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【紀子の食卓】カゾクの形<第四回>レンタル家族

まえがき

【逆噴射家族】カゾクの形<第一回>家族間戦争

【誰も知らない】カゾクの形<第二回>家庭内で起こる誰も知らないこと

【パラサイト-半地下の家族-】カゾクの形<第三回>貧困家庭のサバイバル


■紀子の食卓(2006)

田舎で暮らす女子高生・島原紀子は進路のことで父と揉め、家出して東京へ向かう。彼女は「廃墟ドットコム」というインターネット掲示板で知りあった“上野駅54”ことクミコに会い、彼女と共にレンタル家族の仕事を始めることになるが…。

U-NEXT 映画【紀子の食卓】https://video.unext.jp/title/SID0045820

※この映画は同監督による「自殺サークル」の内容も含まれますが、この記事ではあくまでも「紀子の食卓」に焦点を置いております。「自殺サークル」の内容には気持ち程度しか触れておりませんが深く知りたい方は是非ご視聴ください。名作です。


■幸せな島原家

▼おめでたい両親

 父・徹三は地方紙の編集長である。大きな事件を扱うわけでなく地域のほのぼのとしたニュースを取材していた。優しいそうではあるもののどこか頼りなさげな印象を受ける。
 母・妙子は主婦であり、絵に覚えがあるらしくうまい。
しかしどこかおっとりしていてこちらも頼れる母という感じではない。

 この二人に至っては、“おめでたい”としかいいようがない。
なぜかというと、自分の家族が幸せだと思い込んでいるのだ。
徹三は仕事に精を出し、母がそれを支える。高校生の娘二人も素直に育っている、と思い込んでいるのだ。
 次女ユカが失踪する際残したノートに
“子供のことなど何一つわかってはいない”と書かれている。
徹三はそのことを身に染みて感じることになる。
母は家族写真を見ながら絵を描くのだが、その家族写真に映る二人の娘は笑顔ではない。しかし絵の方の娘たちは笑っているのだ。
母にはそう見えているのだ。
悪意や皮肉ではなく、妙子と徹三には本当にそう見えているのだ。

 さらに紀子が先に家出し、ユカまでもが家出をするのだが探し始めたり調べ始めたりの行動にかなりの時間がかかっている。
17歳と16歳の少女である。それが家出したということがはっきりわかる状態なのに1〜2ヶ月何もしなかった。
それはまず家出の理由がわからないことが一点、もう一つは数日そこらで帰ってくるだろうという甘い考え、極め付けは徹三はその間も編集長の仕事は続けているのだ。年頃の娘がいなくなったのに普通に仕事をしているのだ。年頃の娘がなぜかわからないけど家出したという事実を知られたくないといった心理が読み取れる。

 この両親はユカが書き残した通り、子供のことなど何一つわかっていないまま幸せという衣で多い隠し子供の心を見ないようにしていたのだ。

▼卑屈な姉と賢ぶる妹

長女・紀子は17歳。
“おっちょこちょい、意地っ張り、へそ曲がり、ただのガキ”というという自己分析をしている。田舎での生活に辟易し、都会へ出て友達を作りたいと思っている。

次女・ユカは少しマセていて、何事も達観したかのような物言いをする。
姉の紀子とは正反対の性格である。勝手なイメージではあるが、こういう人を世の中では“要領がいい”というのではないだろうか。

 さて、問題は紀子の方である。紀子は私が定義するところの<前身体>であると考える。それは『逆噴射家族』でいう勝国以外の家族と同一なのだ。
勝国のように、徹三と妙子は理想の家族像をそれがさも当たり前かのように、正しいかのように悪意なく押し付けているのだ。
 紀子は東京の大学へと進学したかった。しかし徹三は頑なに反対する。
理由はいとこ二人が大学在学中に妊娠したことで、女の子が東京へ行くと妊娠するといった思い込んでいるのだ。実際東京といとこ二人の妊娠はなんの因果関係もない。いとこ二人がただ節操がなかっただけの話だ。

 私が幼い頃に言われたゲーム脳のようなものだ。
私の両親が信じてやまなかったゲーム脳とは《命を粗末にする子供になる》というものだ。その一文だけを盲信した。ゲームと命の大切さにはなんの因果関係もない。

