僕らが大事にすべきは「気持ち良さ」である
″その「体験」にお金を払う価値があるか?″
当たり前のことでも、人によって、タイミングによって、刺さる言葉が違う。
3週間の大阪出張の帰りに何気なくTwitterを見ているとみる兄さんが書いた記事が目に飛び込んできた。
バルミューダの製品は持っていない。
しかし、以前から気になっている。
だが、手を出せていない。
一人暮らしの男にとって、決してホイホイ買える商品ではない。
それでも、同世代でも日々の朝食を有意義に、空間を快適に、と購入している人も多いだろう。
読み終えると書きたいことが湧いてきた。
そして、感じたのは、僕らが大事にすべきはやっぱり「気持ち良さ」ではないかということだ。
僕たち飲食店でなぜ「気持ち良さ」が大事なのか
それは、まさにコモディティ化する社会の中で、選ばれるための理由はそこにあると思うからだ。
堅物な親父の絶品ラーメンが行列を作る。
こだわり抜いた空間、料理でワインを飲むことを提供すると決めたレストランがアルコールが飲めないというお客さんにはあからさまに嫌悪感を表に出してお帰りを願うという。
貫いたスタイルが生む″体験″
とうぜん、物議を醸すだろう。
しかし、あえて排他的な空間だからこそ圧倒的な居心地の良さもあるのだと思う。
そんな中、僕たちが掲げている幸せの分母を増やすというモットーは、たくさんの人に美味しいで笑顔を届けるということである。
それには、″不快″という感情は言語道断だ。
しかし、3週間の関西出張を振り返ってみても、これほど難しいことはないと実感したし、現実はそう簡単ではない。
でも、目指すことで見えるものもある。
もはや、美味しいは当たり前なのだ。
飲食店はそこの勝負ではない。
それに加えて、どんな体験を提供できるかが勝敗を分ける。
お客様に選ばれるということは、勝ったのだ。
では、何を提供するのか。
それが「気持ち良さ」である。
そもそも、僕たちが大事にしている美味しいの中に気持ち良いという指標がある。
オーナーシェフである鳥羽は、何かを口にして「気持ち良いね」と言う。
意図的にしょっぱく作ったお皿の中に、シャインマスカットを忍ばせる。そのみずみずしさとやわらかな甘酸っぱさ。
奈良にあるすき焼き屋では、すき焼きを食べた後に良く冷やしたドライトマト出汁のそうめんを提供する。
この会社で、美味しいの中にある「気持ち良い」を知ってから人生における感動の機会が増えた。
それこそが、sioらしさでもあると思う。
「気持ち良さ」は五感すべてで感じるもの
いくら美味しくても、待たされた料理は気持ち良くない。
いくら美味しくても、サービスの元気がなければ気持ち良くない。
美味しいは当たり前でありたい。
そして、その先にある「気持ち良さ」を提供してこそ、お客様に選ばれるのではないだろうか。
そんなことを考えながら帰路につく。
日常にある「気持ち良さ」をどれだけ拾えるか
狭い通路を通る時、人に譲ってもらった。
隣に座る人が先に席を立つ際に、一言声をかけてくれた。
何かを伝えるときにも、思ったことをそのまま伝えるのでは不快が生まれる。
最大限の配慮がされてもなお、気持ち良くないかもしれない。
でも、その″トライアンドエラーをしているかどうか″こそが、自らの目盛りを鍛えてくれるのだと思う。
それが、メニューを見ているお客様への声かけにつながるし、お冷やがないテーブルにすぐに気付けるかにつながる。
ふと、目が合った。
逸らさずに笑いかけられているか?
目の前の仲間が悩んでいる。
ただただ話を聞くだけなのか、なにかヒントが欲しいのか。
人に応じて求められていることは違うだろう。
でも、何を求めているかは判ることはない。
人間関係と違って、飲食店で提供できる「気持ち良さ」は、そんなに難しい問題ではないと思う。
当たり前に求められることが、よどみなくきれいに流れていく。
そういうイメージ。
美味しいを超えた「気持ち良さ」を突き詰めること自体が、僕ららしさの根幹なのかもしれない。
それこそが、幸せの分母を増やす第一歩だ。