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桜の季節

この季節になると、まるで生き急ぐ人のように、今日も桜を見なきゃと思ってしまう。
山桜を見ると。公園や川縁や家々の、そこらへん中に咲き誇る桜を見ると。
早く見ないと散ってしまう、今日も見ないともったいない・・・
ほとんど強迫観念のようだ。
ゆっくりと、なんとなくみて、そして、ああ、春だな、今年も咲いたな、ありがとう、などといって風流に楽しみたいのに。

これはいったいどういうことか?

突き詰めていくと、数年前に、実家の50歳くらいのソメイヨシノの大木を、枯れ葉が近所迷惑になって嫌がらせをされるのではないか、という姉の被害妄想のためにいよいよ切ってしまって、一種の安心感をなくしてしまったことにあるのかもしれない。いつでもそこにいけば桜があるし、何日でも見られる、受け入れてくれて、帰る場所がある、というその安心感を、実家の桜は与えていてくれた。春になれば見事な大ぶりの花を咲かせて、私たちの心を和ませてくれていたあの大木。なくなってやっと気づく。いつもそこにいた人やあったものを失うと、波紋が心の中に広がっていく。

それから私は流浪の民となって、他の場所の桜を見かけると、羨望のような、焦りのような、なんともいえない気持ちになるのだ。

それは帰るべき家族を持たない人が、いつも友人やSNSでのつながりを求めて浮遊して、そして決して満たされないのと同じかもしれない。

それが人間でなくても、土や草木や動物でも、何か生きているものと触れていないと、人は心の落ち着きを失う。

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