 紀子はその意味不明な理論で反対さている。もしこれが映画ではなく現実なら劇中の“廃墟ドットコム”のような掲示板やクミコといった人物と出会うことはごく稀である。
では現実ではどうなるのか。おしらく現実に紀子がいたなら父の言う通り
田舎で進学し地元企業に就職していたことだろう。
心にずっと東京を思い描きながら。
東京へ行けた自分、東京で勉強している自分、東京で働いている自分と今の自分を見比べてさもしい気持ちを一生抱えて生きるのだ。

いや、生きればまだいい。もしかすると何か凶悪な犯罪だって起こすかもしれない。人間が抱える鬱屈した感情は消えることはなく日に日に大きくなるものだからだ。それはいつ爆発してもおかしくはない、ということを
社会は知っているはずだ。
そういういくつかの事件を、社会は知っているはずだ。

■“みかんちゃん”というリアル

紀子の食卓より:二人の間に映る“みかんちゃん”

▼この映画で一番堅実に生きているみかんちゃん

紀子とユカが下校していると一人の女の子が声をかけてくる。
“みかんちゃん”と呼ばれている。明るく気さくな女の子だ。
中学を卒業し、職を転々として今はイメクラで働いていた。

 一般的には、若くで風俗で働いてるとなれば何かのっぴきならない事情があったりしたのか、やもすればかわいそうなんて思うのだろうが実際は違う。統計などはとってはいないので私の肌感として、
風俗店などの女の子に聞くと割と自ら進んでそっちの世界に入る人も多い気がする。

※昨今では無理矢理アダルトビデオへ出演させられるという事件が起こっている。上記は私の肌感であり、すべての人が風俗店やAVへの出演を進んで了承しているということではない。無理矢理な人や、やむを得ずな人もいることは百も承知である。それは権利の侵害であり、あってはならないことであることはここに明記しておく。

 推測の域を出ないが、みかんちゃんは自ら進んでその道を選んだのではないだろうか。地元のイメクラでささやかに楽しく暮らすみかんちゃんは、
適当な会社に入社し結婚までをのらりくらりこなす女の子よりも
ハードボイルドかつ、堅実かもしれない。
みかんちゃんに会った紀子は“幸せそうだった”と言っている。
みかんちゃんが社会に出て働いていることがショックだったとも。
さらに“自分たちはこれでいいのか”という疑問が浮かんでいる。

 要するに、紀子はみかんちゃんが自分で道を選んだことに嫉妬や憧れを抱き、自分が<前身体>であることに気がついたのだ。
紀子は学校のPCを活用できるよう尽力し成功したが、それでは飽きたらなかった。なぜなら学校という箱庭の中だからだ。
みかんちゃんは社会という大きな世界で戦っている。
そのことに紀子は大きなショックを受けていた。
紀子は何も自分で成し遂げてないことが嫌で、自分で決められないことが嫌だったのだ。だからこそこんな田舎でなく、東京へ行きたかったのだ。
しかし社会で戦うみかんちゃんは、地元のイメクラで働いているということは紀子は考えないようにしていたのかもしれない。
あれだけ幸せそうなら地元でもいいじゃないか、と反論されるのが怖かったのかもしれない。

▼妹は要領がいいわけではなかった

 ユカはみかんちゃんにあった後の帰り道、紀子に“彼女は風俗嬢”と吐き捨て、さらに紀子に“大人になりなさい”という進言まがいのことまで言っている。紀子は進学の件で徹三とは意見が合わないままで、わだかまりがあるのだがユカは徹三とも妙子ともうまくやっている。
 一見すると両親の側からの意見が多いが、その実はうまく使ってやろうとか賢ぶっておこうとかそういう魂胆が見え隠れする。

 紀子と徹三は大きく意見が違い、紀子は徹三に真っ向勝負を挑んだ。
しかし理想の家族であるという前提を持つ徹三には紀子の意見が意見ではなく、ただのガキの戯言にしか聞こえていない。だから紀子が真剣な眼差しで東京行きを懇願するも、みかんを食べながら軽く返答している。
ユカはことの成り行き次第で自分の進学の際の戦略を練ろうとしているのかもしれない。

■クミコとレンタル家族

▼《前身体》と《亜種》の進化

・《前身体》と《亜種》

 《前身体》とは環境によって生きづらさを感じるが各種支援等の要件を満たすことが難しい。その生きづらさは認知されない。
第一回の《逆噴射家族》では父・勝国が《前身体》であると定義した。
《前身体》の原因となるのは毒親による洗脳や過干渉といった子の人間性や行動を極端に規制・抑制することである。
《逆噴射家族》では勝国の父・寿国が念願のマイホームに侵入したことによってすべての歯車が狂い始めた。

