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【パラサイト-半地下の家族-】カゾクの形<第三回>貧困家庭のサバイバル

まえがき

【逆噴射家族】カゾクの形<第一回>家族間戦争

【誰も知らない】カゾクの形<第二回>家庭内で起こる誰も知らないこと


■パラサイト-半地下の家族-

過去に度々事業に失敗、計画性も仕事もないが楽天的な父キム・ギテク。そんな甲斐性なしの夫に強くあたる母チュンスク。大学受験に落ち続け、若さも能力も持て余している息子ギウ。美大を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もない娘ギジョン… しがない内職で日々を繋ぐ彼らは、“ 半地下住宅”で 暮らす貧しい4人家族だ。(中略)
“半地下住宅”で暮らすキム一家と、“ 高台の豪邸”で暮らすパク一家。この相反する2つの家族が交差した先に、想像を遥かに超える衝撃の光景が広がっていく——。

パラサイト-半地下の家族-オフィシャルサイトより/https://www.parasite-mv.jp/story.html

■半地下の家族

▼半地下とは?

・貧困
日本では馴染みのない「半地下」の家。この「半地下(반지하)」は、韓国では誰もが分かる「貧困層」を指す単語である。

・底辺と呼ばれる者たち
日本でも同じような単語が存在する。「底辺」という言葉である。
以前、就活関連の企業が「底辺職」としてランキング形式で紹介したものが軽く炎上したことも記憶に新しいと思う。

▼韓国と日本

・家族観の違い
韓国人の家族観は、伝統的に儒教思想が根深い。
儒教思想では、子は家系を継承し父母の面倒を看ることは一種の責任であるとする。この思想は日本にも共通しているものを感じる。

日本に儒教が伝わったのは仏教よりも早い。
5世紀初めには五経博士が渡日した際に伝わったという説がある。 
よって日本は仏教よりも儒教を目にすることが早かった。

儒教は倫理観やモラルを重視する傾向にあり、仏教は哲学に近いと考える。
韓国で基本とされる家族観は倫理やモラルとしての思想である。
かたや日本の家族観は基礎として儒教的な思想はあるものの、
時が経つにつれ、仏教という哲学が浸透し倫理やモラルといったものから
哲学、いわゆる感情や気持ちという不確実な思想へと変貌していった。

要するに、儒教では倫理や道徳として家族を大切にすることは人として全うすべき責任であるが昨今の日本では「家族を大事にしないなんて人でなし!」という感情論へ置き換わってしまった。
その点で言うと、韓国の家族観はある意味では合理的であると言える。

この映画では、家族ごと半地下、いわゆる貧困≒底辺として描かれており、その理由が父親が働いていない、働けないという状態である。
子どもがその状況から脱出できないのは家族を見捨てることができないという心情もあるだろう。
伝統や倫理観といったもののせいで、貧困状態を余儀なくされるのは
昨今の日本の「家族は大事」という感情論と結果を同じくしている。

・格差社会
韓国でも日本でも昨今では経済格差が社会問題になっている。
若者の就職難から失業率は増加しているそうだ。
しかし2024年現在では高齢者への雇用及び社会活動支援予算は前年比より増加していて緩やかな成長を記録している。

■貧乏だけど楽しい我が家

▼働かない?働けない?他者に寄生して生きる?

・父ギテクは<前身体>?
ギテクはカステラ屋や駐車係をしていたという描写があるが、長続きせず劇中では無職となっている。
前半においてはただの怠け者の父親として見受けられるが、ストーリーが進むにつれ性格がわかってくるとただの怠け者ではないのではという節がある。というのも彼はパク家の運転手として雇われることになった際、きちんとこなしているのだ。もっと言えば、息子のギウとギジョンは経歴を詐称し潜り込んではいるものの、父ギテクは経歴に関してはまったくの嘘というわけではないのだ。確かに運転手としての年数は盛った感があるが、実際に駐車係をしていたわけでまったく未経験というわけではない。
さらにパク家の主人、ドンイクは“度を越しそうで越さないところがいい”との印象である。要するに仕事ぶりは至って真面目なのだ。
しかしそこに隠すべき事由があることからしなくてもいいことやあえて度を越すような発言をしなければならない時がある。

