個人的な文明の崩壊と再生
母が認知症の果てに亡くなり、人間の文明とか文化っていったん何なんだろう、とここ1〜2年、思ってきた。
根本的に。根元的に。
勉強したり、仕事したり、お金を貯めたり、おいしい素敵な料理を食べたり、おしゃれしたり、インテリアを飾ったり、映画を作ったり、見たり。
外国語やピアノやお茶を習ったり、乗馬したり、SNSしたり、ヨガしたり。そういう一般市民的な日常だけでなく、政治や経済活動や戦争や、人間が行うすべての活動。
それらの活動は基本的にすべて、知的生命体である私たち人間が、何千年もの文明を築き上げた末、今、最先端のところにいて、日々行っているわけだ。
でも、私は経験してしまったのだ。あれだけ知的活動をしていた母が認知症になり人間らしい行動ができなくなっていくのを。それが本人にとっても、何の意味もないものになっていくのを。
その激変を経験すると、生きるって何だろう?人間らしいってどういうことだろう?そもそも、それは大事なことなのだろうか?当たり前のように私たちは生まれた時から社会の中で生きるために、そういったいろんな活動を疑いもせずに行い、自己実現とやらを目指して生き、結婚し家族を作り、その集合体の中で生きて、死ぬ。そういうことのすべてが、母の認知症に1年ほどつきあうと、なんというか、虚しいようなバカバカしいような、空虚な気持ちに、ここ1〜2年、なっていた。
今でも、そういう気持ちはどこかにあって、完全には払拭できない。
とはいえ、同じ食材を食べるのでも、おいしく食べられる調理、おいしそうな盛り付けに、「わざわざ工夫する」喜びや楽しみを見出し、例えば、お茶のややこしい作法をすっ飛ばして、ただ緑茶という物質のカフェインを摂取すればいいのではなく、その作法をなぜそんな「ややこしい」ことをするのか、一つ一つに人々の培ってきた伝統を感じ、美を感じながら行う、その時間を味わうことが人間の喜びなのだな、その時間は「ややこしい」とは対極にあるものだと再確認できるまでに、私の精神は回復しつつある。
愛する人が、人間らしさを失い、食べ、排泄する生き物になる過程を見てきたからこそ、人間らしさを根本から消去されたような気持ちになって、ただなげやりに空虚になっていたし、何もおもしろくないし、すべてに意味がないような虚無感に囚われていた。
でも、それは例えば体が弱っていても、生命力があればいつのまにか治癒していくように、精神が弱っていても、その心のはたらきは、再び生き返ることができるのだと思う。
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