人々の人生を変えてきた本には特別な価値があり、それを受け継ぐ「古書店」と、文化を語り継ぐ場である縁側やお年寄りの存在は、共通するのではないだろうか。
古いものに価値を見出す心は、イタリアが得意としているようだ。この価値観がブランドを産んだのだろう。しかし、マーケティングはその心ではなく、構造を掴んで利用した。
視点を変えれば、物事や人間関係の扱い方が粗雑であれば、それらは傷つき、やがて失われてしまう。そのような人間の前に、本当のブランドは存在できない。自分の態度によって、あるひとの形見のようなものと同じような関係を生むことができる。
高額化や企画によって誘導されて作られたブランドは、また別の意味合いを持つ。これは、個人の態度によって育まれるものではなく、他者がコントロールする思考や構造に接続されたものだ。自分が産んだのではなく、差し出され、制御されたのだ。
6/2 野文化の墓
音楽や小説も、初期の評価が芳しくなければ長く生き残ることが難しく、文化として定着しにくくなっていると思う。ひと時代前には、作者の有名作が一つの場合、「一発屋」と揶揄されることもあったが、現在ではそのような評価すら希薄になり、誰が作ったとか、売れる構造で作られた(売り出された)とか、そういうものが注目される傾向になっているようだ。その結果、埋もれて再発見されることを待つしかない作品は、ただ眠り続けることになる。小説の場合、電子書籍化されていれば再評価される可能性も残るが、紙の本では売り場から姿を消せば存在が忘れられてしまう。
現在の作品はジャンルの一要素として位置づけられるだけで、新たな歴史を作るものではなく、すでにある半ば作られた歴史の流れに適合することがその価値とされる。おにぎりの米ひと粒と餅のように違う。
日常生活の中で生まれる文化的な動きも、時代の欲望によって押し流されてしまう。これを見て、社会が正常でこうなっているのか、それとも社会がおかしくてこうなっているのか、問い直す視点が見過ごされているように思う。
こうした流れの中で、ビジネス主導の「地方活性化」という概念にも疑問を抱く必要がある。本来、地域特有のクセや、優雅さや静けさ、おとなしさなどといった要素も尊重されるべきだ。しかし現実には、それらが金や影響力と結びつくビジネス的な言説に飲み込まれてしまうことが多い。ビジネスと適切な距離を保つことで、新たな価値観が浮上してくる可能性があるのではないだろうか。
7 辞書には視点が複数書かれる
7/1 話は違う
また、「大衆性」と「公共性」が全く別物である点は見逃してはならない。人口流出問題の背景には、特に若い世代が「いけてる」業界やスタイルに憧れる心理も含まれているだろう。これは要素の一部分だろうけども、性質としては本音ではないだろうか。
一時的な流行による行動やそのときだけの価値観が、社会のあり方やバランスを崩す原因となり得る。そして、このような流行の一部か本流が、経団連の情報産業企業により推進され、他の国では見られないほどの影響力を持っている。このような「企画文化」に偏った国の状態が、現状を作り出している要因の一つではないだろうか。
ただ、生活文化が薄れていく原因は、誰かが意図的に消したのではなく、戦後の合理主義の広がりによって非効率なものがひとつひとつ否定されていった結果だと思える。
文化は本来、基本的な部分が継承されつつ、現代の感覚を取り入れながら変化していくものだ。しかし、合理化の過程で文化構造が分析され、マニュアル化され、量産され、商業化されていった結果、文化のあり方は基礎という基地を持つものから、商業や大衆を喜ばすために使われる構造を基にするものへと、暗黙の了解が移行してしまった。
本来、現実や素材を基に柔軟に変わっていくはずの文化が、時代の欲望を約束にした形に変わっていった。その結果、原点が「時」をまとう泉を眺めるような物語ではなく、「時流」に流されて消えていく物語ばかりが生まれるようになった。
7/2 話に考え込む
時流によって一時的な安心感を得られる一方で、不安も大きくなる。一度聞き逃すと何が語られていたのかわからなくなるからだ。これは僕の人生で起きた体験だ。人生に社会的なブランクがあると、復帰が難しくなる。
再起の社会問題は語られているが、産業主導で時代の欲望に合わせて作られた情報操作が支配的な社会のままでは、根本的な解決は不可能だと思う。
消費文化が文化を消化してしまう状況も深刻だ。「物」から「コト」への転換を目指す提案は、一見すると文化的な進歩のように見えるが、実際には「コト」という形で次々と新しいものに置き換える消費サイクルを生み出すための仕組みになってしまった。
