デイヴィット・ホックニーの炎
朝、日曜美術館を見ていたらデイヴィットホックニーという人の特集をしていて、いい絵だなと思った。いい絵だなと思っていたらその人の絵はどんどん変化してしまって、ピカソのキュビズムみたいになっていって、それより端正な人物画の方が素敵だったのにと思った。けど、その人はひたすらに、絵画の中の世界と鑑賞者がいる現実の世界を結びつけたがっていて、そのために絵はどんどん変化していく。
つまり、その人にとって絵は思想で、形への執着はさほどないのだと思った。あんなにうまく描けるのに、それを封じてめちゃくちゃな遠近法の絵を描くなんて、自分が惜しくないのか、と思ってしまう。
そのくせ、「人は人生に意味を求めている。イメージはその探求に役立つ。ありきたりな風景の、陰影の一つでも、美しさに心を打たれるならば、それは重要なことだ」というようなことを言う。
これは思想ではない。感覚だ。
いいな、と思うものをラフスケッチするみたいに、文章を書くのでもいいんだなと思い立つ。それは思想なんて高尚なものではなくて、目の前の具体的なものと、美しいと感じる自分の心との関係性を取り出して見ること。ホックニーの代表作も、とてつもなく大きな大作も、結局は本気で取り組んだ習作かもしれない。形がめちゃくちゃでも、支離滅裂でも、臆することはない。
そのように、ホックニーから炎をもらった。
花火やタバコや聖火の火を分けてもらうみたいに。
私の今日スケッチしたいものは、子どもの笑顔だ。
心から笑っているわけではない。
顔をくしゃくしゃにして「私は笑っている」と言う記号を貼り付けたような笑顔だ。子どもなりに作り上げた一つの処世だが、私はなぜか、あの笑顔に泣きそうになる。子どもはあれを、自分が笑いたいからではなく、相手に笑って欲しくてやる。あの顔で「かぁか笑って?」と言う。笑えと言われて出てくるような笑いは、大して意味のあるものではない、ということをまだ知らぬ子どもの、未完成なやり方が愛らしく、また見てくれやうまさや意味や道理やなんやかやに関係なく、笑って欲しいから笑って、と言う。というこれ以上ない真っ直ぐさに打たれてしまう。
私が笑うと、子供は嬉しい。
ただそれだけのことが、かけがえのないことだと思う。