バランス注射
先週ドラえもんに出てきた道具が
衝撃的すぎて忘れられない。
お正月から、のび太が連続的に
不幸な出来事に見舞われたのを
見兼ねたドラえもんが、
不幸せと幸せのバランスを保つ
便利な道具をのび太に出したのだ。
例えば、不幸せが4回続いたとしたら、
その分幸せが4回訪れる。
合理的な道具ではあるのだけれど、
精神面を合理的に解決することは
あまり望ましくはない。
と真っ当な事を言っているように見せかけて、
実際のところ私は、人間は皆ほぼ平等に、
同等分の不幸せと幸せが
やってくるのではないかという考えを
自分の中に持っている。
人によって感じる幸せと不幸せの
程度の差があるだろうから、
全く一緒とは言い切れないけれど、
もしも幸せのレベルを世界共通で
数値化した場合、トータルの数値は
個人毎に大差ないと予想している。
とはいえ、
これは自分自身を鼓舞するために
設けたルールだから全く根拠のない理想論。
自分に不幸せが続いた時は、
ここまで落ちたんだから
この先はもう上がるしかない!と思える。
反対に、自分が幸せだと感じたら
次に私が感じる気持ちは
今より落ちる、すなわち不幸せが
やってくると思ってしまう。
もともと自分を励ますための
理論ではあったのだが、
合理性を求める自分の内心が
結局幸せを受けた後に
受けるべき不幸せの存在にばかり
目を向けてしまって
幸せを幸せだと受け取らないように
してしまう癖がついた。
結局ドラえもんでは不幸せ分の幸せを得た後、
更なる幸せがやってこようとした時に、
ドラえもんが慌てて
のび太が新しい幸せを受け取らないように
阻止したのだ。
映像の中では、
みんながケーキを食べていて
のび太にもケーキをくれようとしたのに
ドラえもんの阻止により
お断りするはめになった。
幸せを受け取ってしまったら
次に不幸せがやってくる!
という合理的な理論のもとに。
これは今の私だ。
不幸せが怖くて、
幸せにならずにただ生き永らえることが
果たして何になるだろうか、、
次にくる何物かもわからない不幸せのために
みんなでケーキを食べる幸せな時間を
我慢することに何の意味があるのだろう、、
私の今の考えだと、
究極は死ぬまでボーッと
無の境地を生きることになる。
ここで幸せと不幸せについて考えてみた。
幸せはパッといくらでも思い浮かぶ。
不幸せとはなんだろう。
確かに起きたあとに、
嫌な気持ちになったり
悲しかったり悔しかったり
憤ったりするんだけれど
不明確な物体に乱されている気がする。
今ひとつだけ、
明確にある自分の中の不幸せ、
すなわち恐怖は死であると思う。
だとしたらそこに見合う1番の幸せは
この世に生を受け、
今を生きていることなんじゃないかなと思う。
生まれた瞬間から今までの人生に見合う
同等の不幸せに向かって、
幸せを背負いながら私達は歩いている。
だとしたら、
その過程の中で感じる幸せや不幸せは
人生に彩りを与える程度の
オプションにすぎないのかもしれない。
もっというと、
過程で起こる不幸せだと思っていたものは
不幸せとはまた違うものなのか。
意識の中にある不幸せは死であり
そこに見合う幸せが
生きていることだとしたら
過程で経験する全てのことは
幸せなのかもしれない。
そうしたら私が思う皆平等に、
幸せ(生)と不幸せ(死)を与えられた説は
あながち間違いでなかったのか???
何はともあれ、これからの人生は
生きてるだけで幸せじゃないかと
オプションで目一杯自分の人生を彩って、
全力で人生を全うしようと思ったのである。
そしていくつになっても
ドラえもんに学ぶ事はまだまだ多い。
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