都市から郊外に出て、高級キャンプ、高級バーベキュー、高級サウナ。はじめに目指した様子と変わってくる。このような体験をかたった現象は、環境に配慮した結果とは思えない。大衆が知った新しい欲望の仕方に基づいた、新しい商業アイデアだ。「コト」もまた大衆が欲望するものの判断軸から逃れられないならば、その情報状による上限のなさは、フィルターバブルに中毒していく無間サイクルと何が違うのだろう。
8 伝達やら
8/1 イデアの距離
現代のネット社会では、遠くのものとの距離がゼロになったように感じられる。さらに現金からカード、キャッシュレス化によって、貯金期間を待たずに欲望に手を伸ばすことに慣れすぎてしまった。その結果、思いを馳せるという思考力は薄れ、「欲望の即時実行」へと変わってしまったようだ。本当に我慢がなくなった。
「情報」よりも「知」に近いものについて、他者が教えてくれたらいいのにと思うのか、それとも自分でわかるようになりたいのか。この選択によって、人生の挙動は別物になるだろう。もし後者であるならば、情報によって距離がなくなった遠くのものよりも、感性が届く範囲の日常に目を向けることが始まりになる。そのような姿勢を持てば、いずれ未知の場所にも興味が湧いてくるはずだ。
「君たちはどう生きるか」と問うのなら、君は外部にあるものが即座に手に入る興奮を求めるのか、それとも自分の内面を活かせる喜びを求めるのか、という問いになるだろう。
「世界を知る」「世界を見る」とよく言われるが、世間に広まる好意的な提案の多くには、汚れた部分や不都合な現実が除外されている。もともと現実は、目を伏せても意識せざるを得なかったし、見ようと思っても遠くまでは見えないものだった。
外部からの情報量は個人の能力を上回っているし、解釈も過剰で、好意的な話に包まれるようになってしまった。
本来、人間の視界には、見たいものだけではなく、範囲内にあるものすべてが映る。目を背けたくなるものも、そこにあるのなら見えていた。
昔は人々の間柄が強かったため、人の死もより身近に感じられたのではないだろうか。悲惨な死でなくても、それは悲しいもののはずだ。そして距離や時間が変わった結果、悲しみ(仕方なさ)から難しい問題(苦難受難、解決可能)にすり替わっているように思う。でも目を閉じていても、死がリセットされることはない。
逆にいえば、過去の人々は、「過度に」問題にまとわりつかれることは少なかったのかもしれない。まず生きることとすることの距離が近かっただろうし、問題の一部は、仕方がないものとはっきりしていただろう。つまり現代人の諦めの悪さは、現実的な範囲を超えてしまった。
8/2 地面に降り立つ
現在では、遠くの問題まで目が届き、嫌でも聞かされるようになった結果、1次的現実を見ようとしなくなっているようだ。身近なものすら見ようとせず、1次的に当たり前なものが目に入ることに、怒りを覚える人もいるくらいだ。
現代社会において私たちは、「問題になることが問題」という状態を無視している。地域の問題でも、無理に問題を発見しようとすることが増えているように感じられる。
さらに、どこに行っても日常的な暮らしが似通ってきている世界にも気づかされる。視察目的で海外を訪れることが、日本文化を再発見するための手段になってきている。視察旅行/スタディツアーも悪くはないのだが、これは持ち帰るという意図がはっきりしている。つまり、かつての「異文化に触れる感動」という動機は薄れつつあるように思える。それは同時に、各地方の暮らしの違いが、魅力として感じられなくなってきているのではないだろうか。
もしすべての地域がミニ東京化していくだけならば、東京を選ぶのが最善だろう。しかし、感性が頭の支配を受けないのならば、そうはならないはずだ。
9 生まれてみる
9/1 はみ出す
地元の人々が日常的に歩む道や、人生の中で何気なく訪れる場所は、口コミや情報メディアを調べただけでは辿り着けないかもしれない。その土地で暮らす人々の動きを想像する感性が、旅と人生に共通する重要な要素だ。
この感性がなければ、どこへ行っても「データとの相性」や「口コミやネットワークの多さ」といった要領のよさに終わってしまうだろう。それが、コピペ癖、東京が最善、に繋がる。東京は最も情報があるからだ。
「関係人口」という言葉があるが、もし「人が来ることで空気を入れ替える」ことが目的なら、単に距離や行きやすさだけではなく、遠方に足が向かわなければ、そのムーブも物足りない。来てほしくないところはともかく、まだあまり人が行かない場所に行こうとする意識がなければ、その企画は救いたいものを救いきれずに、見捨ててしまうかもしれない。
