やる気、情熱。それは自分で知りたい気持ち。

一人でやれることが、人生から問われている。熱意が湧かないときは、意味や価値にとらわれ、理解の外側へ出られなくなっているのかもしれない。

現代人の学習意欲は、基礎知識の習得ではなく、事情通になることに向かっているようだ。社会が複雑化し、情報量が爆発的に増えた結果、理屈はもはやどうでもよいレベルにまで押しやられている。それに適応しようとするからなのだろう。

しかし、そのような心理とは異なる学びもある。たとえば、ある本によって、これを知りたいと思うことがある。今の自分が持っている知識から抜け出したい気持ちになっている。とはいえ、この知識が必要だと説く本ではない。ただ、読んでいるうちに、知りたいことが生まれてくる本がある。

仕事を覚えると、情も生まれる。関わるものへの愛着が芽生えるということだ。僕は物や道具に対して情を感じることがあった。道具が手の延長となり、自分の感覚が広がって、ものも道具も半ば自分の一部になっていた。

情は、理では割り切れないものを判断する。論理だけでは説明できない、人間の自然な感覚なのだろう。この場合もまた、既存の想像力の外側へと出ていくことができる。

似た話で、ねこの恩返しを思い出す。動物と友達になるのに言葉は必要なかった。理由を尋ねても仕方がない。ただ察すればいい。気が合わないのに友達になる必要もない。ある日、仲良くなったのら猫が僕に野ネズミを持ってきた。「いいものだけど、あげるよ」ということらしい。そのとき思ったのは、社会性とはケチではないということ。縁があってケチでなければ、情でもつながっている。魂に姿は関係ない。

人からの指示を逃れるだけでなく、そう気づかせない制御からの指示も逃れられれば、自分の枠を固定する状態から抜け出せる。おそらくそれが自分を生きるということだ。これは品の問題でもある。品のあることをするかどうかだけでなく、品のある受け取り方ができるかどうかだ。都合のいいことだけを受け取る、感情を動かされて興奮する、持ち上げられてやっと動く。そうした品のない情報摂取を断てるかどうかだ。


本を読まなくなったのは、何もしない状態では読書にならないからかもしれない。主体性や能動性が欠けていれば当然、読書に必要な状態にならないし意志も生まれない。読書問題は特に身体における積極性が枯れていく現代人という問題を浮かび上がらせる。それほど意欲がないのに「読みたい」「読書する私が良さそう」と思っても、映画や音声とは違い、ただ座っているだけでは読書はできない。読書は自分から取りに行く意識がなければ成り立たない。その他の勉強でも、推理することでも、自ら取りに行く能動的な関心がなければ成り立たない。

結局のところやる気や情熱も、つるしの知識や物事を利用していては育まれないし、自分流に高められるようでなければ持続しない。やる気や情熱が続かないというのは、そうしたい気持ちが思いつきでやってきても、刹那に消えていくことを不思議がっているだけだと思う。

やる気や情熱を育てるために、基礎的な知識や書式が土台として必要になる。とはいえ一部の人はそれを知らなくてもできるし、時代によってはそういった人に注目する場合もあるようだ。たとえば2010年代は、基礎知識を身につけるよりも独自の態度をとるべきだという意識があったと思う。それでうまくいくのならそれでよいと思う。しかしそちらは一般的な説明にならない。例えば書くことの情熱を掴みたいのなら、基礎を身につけることと同時に、「書きたいものを書く」のではなく「書けるものを書く」という初手が順目の理解だと思う。また型に慣れる練習として、塗り絵のように書き写すのも手だ。

プラットフォーム上のつるしの知識は、ある意味で思い込ませる装置だ。その影響で、人類の思い込みが新時代化し、現在の混沌を生んでいるのではないだろうか。10年代、多数の人が知ればいいと啓蒙していった結果、自分で考えることがなくなると同時に声の大きな他者や見栄えのよいものに思い込まされた人類になった。それが閾値を超えれば人間世界は破滅的に断裂するのも当然に思える。そのため、自前の勘違い力について考えなければならない。


人間の勘違いにはいくつか種類があるのだろう。理解の段階では、身体化との相性がわからないし見極めることは難しい。引き返しやすい状態や心得は必要だろう。誰かを信じると、こういった状態ではなくなってしまう。「自分との相性」「自分の現実との相性」など、この辺りの判断で、個人で巨人の肩にあるものを探せるようにならなければならない。

慣れるための指導を受けるのではなく、勘違いで始まる広がりと基本とのレイヤー重ねで、個人的な才能が培われるのではないだろうか。

今の自分のレベルを超えていくこと。つまりパラレルな自分の能力に出会うには、勘違いが0→1の出発点となるのだろう。何人もの天才を眺めているとそんな気がしてくる。勘違いは「根拠のない自信」とも言われるが、それが解析されていないだけであり、単なる鼻笑いで済ませるべきものではないのかもしれない。

であればある意味での若さとは、「わかっていないこと」であり、それがパラレルな可能性への鍵なのだろう。「可能性を信じる」という言い方でうまくいく人もいる。しかし、それではうまくいかない人もいる。「不明確な感覚」によって明確に進める状態を選べなければならない。それが言葉でできる人もいれば、そうでない人もいる。また、特定の言葉の種類によって影響を受ける人もいる。自己暗示でうまくいく人もいるだろう。

ただ、他人を信じているうちは、たとえ何かを手に入れたとしても、そこには歪みが生じるはずだ。内部にある「外部」が勘違いを起こすような状況が必要だ。この「外部」はひとつに、頭の中でごちゃごちゃいっている声なのだと考えている。しかしその内部の「外部」ではなく、他人の意見という外部によって内部が書き換えられてしまえば、それは他者からの制御を受けることになる。これが歪みだ。つるしの知に頼る方法は手っ取り早いのだろうが、その手法には相当な生へのマイナスがある。そのような指導がはまらないのなら、初動が起きずに時間や金や人生が無為に過ぎていくことになる。


いいなと思ったら応援しよう!