《前身体》となるのは家族間だけではない。
第二回《パラサイト-半地下の家族-》では学歴や職歴によって父ギテクが働かないことによって貧困を余儀なくされた家族が辿る末路がテーマであった。大きく見れば国家と国民も家族のような関係性なのかもしれない。

《前身体》とは誰かや何かが個人に対して行う極端な規制や抑制が元となり生まれるタイプであると考える。

さらに《亜種》とは前身体が過干渉や規制や抑制によって引き起こされるのに対し、無関心から生まれる。
支援を受ける要件は満たすが、支援を受けようとすると他の事情に不具合が起こるもの。プライバシーの問題や社会の事なかれ主義・ネグレクトなど存在ごと不明瞭にされてしまうタイプである。

第二回の《誰も知らない》で描かれた無戸籍児たちや今回のクミコのようなコインロッカーベイビーなどである。

・《前身体》と《亜種》の進化

《前身体》と《亜種》は成長するにつれ、時間が経つにつれまったく別のものへと進化する。
《前身体》は過干渉により生活スキルや思考の抑制・行動の規制によって
一般的な層よりもできることや知っていることに偏りが出る。
これを世の中では“社会不適合者”とよぶ。

《亜種》は無関心・不認知によって他者との関係が著しく少なく他者についての共感や理解を示しづらい。さらに自身の世界しか見たことがないため
他者と世界の相違(正義や善悪)が極端である場合がある。
総じてこれを世の中では“サイコパス”や“ソシオパス”とよぶ。
犯罪行為や他者を傷つけることでも自身が思う正しさや楽しさおもしろさを
物理的に行使してしまう場合がある。

▼進化した<前身体>と<亜種>の出会い

 紀子の家出は《逆噴射家族》で勝国が居間に穴を開けたことと類似する。
家族の距離感を壊すための家出なのだ。
現実はうまくはいかない。なにかの犯罪に巻き込まれたり、
警察に保護されたりお金が続かずおめおめと帰宅することになるのがオチだ。しかしこれはあくまでも映画なのでストーリーは展開する。

 クミコという《亜種》の登場である。彼女はコインロッカーに捨てられていた。第二回で記した『誰も知らない』の無戸籍児と同じカテゴリーだと考える。《誰も知らない》の子供たちは同居はしていないが父親が存在し、
兄弟がどの父親かを知っているような描写があった。片やコインロッカベイビーは生まれたすぐにコインロッカーに捨てられているので両親を知らない。
(のちにクミコの元に両親だと名乗る夫婦が現れる描写があるが、その時すでにクミコはレンタル家族事業をやっていた)

 《亜種》は自身の出生の時点で他者や社会から認知をされていない。
《誰も知らない》の子供たちは出生届も提出されないまま部屋に監禁状態であったことから、支援や対処どころか人目に触れる機会さえなかった。
クミコはコインロッカーで発見された時には、さまざまな対処がなされたからこそあの年齢まで生きながらえた。
しかしクミコの中では、本当は自分自身がいったいどこの誰なのかがわからないといった出生に対しての謎と捨てられたという憤りはあっただろう。
その謎と憤りに対しての対処は誰にもできない。このわだかまりはいつまでも(もしクミコがまともな人生を歩んでいたなら)クミコを一生苦しめるだろう。

 だからこそ《擬似家族》を派遣するといった事業を営んでいるのだと考える。事業とは言え生業とは言えない。クミコの中には出生時にすでに大きな穴が開いていたと考える。

 紀子という《前身体》とクミコという《亜種》が出会い、パワーの強い《亜種》クミコが《前身体》である紀子を飲み込んだ。
妹ユカが紀子に再会した際、紀子は廃人のようになっていた。
役を演じる必要がないからだ、とクミコは言う。

《前身体》である紀子はクミコと違い、他者からの認識も社会からの認識はあった。高校のパソコンの利用方法を親身になって改革したり(自分のためであったが)小学校の同級生であるみかんちゃんからも声をかけられている。しかしクミコの人生は凄まじくつらいものではなかったのだろうか。
そのある意味で生きることさえ疑問に思うほどの深い闇がそこにはあったのではないか。