情報が乏しいのなら、ひとまず確認 -下見的なことかもしれないが- 、をしにいくような人が十分にいるような状態が大事だと思う。それこそコピペ癖から脱けだすための鍵であり、知らないところに行くことは価値が高いといったはみ出しを、隠さず共有することが望ましい。
9/2 感性
遠くの山を見ても怒られない。しかし他者をジロジロ見たり、誰かやあるものを自分のために利用しようと発想することは、行儀が悪いことにつながってくる。利用を実行したら犯罪になる場合も少なくない。
町で暮らす僕らはその心理的な制約の中で、あまり見たり考えてはいけない空間にいて、感性による空間を自主的に黒塗りにしている。そこが人口密度によるストレスなどと関係していると思う。輸送効率だとかそういったもので密度の圧縮ができても、生き物はそう対応しない。しかし黒塗り化する町の一方で、看板や商品には目を向けるよう強制される。
歩道を歩いているときに遠くを見つめると、気分がすっきりし、爽やかさを感じる。姿勢や体の感覚が変わるだけでなく、その心理的な制限から抜けて、空間と対等な態度になれたからだと思う。感性で捉えることは喜ばしいものでもあるし、感性で捉えるものにも価値がある。
美学はそういった価値が、社会に組み込まれるように実践していく。
9/3 参与
生まれた時、世界も自分も全て謎だった。そのうちにその謎は解き終えることができないはるかに大きなものだとわかる。いつまで経っても、わかってくると同時に次の謎がやってくる。世界も自分もこのように謎だ。これが好奇心や探究が人生を通じて拡大し続ける人の世界だ。
しかし、世界には死も、汚さも酷さもある。それらから目を逸らそうとすれば、知欲の成長は現実に向かわない。逃げようとすらするかもしれない。少なくとも現実との互換性が低い。すでに自分に備わっている世界に、互換するものだけで想像していくことになる。こういった状態は問題があると思う。認知を現実的にしていく療法があるくらいだからだ。
「ひとまず」外部の説明を信じず、都合よく改造した世界から「ひとまず」抜け出すことで、現実に対する態度が、生まれたときと似てくる。「ひとまず」思考的に無関心になり判断を保留して、理由も価値判断も言葉もない感性で時空と接してみる。そして生まれた時のような世界が広がっていく。その時の私は判断する能力をいろいろと持っている。
つまりどうしても必要になるのが感性で、そのさきにあるものが有機的に広がる現実の知や世界だと思う。
人文学がもたらす知は、この感覚を鍛える。文学小説は自分の望み通りに作られたものではなく、自分の意思をひとまず保留して、物語に合わせた理解をしていくからだ。これこそが、大衆の欲望に合わせて作られたものとは異なる存在の意義で、シンプルな感想にはならない。自分の規定している外側に出ようとすることが、知の成長に必要なのだ。
10 契約やら
10/1 平和時の自己愛
人口の増減や地方の人口減少、さらに農村の人口減少は、それぞれ異なる要因を持っているように思える。農業の衰退と地方都市の衰退は関連が深いものの、全く同じ現象ではないと思う。たとえ地方に移住したいと考える人がいても、農民や農業家になりたいとは限らない。
社会全体を考えれば地方への移住は望ましいが、現実には個別の理想や価値観が障壁となっていると思う。地域の活動によってその土地の魅力を高めることは可能だが、時代的な価値観が変わらなければ、多くの人は町の人間から抜け出せない。
10/2 動かなくても疲れる
都会と田舎の「疲れ」の違いが、現代の問題の核心にあるのかもしれない。農林水産業のように体を動かす仕事では、疲労は寝て回復することが当たり前に思えてきそうだ。一方、都市的な仕事は疲れることをしているというより、第一に疲れる環境に身を置いているだろう。そのため、疲労回復には眠るだけでなく、鬱憤を捨てるように、気分を捨てにいく必要があるのだと思う。森の世界観と砂漠の世界観との違いくらいある。
現代の多くの人々は、現在の生活環境に不満を感じ、普段と異なる場所や体験、消費活動を求めるようだ。日常と異なる風景への憧れが人々を駆り立ててる。インスタグラムに投稿される日常の作り方を見ていると、そう思えてくる。
10/3 ホワイト国
現代的な価値観では、地域貢献と重なる収入を持ちたいという積極的な気持ちが湧いても、地域の維持片付けといった労働は金銭で免罪したがるだろう。これは、もうやめてしまったが、放棄地再生ののら仕事をしてきて思うことだ。