父ギテクはもしかしたら〈前身体)なのかもしれない。
彼の仕事が長続きしないのは彼自身が怠け者だからではない。
何か生きづらさのようなものを感じているのかもしれない。
ギウが大学の偽造した証明書を“来年受かるから書類を先にもらっただけ”と言った際も割と喜んでいるように見える。
彼は、“仕事をしない父親、怠け者の父親”ではなく単純にこの時代に仕事に就けるスキルがない(時代的に時代遅れとなってしまった)に近い印象をうけるのだ。
彼は大学を出ておらずまともな職にありつけないからこそ、息子の“来年受かる”が希望に見えていたと考える。

・就職と失業
昨今、日本では就職難や就職氷河期という言葉をあまり耳にしなくなった。
というのは就職難や就職氷河期ではなくなったというわけではなく、
完全にそういう時代性を受け入れてしまったに過ぎない。
“大学に行っていな者、学歴のない者はまともな職には就けない”という暗黙のルールが定着してしまったように思う。
ここで言う“まともな職”とはいったい何であるのか?
社会貢献度か?人の命を救う職か?それとも業務に見合わない給料か?
正直これは判然としないのだ。個々によって違うとも言える。
これは“幸せ”の定義と似ていて、幅が広過ぎるのだ。
だからこそ、人は“大学さえ行っていれば死ぬことはないだろう”という
“とりあえず論”も盲信してしまう。

しかし、“とりあえず論”で大学に行けない者やそもそも必要性を感じない者にとってはかなり難しいルートになるというのが現実だろう。
整った環境があり、イージーなルートを辿れる者と荊の道を歩まざるを得ない者、そしてイージーなルートでは経験し得ないものを求めてあえて荊の道を選び挑戦する者との格差というか層の分断が顕著になってきていると考える。

地上で悠々と生きる者と、半地下で生きる者、そしてさらにその下である地下で生きる者との“経済的分断”“生存的分断”は日本も韓国もさほど変わらないのではないだろうか。

▼生きていくために

・パク家に寄生するギテク一家
ギウの家庭教師から始まり、母チュンスクまですべての家族がパク家に雇われることになる。
確かに就職先として問題ないだろう。
しかし私が思うのはこの家族はなぜこうも家族でいたがるのだろうか。
正直、ギウは普通に働けそうである。
劇中では家族でピザ屋のテイクアウト用の箱をつくる内職をしている描写があるが普通にバイトに出た方がよい気がする。
一応浪人生ではあるものの、勉強をしている描写はない。
結局のところ、前提として“父親が無職で稼ぎがないので大学へはいけません。浪人します。”という言い訳に聞こえてしまうのだ。

ギウは物腰が柔らかく、口もうまい。働き口はありそうなものだ。
彼がなぜ家族から離れ自身で身を立てようとしないのかはいささか疑問ではある。その理由として前述した韓国の家族観によるものかもしれない。
家族は見捨てることができない、という韓国の当たり前の思想によってギウは家族に縛られていたのかもしれない。

・他人の家で起こる『誰も知らない』—《半地下》と《地下》—
この映画には《地下》にいるもう一つの家族がいる。
追い出したはずの家政婦が戻ってきたのは地下に隠していた旦那を救うためだった。ここであきらかになる《半地下》の下にある《地下》の存在。
この《地下》はパク一家さえ知らない場所であった。
その誰も知らない地下に寄生しているのが元家政婦ムングァンの旦那オ・グンセである。
彼のセリフがとても印象的だったので紹介する。

“地下に住んでいる人は多い。半地下も入れたらもっと。
おれはここが楽なんだ。ここで生まれた気もするし、
結婚式もここで挙げた気がする。
おれは国民年金に該当しない。
老後は愛情で生きていくもんだ”

前半の“おれはここが楽なんだ”という言葉はおそらく大半の日本人でも感じることではないだろうか。
“さほど仕事は好きじゃないが月々ある程度の給料が入ってくる。
贅沢はできないが死にはしないし、少しの楽しみだってある。
だからおれはここ、この立場が楽なんだ”という振る舞いを世間ではよくみる。

《半地下》というものを劇中を見て私の家はここまで貧乏ではない、と思いたい人が多いだろう。しかし正直パク家ほどの家庭からだと一般的な家庭はすべて半地下に見えるだろう。
日本でも高所得者から見れば一般的に何なく生活できている人も《半地下の住人》なのだ。まさに学歴至上主義や見限ることができない家族観“経済的分断”と“生存的分断”によるものであると考える。