《亜種》と《前身体》は似て非なるものであり、《亜種》が社会に対して悪だと受け取られる思想を持ったまま生きながらえると手が付けられないものへと変貌するのかもしれない。

▼野良猫の生き方

クミコの考え方が色濃く出ているセリフがある。

“野良猫はあったその日に家族を決める。野良猫はなんの取り決めもしない。(中略)野良猫の関係性でしか人間の関係なんて成立しない”

紀子の食卓:クミコの台詞

あったその日に家族を決めるとはまさしく《擬似家族》の作成方法だ。
なんの取り決めもないとは、おそらく家庭内の《掟》のようなものではないだろうか。
例えば“ゲーム脳になるからゲーム機は買わない”や“女の子が東京へ行くと妊娠する”といった家庭内での《掟》に近い取り決めではないか。

野良猫の関係性でしか人間の関係は成立しない、要するに
家族というものは固定されたメンバーではなく、その日その日で変わるべきであり、さらにそこになんの《掟》、家風や教育方針もない。あっても意味をなさない。限られた時間の中でしか家族ではないからだ。

 これが《亜種》としての考え方だ。家族という言葉に心情や感情が一切入っていない。生きる術としての家族であるという認識に近いと考える。

 紀子はクミコと出会った日、数件の客の家に同伴することになる。
高齢の女性宅を周り、家族のフリをする。しかし紀子にはその擬似家族が本物の家族の幸せに見えたのだ。
虚構のものの中に本物の幸せを見たのだ。自身の家族は本物の家族であるのに、意味不明な理論を展開し自分の進路を妨げようとする父と何にでも父の味方をする母、そして要領よく立ち回ろうとする妹しかおらず自分のことなんて何一つわかってはいない。
紀子は本物の家族に幸せは見出してはいなかった。
紀子の家族の幸せは母が描く絵の中で全てが証明されている。
本物の家族四人がにっこりと幸せそうに笑っている。

偽物の方が、本物よりも幸せそうだった。
紀子の中にも野良猫の生き方がインストールされた瞬間だった。

■『紀子の食卓』からみる“カゾクの形”

▼“あなたはあなたの関係者ですか?”

“あなたとあなたの関係は、わかりますか?
あなたとわたしの関係は、わかります。
あなたとあなたの奥さんとの関係、わかります。
あなたとあなたのお子さんとの関係、わかります。
では、あなたとあなたの関係は?
今、あなたが死んでも、あなたと関係ありますか?
今、あなたが死んでも、あなたとあなたの奥さんとの関係は消えません。
あなたとあなたのお子さんとの関係も消えません。
今、あなたが死んで、あなたとあなたの関係は消えますか?
あなたは生き残りますか?
あなたはあなたの関係者ですか?”

自殺サークルより引用

これは姉妹作品である【自殺サークル】でのセリフである。
抽象的で捉え所のないセリフであるが、これをどう捉えるかは
観た人によるだろう。

私はこのセリフは呪いの言葉にしか聞こえないのだ。

自分と自分の関係でさえ社会は《家族》という関係を消してはくれない。

“今、あなたが死んでも、あなたとあなたの奥さんとの関係は消えません。
あなたとあなたのお子さんとの関係も消えません。”

どれだけ偽物の家族をつくろうとも、元の家族の関係は消えない。
現行の社会システムでは《血筋》を一貫して貫く姿勢である。
勝手にメンバーを集めて創った《家族》は偽物であり《擬似家族》にすぎないのだ。

擬似家族だろうと、子供だけの生活であろうと飯が食えて生きて生きていければ上等だ。《家族》というやもすれば個人を殺してしまうような制度なんて犬の糞と一緒に捨ててやればいい。

《前身体》も《亜種》も、その進化、いや成れの果ての人間も生きていくのだ。“普通”になんて生きてはいけない。人より疲弊し、摩耗、消耗しながら社会という監獄を生きていくのだ。
さまざまな逆境や荒波、理不尽に耐え自分を失うことなく、曲げることなく
自信を持って歩めばいい。

ただ唯一、その監獄から脱獄できる希望がある。
それは【答え】を見つけることだ。
抽象的で、捉え所のない問いに自分なりの答えをだすことが監獄からの解放の鍵であると考える。

では、あえて問うことにしよう。
社会という監獄で生きづらさを抱える社会不適合者とそれに準ずる者たちへ
あえて問うことにしよう。

“あなたはあなたの関係者ですか?”


<次回:あとがき>

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