しかし、山間集落における維持片付け的な労働は欠かせない。そして人手不足なのもわかる。人を集めようとしても、経済活動に意識が偏ったり、労働といった第一印象で判断されて人が集まらないことはあると思う。
都市部から農村などへ移り住む決断には、「町の人」から「村の人」になるという大きな壁があると思う。これは一地域の問題ではなく、日本全体が直面している課題であり、エッセンシャルワーカーやホワイト・ブルーカラーなどといった問題と、同じ問いになる。そしてAI の影響で仕事がなくなると震えるのは、都市部が中心にあるように思える。
山間部の村は基本的に、村人の手が届く範囲で成り立つのだろう。労働力を超えた作業量が求められると、村の維持は難しくなる。高級キャンプや野外サウナで人を呼ぶ精神は、人の手が問題になるこの文脈ではひとまず関係がない。体力が強くない僕がこれ以上論じるのは恐縮だが、過剰な土建業が目立つ町を見ると、数だけの話だが、人口の流れを改善する可能性はあるように思える。
10/4 ポストネットデジタル
山間や中山間地域の維持を、会計的な視点だけで捉えるのは悲しいことだ。子どもにとっても、そうした地域で世界が広がる経験をすることは貴重な学びとなる。しかし現実には、そうした体験を得られるのは余裕のある都市部の子どもに限られつつある。
また、大人にとっても、生活費の安さや環境の良さを手に入れられるのは、デジタルに強い人々に偏る状況が生まれている。何かが逆転しているように感じる。(しかしAI 問題で反動が起きうると思う)
このように地方が映える人生の舞台として見られてしまうのも、何か歪みを感じざるを得ない。地方の収入を確保する取り組みは必要だが、ある地方が高級な体験をする場所や単価の高い作物を作る場所になるなら、それは都市側、ビジネスの理論側に問題があると思う。
11 過渡期
11/1 個人的な話
しかし結局会計的な話になるが、情報に頼るだけではない別の対応があるとよいかもしれない。たとえば、地方の宿泊施設では、料金を変動させて召喚させるだけはなく、割引のある長期滞在プランを重ねることで、地域の雰囲気をじっくり楽しみたい人々に喜ばれると思う。これは地方都市でもそうだろうし、観光シーズンがない地域ほどやりやすいのではと思う。
期待しすぎかもしれないが、その宿がある小都市やその周辺の田舎にも、自然と社交や雰囲気が流れ込むかもしれない。もしかしたら以前はよくあった「合宿」の感覚が、時代に流されてしまっただけなのかもしれない。「合宿」と「リモート」は繋げられるのではと思う。
このように第一の日常から抜け出し、「日常B」を体験する場として、地方都市の宿泊施設が活用されてもよいのではないか。
新幹線や飛行機で移動し、車がない状態でも、「街暮らし」に限定するならありだ。それは日常Aに近い。つまり日常Bだ。特に観光を目的とせず、ビジネスホテルやゲストハウスに数日滞在し、パソコン作業をしたり本を読んだりする「スローな滞在」がそれだ。リュックにノートパソコンや本を詰めて出かけ、4~5日程度の短期滞在を毎月続けることでも、新しい生活を生み出すことができる。「あったかもしれない日常」を感じるには十分だ。
静かなワーキングスペースを備えた宿は、休みのたびに利用したいと思う人も多いだろう。生活をスローに楽しむスタイルとして、都市部から1~2時間で行ける緑豊かな小都市に、そうした宿があるのも良い。自然の中に滞在する印象の強いワーケーションだけでなく、都市と地方をつなぐ新しい旅行の形として期待できる。
というのも実は、リモート時代にそうしていて、まだ過渡期だと感じたからだ。地元にはワーキングカフェのようなものがあったが無くなった。特に街中では、「スペース」を経営するのは難しいのかもしれない。特に現在のような価格変動が起きているときは尚更だ。
しかし移動に目を移すと、以前と比べて、入り込む見学と抜け出す旅の境界が曖昧になってきているように思える。そう考えると尚更、スマホやクッキー問題などとも重なって、スマホよりもWi-Fiを持ち歩くことに、感覚が移ってくればと思う。
11/2 まとめ
このようにいうと、そもそもが矛盾してしまうように思えるかもしれない。しかし、元々都市近郊に生まれ育つ人も多い。生まれた土地を離れる動きを考えるのであれば、都市近郊の人間が都市近郊に暮らしたくないと思う心理、または暮らせる心理を、ひとまず考えないわけにはいかない。生まれに縛られることなく、という考え方と妥協的に擦り合わせていくと、二拠点的な姿勢や一定の理解の上での旅行者といった提案は有効なのではと思う。