「結果」と同じくらい「苦労」を評価する
うちの会社は結果ばかりを評価する傾向がある。
結果がすべて。
いかに部下に仕事をさせて、結果をださせるか。
先日、こんなことがあった。
上司の指示で、私は疲労困憊の身体に鞭打って、苦労して資料を作成した。
期限が迫っているものだったので、あまり満足できる資料ではなかったが、時間とフィードバックの時間を考慮して、早めに上司に提出した。
上司はそのあと、それをベースに資料をブラッシュアップし、資料は完成した。
上司はその資料を、さらに上層部に見せた。
上層部からは「よくできた資料だ」と評価してもらったそうだ。
その話を上司から聞かされたとき、素直に喜べなかった。
私一人で作り上げたわけではないから、心から喜べなかったのだ。
部下も、上司も、それなりに苦心して作ったものだから、私一人が喜ぶべきものではない、そう思ったのだ。
後から考えると、こういう時は結果だけでなく、苦労を労ったり、評価したほうがよいのではないか?
毎日遅くまで残って仕事して、心身ボロボロになって働いている。
そんななかで、短納期の仕事をやり遂げたこと。
そこを評価しないと、上っ面だけの評価になってしまうのではないか。
そこを評価しないということは、上司はプロセスに不満足なのか、と自信を喪失することになりかねない。
もっとちゃんとしたもの作ってこい。こんなものしか作れないのか。
仕方ないな、俺が作るか。使えない奴らだ。
極論、こんな考えに至ってしまうかもしれない。
心理的負担を労うこと。
これって、とても大切なことじゃないか?
結果を評価するのは簡単だけど、心理的負担を労うことは容易くない。
私が以前お世話になった上司に、こういうのが上手な人がいた。
ポンコツな資料を出しても、にこりと笑って「ここまで大変だったでしょう。お疲れ様」と。
そのあと手厳しいフィードバックがあったのだが、不思議とすんなり受け入れられた。
ああ、そうか、私は「苦労」を評価してほしかったのだ。
結果を評価されても、みんなで作り上げたものだから、自分への評価として捉えにくい。
個人個人の苦労を労うことができる、ということは部下の仕事を理解しているということだ。
自分自身が経験し、相手と自分の力量の差を理解していないと、労うことはできない。
経験のない労いは「ペラペラ」な発言になり、嘘くさくなるし。
相手と自分の力量の差を理解していない、ということは、労うという発想にならない。「このくらい出来て当然でしょ?」となる。
別の話になるが、先日、往復5時間の日帰り出張があった。
連日の残業続きで、ヘロヘロな状態で出張した。
朝6時に自宅を出発した時点で体調が思わしくなく、頭痛がしたり、変な汗をかいたり、お腹痛くなったり…
そのまま自宅に帰りたかったが、上司から「戻ってこい」という無言の圧力があって、職場に戻ることになった。
戻ると別件対応が発生し、体調の悪さもあって仕事は思うように進まず、上司に出張の報告ができないままだった。
上司からはなんの労いもないまま、上司は退勤してしまった。
たった一言「今日は一日大変だったね。お疲れ様」という労いがあれば、がんばってよかったな、と思えたかもしれない。
相手の気持ちに歩み寄る余裕を。
たったそれだけで、社畜は少しだけ前向きに生きられるんじゃないかと思う
そんな今日この頃。