平面社会

最近、SNSに対してつまらなさを感じることが増えた。もしかすると、そもそもSNSはつまらないものだったのかもしれない。初めて触れたときは可能性を感じ、試しに使い、しばらくは夢中になった。しかし今では、画面上に目立つのは主張の強い人々や、他者を言い負かすことに満足する人々ばかりだ。SNSの参加者に対して「黙ればいいのに」と思う自分がいる以上、自分はSNSに向いていないのだろう。

このような環境に適応するには、アンガーマネジメントなどの自己鍛錬が求められる。しかし、「鍛えられすぎた器」が本来の人間的な姿なのか、不安になる。SNSには肯定的な面もあるが、悪影響もまた否定できない。「黙ればいいのに」と思いながら使い続ける自分に気づくと、自身の内面に歪みを感じる。

ふと、「この世とは自分の世界であり、あの世とは他人の世界なのではないか」と考えた。というのは、インターネットの普及によって、あの世が消えたのかもしれないと思ったのだ。「知り得ない」という感覚が忘れられたからだ。ただもしかすると、消えたのはあの世ではなく、この世のほうなのかもしれない。現実を忘れるためにネットを見て、心理的に双方向でつながっていない者と勝手につながっているように感じ、外部の何かを信じている。そう考えると、そんな状態から抜け出て、1日のうち何秒、能動的に現実と向き合えているのだろうか。


画面に映るものを、事実として受け取ってしまうことがある。世の中では素朴に、文字化されたものが事実として信じられ、市民の解釈となる。

そもそも、ネットは「B面」(カップリング)のような存在で、世の中の本体ではない。オールドメディアと呼ばれるものも同様だ。ネットは記録媒体としては便利だが、本来反省すべきことを外部に保存し、普段はすっかり忘れることもできる。記録がネガティブなものを保管し、その間ポジティブでいられるのだ。しかし、そうしているうちに、物事を深く考えなくなることもある。

言葉で他者に気持ちを伝える以前に、まず自分自身の気持ちをひねらずに表せるようにならなければならない。意味や価値は心の自由ではなく、論理を通して出てくるもの。理由が先行していると、それは各人の意義ではなく論理的な意味へと変わる。意義が自律的なのに対し、意味は全体性へと向かう。ここで注意すべきなのは、その意味が各人にとって意義のあるものかどうかを誤ってはならないということだ。

意義は意味に先立つ。意味は意義によって無意識化することもある。理想論の限界を指摘することは重要だが、理想が悪いわけではない。意義が先立ち、同じ意義を持つ者が集まる範囲内であれば、それは一つの方向性として成り立つ。しかし、意義は常に変化するものであり、それに伴い意味も変化していく。やがて、意味に従って動いていた人々は、その枠組みの中で立ち止まるようになる。集団が維持されるためには、常に新しく、初日を迎えるような感覚が必要だ。固定された意味や価値を意識し続けるのは、意義が欠けているからだろう。

また、意義は純粋に個人的なものではなく、社会から受け取る側面もあるのだろう。能動的であれば、今よりも多くの自由と意欲を感じ取れるはずだ。しかし、社会の合理化が進む中で、自分の欲望や自由を再構築しなければ、心の自滅を招いてしまう。私たちは「生きている」のではなく、日々「生き延びている」のだ。


黙っていたらできることが、なぜかおおごとになってしまう。社会の合理化が進めば進むほど、損得勘定が日常に浸透し、立派なことをする人、誠実であろうとする人、さまざまなことに挑戦する人、そして心の自由を大切にする人が減少していく。合理化の波は、心地のよいあり方を追い出すのだ。

自分の考えを相手にわからせようとする態度は、セールスの場面でよく見かける。しかし、日常の対話や他者とのセッション的な会話において、そのような態度は適切ではない。むしろ、深く突っ込めば突っ込むほど、倫理的な問題が生じる。言葉の持つ力を考えるとき、重要なのは「伝える」ことではなく、「共に在る」ことなのだろう。


現代的な市民に対して影響力を持ちたいなら、反論の技術を磨けばよい。世の中の発信の本音には、そういった計算があるように思う。しかしネットでの議論が盛んになったとしても、うまくいくのはごく小さなスケールのものだけだろう。それよりも影響力に目を向けるなら、組織を維持するためには、偉さや権威のようなものを設定しなければならないという前提に気づく。確かに、それがなければ秩序は保てない。

ただ、もし望むべき社会のあり方があるとすれば、それは「出たがりな人間」ではなく、「配慮のある人々」が報われる仕組みだ。それは、騒ぎすぎに対する規制かもしれない。


しかし、現状がこうである以上、深い関係を築くことだけが友人関係ではないのかもしれない。表面的な関係の友人を増やすことも、残念ながら、マイナスを抱えないためには必要なのかもしれない。

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