【日曜興奮更新】ずっと先まで歩こう
「ねぇ、聞こえる?」
壁に耳をつけ、寝ている彼に確認する。大きな、低い寝息が隣の部屋から聞こえてくる。
「獣みたいだね、鼓動まで聞こえてきそうで」
私たちは最近、壁の薄い部屋で同棲を始めたのだ。
学生ってなんていいんだろう。時間がある。未来を見据えて行動が出来る。困っても誰かが助けてくれるでしょう。助けてくれないと言っているうちは、学生になりきれていない。
地元の役場で働いてコピーを千部取っている間、ずっと学生に戻りたいと思っていた。上京して、それが叶い、いま好きな男と暮らすというところまできた。安心な囲いの中で悩めて、自分の才能をじっと見つめることを許されている。
彼はセックスが下手だけれど、一緒にいたい。趣味も違うし、価値観も違う。でも、私と一緒にいることを選んでくれた、そこにこそ価値がある。
また、夜が来た。
「今日も歩こうか」
家の近くに長く美しい川がある。いつも引っ越し先の近くには川があって、この土地とも不思議と縁を感じた。2人の時間を大切にしよう、ということで週に数回深夜に歩くことにしていた。川沿いの街灯は少なく、月明かりでの歩みとなる。
「まぁそういうこともあるよ。大丈夫だよ、次はなんとかなるよ」
「なんで俺だけクビなの」
私が勤めているカフェのバイト先で、彼はすぐにクビになってしまったのだ。バックヤードで「今日、何時上がり?」と聞いて、先に上がった方が神保町のカフェで読書をしながら待つということがこの2週間の楽しみだった。
店長は、彼の不器用さに困っていた。数分の行動のずれが、あとあと大きなミスに繋がっていった。そんな姿を見ながらラッシーを作って、テキパキとお客をさばいた私は褒められていた。
「合う職場と、そうじゃないところってあるじゃん。今回たまたまだよ」
「たまたまって。俺、うまくやってたと思うんだよね」
排除された人の気持ちって、今は分からない。第一、彼はバイトしなくて貯金がたっぷりあるし大丈夫なのだ。地面に落ちている石を拾って、左手の中で転がした。
「なんでお前だけ、いつもうまくいってるんだろう」
歩く速度を早めて先に行ってしまう男の背中を叩いた。左手の中の石ころを強く握って、溜まっていた思いが出ていく。
「うまくなんかいってないよ。どうしてすぐそういこと言うの。君は東京出身で友達も多いでしょ。私はいないんだよ。しょうもないことで不幸ぶるのやめなよ」
「しょうもないって言っちゃった?」
「だって君はこの前、東大生の同級生3人を家に連れてきて、夜にクイズ大会やってたでしょ。そして勝ってたでしょ。私、君は頭いいんだって思ったよ。人に勝ってるポイント、たくさんあるでしょう」
「あんなクイズ大会で勝っても、勝ちには入らないんだよ」
東大生がスミノフを飲みながら負けて悔しがっているシーンが頭に焼き付いていた。男を褒めるとき、慰めるとき、こういうことを引っ張ったらいいと思っていた。どうやら、より深く傷ついたようでもう言葉が出ない。
川を泳ぐ鴨が先頭の列から一匹はぐれている。鴨の中にも劣等感というのはあるのだろうか。人間のこういうゴールのない闇に触れるのは、本当に疲れてしまう。
「私、あと数年後に死んじゃおうかなって思っている。だから今は頑張ろうって思ってる」
好きな人の芯がブレているのを見ると、昔から生きる気力がなくなる。
「それは結論を急ぎすぎなんじゃないの。ていうか俺たち同棲始めたばかりじゃん」
この男の前で死をちらつかせると急に目が輝くことは、お付き合いの一年間で学んだ。
すっかり気を良くした彼は手を繋いできて、「今夜、いい話し合いができた」という顔をしていた。なにこれ、と握っていた石は川に投げられ、折り返しのターンを決めて家に帰ることになった。あの石は短時間の間だけど、この関係性を見守るお守りのように働いていた。
自分が絶好調な時、悲しむ人が居る。
「明日も歩こうか。お前を励ますと俺も元気でるんだよね」
どの口がいう。早く服を脱いで抱き合って言葉を交わさないコミュニケーションをしていきたい。
「この川って、どこに繋がっているんだろう」
いつも1キロしか歩かないので、ここから先が気になっていた。
「分からないけど、すごく遠くまで繋がってるらしいね」
「上流には、ここにはいない生き物もいるんだろうね」
「うん。でも、そんなこと考えてもしょうがないよ。あ、そうだ。俺、音楽やろうかな」
「いいね、音楽。大体の人が好きだし」
冷えた身体、さすると少しは暖かい。薄く潰れたシングルの敷布団に2人で丸まって寝る。彼の伸びたえりあしの毛を触ると、なぜだか落ち着くな。
今夜も隣の部屋からは、大きないびきが聞こえている。安心して寝ている、そういう想像も出来てしまうような音だった。私だってそうなりたい。
「ねぇ、私さ、将来君の子を産んじゃおうかな」
「えー、いいけど。まだその時、俺たちってラブラブかな」
「お互いに活躍して忙しくて、それどころじゃないかもね」
「そしたらどうしようかな。また歩いて、鼓動を早くして、それが恋のドキドキってことにしてみようか」
「ドキドキは作れるのかな。その前に子どもを作らないとだね」
「今から作ろうか」
彼は枕元にあるコンドームの箱に手を伸ばして、慣れた手つきで端から急いで破いた。
それだと出来ないよ、という言葉はしまっておこう。夜が深まると横の部屋の寝息は激しくなり、大きな赤ちゃんがいるような胎動に感じて心臓が痛くなってきた。
現実は理想とリンクせず、頭の中での想像は膨らむばかりで、これこそ贅沢な、待ち望んでいた不足感と思ったのです。
彼よりも先に私は歩いてしまおう。なるべく先に先に。そして、バカなふりして待っていて頑張ったねと出迎えてあげよう。そしたらきっと、またすばらしい不足感が来るだろう。