子供の頃からのやる気

桃源郷は、子供の頃のよかった思い出なのかもしれない。何も語らない自然環境の中で過ごした日々。大人になってから振り返るその時間が夢だったのか、それとも、あの頃に思い描いた未来が夢だったのか。しかし今となっては、夢の実現は、現実への互換のようにも思える。

心理もまた、健康と同じく浄化が必要だ。放置すれば毒素が溜まり、意識しなければ健全な状態を保つことはできない。僕は、自分の過去を整えなければならなかった。そう考えると、夢のほとんどは過去に属しているように思える。幼少期の人格形成期に獲得し損ねたものがあり、それが今の心理的違和感の原因のひとつだろう。だから僕は、学びを通じてそれを補ったり、世界に対する感覚の再獲得を試みている。しかし、過去の穴を埋める作業は単純ではない。取り戻すべきものと、捨てるべきものを見極めることが必要だ。過去の生を求めるわけではないからだ。

そんな僕にとって、過去を整える一助となったのが小説だった。少年時代や10代の頃、やりたくてもやれなかったことを、物語の中で疑似体験できる。あったかもしれない過去を、自前でシミュレーションするのはなかなか難しい。これは映画でもよいように思われるが、おそらく小説の方が優れる。というのは疑似体験なら、主人公である自分は、画面に登場しない。あったかもしれない過去を振り返り、それがなかった悔しさや悲しみが薄れていくこともある。そして自分の捉え方が未熟だったことに気づくこともある。


多くの人に、過去はよかったという感覚はあるのだろう。しかし、過去も今も、どちらもその時の現実に過ぎない。僕たちは常に現実の中で生きている。

戦後の世代が見た現実は、今よりもはるかに変化が大きかったはずだ。おのずと現在よりも未来に対する想像力が豊かで、そこに夢を見て成長の可能性に満ちた社会だっただろう。しかし、現代では未来への特別な期待は薄れ、「楽でわがままが通用する未来希望」といった自己中心的な夢が増えているように感じる。僕たちは今と違う状態を求めるけれど、未来を築くのではなく、現実の負荷から逃れようとしているのかもしれない。

社会を理解するには、ある程度の知識と経験が必要だ。それがなければ、社会的自由を感じることは難しい。同様に、自然の現実を理解しなければ、現実の制約の中にある自由を感じることができないだろう。何が自分にとって手を伸ばすべきものなのかを見極めるためには、可能性だけではなく、そのような制限を知ることが欠かせない。自由とは、ただ制約から逃れることではなく、自ら選択する力を持つことでもある。後者は、現実の中での自由だ。


人類は長らく自然を考えてきた。その結果、神的なものとしての自然が思想の幹になっていると思う。しかし、社会のあり方を見直すとき、自然を語り尽くせないものとして保留し、人間関係が生み出すものを社会の原点と捉え直すことはできるだろう。つまり、個別の関係性の中から社会を考える視点が採用されてこなかった。安心を求めすぎると、人は動けなくなる。無意識のうちに権威を求め、それが示す「正しさ」に従うことで、不安を和らげるのだろう。しかし、それが過剰になると、自ら考えることを放棄し、社会の構造を疑うことができなくなってしまう。

僕たちは、応用力や空間認知、脱権威性など、自分で捉える力を身につけ、日常の不安を減らしていくことが必要だ。ある程度それができたら、日頃の恐れは減ると思う。今の暮らしに問題がないわけではないが、問題しか見えないのはおかしい。現代人にとって、宗教とメディアは似たようなものだ。自分が作り出してものではなく、できあがった理論が提示され、それを信じなければ始まらない。しかし、本来の科学的思考はその逆だろう。まず観察があり、そこから理論が生まれる。先に理論を信じるのではなく、観察を通した自らの語りができるかどうかだ。


本当にそれが問題だと思えているのだろうか?思わされているだけだから、考えてもそれ以上浮かばないのではないか?問題の発端に問題があるのではないか?

「やる気が続かない」「気持ちが動かず、どうしてもできない」――そうした行き詰まりを感じると、私たちは意志の弱さや努力不足を責め、自らを律しようとする。しかし多くの人は、それでも問題を乗り越えられないようだ。

僕の経験がどれほど他者に役立つかはわからないが、そもそも「それに対してそこまでの熱意がない」と認めることが、行き詰まりを打破する突破口になることもある。何かに影響を受けてそう思ったものの、実は自分には向いていなかったと気づけば、発想を切り替えられる。能力を発揮するにしても、もっと自然な動機を見つけることができる。

僕を動かすのは、「じっとしていられない」という感覚かもしれない。暇になると、何かを考えたり始めたりしてしまう。これは、無理に作り出した意欲ではなく、身体の自然な動きとしての衝動だ。元気であれば自然と湧いてくる。それが、生物としての僕の動機核なのだろう。

自分を磨くことはドMでもできるが、無理に自分を追い込まなくても、暇でじっとしていられなくて興味を高めていくことでもできる。抑圧による達成よりも、興味の高まりを活かすことの方が、ずっと自然で持続的な成長につながる。抑圧による達成は、自分の外側への信頼が強いのかもしれない。他人への期待、完成度高いつるしの理論への期待を強めれば、MにもSにもなるのだろう。素直に頑張っている状態は、意味や価値の設定が生み出す努力ではなく、可能性を感じる心が生み出したものだと思う。

カジュアルに「慣れればやれるだろう」などと無根拠に思えたとき、その難しさに対して「おもしれえ」と思うのではないだろうか。生物的なやる気がある程度の型になるまでを考えていくと、向上したらあれがやれるようになるという想像が動きを洗練する。簡単だから楽しいが、難しいから面白いという見方が出てくる。

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