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ポストヒューマニティーズとはなんぞや②

ポストヒューマニティーズとは

「人間中心主義を脱し、人間なき世界を思考する」

らしいのだが、まずこの「人間中心主義」とはなんなんでしょうか。wikipediaで調べてみると、

「自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念」

って書いてある。これで思い出したことがあったので、正しいかどうかはさておき個人的なメモ書きも兼ねて書いておこうと思う。

動物が絶滅したらなぜいけないんだろう。と思ったことがある。創作の資料か何かで、生物多様性についての本を読んでいた時に、生物は多様であればあるほどいい、つまり生物たちがバラエティに富んでいることは素晴らしい、という前提がその本にはあった。まあ確かにわかる気もする。

例えば太陽光。空から大地に向かって降り注ぐ太陽光を、まずは高い木が享受する。そのあと中くらいの高さの植物、下生えの草木、きのこ、なんていう風に、いろんな植物が共存しあっていることで、エネルギー効率が良くなる。
「全員高い木」だったら太陽光を浴びるタイミングがバッティングしまくる訳で、そうすると木の量を減らさざるを得ない。いろんな高さの植物が共存しあうことで、同じ太陽光の量で育つことが出来る植物の数が増え、動物たちにとってもエサが増える。ということが動物も増え、多種多様になるわけで、なんか色々豊かになるからいいこと!
なるほど、納得できそうな雰囲気はある。でも、その「豊か」ってなんだ、と疑問が生まれるのも事実。「豊か」、というのは大抵何かの言語化を断念してふわっとまとめたい時に多用される感じがしてつい警戒心を抱いてしまう言葉なので、疑ってごめんね、と言いたいところだが、今回は本当にふんわりまとめたね?!と指を差したい。

植物や動物が、「なんか豊か」な生育環境を本能的に選んで、多種多様を喜ぶのはわかる。でも、人間がやってきて、やれ死にそうなやつには手を貸し、やれ外来種だ撲滅せよ、と騒ぎ出すのはなんなのか。
その「死にそうなやつ」や「外来種」が出てきてしまったのは人間のせいだから、というのはあるのかもしれない。尻拭いのために自然に介入するのだ。でも、人間が自然を壊した責任を取るために自然に手を貸しているというのはちょっと、巷では聞いたことがない気がする。綺麗事感がすっごいからかもしれない。なぜこんなに綺麗事感が出るのかというと、全力で伐採しながら、責任をとります!と言われている感じがするのと、介入すれば元に戻るという発想が傲慢ぽいから? 他にもなんか色々ある気がするが、それはさておき、自然に介入して、それが元に戻るってことは100パーセント不可能だ。介入しようがしなかろうが、「元に戻る」ことはない。

こんな私でも、川沿いの土手道を歩いていて、今年もタンポポが咲いている…去年もこんな風にタンポポが咲き誇ったわね、なあんて花に対して感想を持つことがたまにはある。だがしかし、去年からずーーっと咲いているタンポポはないわけで、100年後に今いる人間は誰も生きていない、ということと同じように、タンポポだって去年と同じタンポポは一輪としてないのである。もうその時点で、「元に戻る」というのはあり得ない。一度壊した原生林が、もう二度と原生林には戻れないように。

生物多様性がある一方で、自然淘汰、という言葉もあって、強ければ生き、弱ければ死ぬ。な世界があることも事実。それを人間が手を入れて、色々と介入していって、最終的に絶滅を免れて、「わあ豊か」っていうのはそれはちょっと、ねえ。「今年もタンポポ咲いて綺麗」と同じくらいアホ無邪気というか、自分本位ではなかろうか。

そう、それだ。その自分本位、な感じが、「人間中心主義」ってやつなんじゃないか。

と適当なことを思いつくままにやたらめったら書いた。
それが本当に「人間中心主義」の的に、少しでも掠めているのかどうかは、全くわからない。

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高梨ぽこ
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