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駅伝と祖母

今から11年前の1月。

祖母が救急車で病院に搬送されたと、父親から電話があった。

年齢は80才を過ぎており、週3日人工透析を受け始めて、すでに10年近い。

一緒に暮らしていたわけではなく、盆と正月、祭りの時に会うくらいだったが…

病院に車で向かう途中、祖母のことを思い出す。

漁師町で生まれ育った祖母は、声が大きく言葉が荒かった。

僕は覚えていないが、父親によると、祖母が大きな声を出すたびに、当時3才くらいの僕は祖父の膝の上に避難していたようだ。

僕を含めて孫は8人。

中学生〜高校生になると、祖母の年齢もあり、なかなか見分けもつかなくなったのか…

「われは、誰の子かいの!?」

「なんぼ(何才)になったんか?」

と会うたびに聞かれていた。

僕が結婚してからは、妻を

「姉さん!」

と大きな声で呼び、他愛ない話で笑っていた。

祖母自身も人工透析に通いながら、脳出血で左半身麻痺となった祖父の食事の世話、入浴の手伝いを毎日していた。

僕の結婚式に出席してほしかったが、

「じっつぁんを家においていかれん」

と断られた。

祖父を自宅で看取ったときには、

「じっつぁんが死んでしもうた」

と泣いていた。

祖母の涙を見たのは、最初で最後だった。


最後に話したのはいつだったかな…

病院に着き、病室に向かうときにそんなことを考えた。


病室のドアを開けると、







ベッドの上で上半身を起こし、テレビを見ている祖母がいた。


テレビは、都道府県対抗の男子駅伝。


ちょうど中継地点で、タスキを渡す場面だった。


僕に気づいた祖母が言った。


「広島はまだ来んのか?」


「え?」


「広島はまだ来んのか?」


「あぁ…まだじゃね。おばあちゃん救急車で運ばれたんじゃろ? 身体は大丈夫なん?」

「せやーない(心配ない)」

「お父さんやおじさんたちは?」

「いんだで(帰ったよ)」


どうやら父親たちも、ひとまず命に別状ないということで帰宅していたようだ。


ものすごく悪い想像しかしていなかった僕は、安心したような拍子抜けしたような…

しばらくして、僕も帰宅しました。



その会話が祖母との最後になった。

救急搬送から1〜2週間後、脳出血を発症したと聞き、再度病室に行くと…

ベッドの上でいくつかの管に繋がれ、小さくなった祖母がいた。

呼吸は荒く、とても会話ができる状態じゃない。


祖母はそのまま病院で亡くなりました。


今日、1月23日は都道府県対抗の男子駅伝の日。

残念ながら新型コロナの感染拡大により、昨年に続き中止となった。

もし、天国という世界があり、駅伝を楽しみにしていたとしたら…

祖母は何て言っているだろうか?

「今年もせんのか!? つまりゃせんのぅ」

とボヤいているかもしれない。


子どもからお年寄りまで、ふる里を応援する。

ふる里じゃなくても、いま住んでいる地域や縁があった地域を応援する。

テレビの前だけじゃなく、沿道に出て選手に声をかける。

そんな光景が来年は見られますように…







#おじいちゃんおばあちゃんへ

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