パク家の人間や日本で一定水準以上の生活をしている者にとっては
《半地下》も《地下》も変わらず、その中身については“誰も知らない”ことなのだ。

■パラサイト-半地下の家族-からみる“カゾク”の形

 やりたいことがあったら一生懸命勉強しなさいだとか、
何をやるにも金が必要だからまず一生懸命働きなさいなどが一般論である。
もちろんそれが正攻法である。しかし現代ではそれが度を越すところまでやらなければ実を結ぶことはない。
 将来のために、今やりたいことや欲しいものすべてを投げ打ったとしても、若干確率が上がるぐらいなものだ。しかしそれをやらないわけにはいかない。まったく思い描いた通りにはならないかもしれないが、食っていけるほどにはなる。そこで人は諦める。

 私は思うのだ。
確かに将来のためにたくさん勉強をして知識を深めることも、
種銭のためにとりあえず働いてお金を貯めるということも悪いとは言わない。しかしそれをやるために他のものを全て犠牲にしなければ得られない将来、というのは何かおかしいと感じる。

 ギウは父をはじめ家族を見捨てれば、もしかしたらもっと楽に生きていけるかもしれない。バイトでもして給料をもらいながら慎ましく暮らすこともできる。元パク家の豪邸なんか買わずに楽しいことをしたり、美味しいものを食べたり、旅行をしたりできるだろう。

 何をどれくらい犠牲にするかは、その本人の環境による。
裕福な家庭の子は捨てるものや諦めるものなどないだろう。
芳醇な資金のもと、パク家のように優秀な家庭教師を雇い、教育が受けられる。何か会社や事業を興すにも援助があるだろう。
しかし現実にそういった家庭はほんの上位数パーセントではないだろうか。
 ほとんどの人間は、例えば友達と遊ぶ時間を削って塾へ行くとか
仕事が終わった後、飲みの誘いを断り自宅で寝る間を惜しんで資格取得の勉強をするとか自分の時間や他者とのコミュニケーションを犠牲にする。
ある程度は仕方のないことだろう。自分の人生のためだ。自分の将来なのだ。何もしないまま、やりたい放題やりたいと言っているのではない。

 上位数パーセント以外の人間は、捨てるものが《自分》しかないのだ。
自分の時間、自分の趣味、自分のちょっとした贅沢、そういった日々の楽しみまでも犠牲にしろ、と社会はいう。
過度な学歴社会となった今では、普通の生活をしようにも必死なのだ。
『逆噴射家族』の正樹のようにノイローゼにもなる。
大人になって、社内の自分のデスクに座り自分が何を望んでいたかも
もう思い出せない。このデスクで一生を終えるのだ。

 最低限度の生活というものは食うものさえあればそれでいいのだろうか。
自分の将来を輝かしいものにするためには努力も犠牲も必要だ。
しかし、それも度を越すと心を壊し疲弊させる。
楽しいことをしたり、美味しいものを食べたり、たまには無駄遣いをしたり
美しいものを見たり、腹がよしれるほど笑ったり、つらくて泣いたり、
理不尽なことに憤慨したり、そういうことも人生には必要で、
そういうことを経験しないまま将来へ向かうことが正しいのか。

 <前身体>に該当する人間は、努力すらできない。努力できる環境がないのだ。例えばそれが家庭の経済状況で適切な教育を受けづらいといういうこともあるだろう。
もう一つは教育方針とか家風などに見られる《できるけどさせない・考えさせない》という風潮である。

  自分で調べればいいじゃないか、自分でなんとかすればいいじゃないか。
よく言われるのだが、それをさせないのが《カゾク》という制度である。
ギウが家族を見捨ててはいけないと思っているように、それを常識や当たり前の思想だと刷り込むことで子の行動を制限する。

  格差社会や学歴社会という過酷な時代ではあるが、それはあくまでも他者と比較するための要素でしかない。
雑な言い方をすれば、自身が幸せであると思えばそれでいいのだ。
あくまでも“自身で”思えば、である。
 政治や同調圧力によって“これが幸せだともんなが言っているから私もそういうことにしよう”ではなく自分で考え思考した結果の幸せを感じることが重要だと思うのだ。それを阻止したり邪魔したり、阻害したりするものが
《カゾク》であるならばそんなものはいらない。
《カゾク》という感情はいらない。ヒトという動物の幼体が成体となるまでの繭的な存在でもっとドライでいいと思う。

しかしそれではヒトは寂しさを感じてしまう。
誰かがそばにいてほしいときだってある。

 そんな時は、“野良猫の関係性”でその時々によってつくる《擬似家族》でもいいと思うのだ。


<次回:第四回 【レンタル家族・擬似家族】参考映画:紀子の食卓(2006)>


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