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これからの教員研修

 これまで教師の研修といえば、「どう教えるか」を扱うのがメインだった。教師同士で授業を見合い、事後研修ではああでもないこうでもないと言い合うのである。そこでまな板の上に乗るのは当然、授業者である教師だ。

「もっとこうすればよかった。」「なぜあそこでこうしなかったのか。」

といった感じである。こんなことを授業者は大勢から言われる。これで研究授業をしたいという人がいるだろうか。そんなものだから大抵若手がやらされる。そして散々けなされ、年を重ねるにつれて逆に押し付ける側に回る。

こうした傾向は特に中学校で顕著だったらしい。

こうした教員研修の悪循環が今、大きく変わろうとしている。それは「どう教えるか」から「どう学ぶか」への転換と言っていい。主語をつけるともっと分かりやすいだろう。

「教師がどう教えるか」から「子供がどう学ぶか」への転換である。

子供(というより人)がどのように賢くなっていくか。それを徹底的に分析し、それを日々の授業に生かす。

そうなってくると研究授業の様相も大きく変わる。教室の後ろから授業者の立ち振る舞いや板書、発問を観る研修から、学習者のそばで発言や活動、動きをつぶさに記録する研修になる。授業後の事後研で話題になるのは学習者の学び様である。

こうした研修体制を以前から採っていた団体、学校、自治体もある。これが大きなうねりとなっているのは文科省も同様の方針を採ったからである。各地に文科省の教科調査官が出向き、今回の指導要領の改訂の意図を伝えていっている。

こうした研修の広まりが早かったのは小学校らしい。もとよりそういった風土があったことと、受験がないことが理由に考えられるだろう。

しかし、今はそれ以上に高校の授業が大きく変わっていっている。小学校よりも高校の方がより進んだ授業の在り方をしているらしい。おそらく大学や入試の制度的な変化の波が直接届くからだろう。

こうした感触は私が直接感じたわけではなく、各地の研修に出入りする立場にある大学教授や教科調査官の話の受け売りでしかないことは申し添えておきたい。


わたしの今の勤務校の研修体制は変えてゆかなければならない。ここは、もはや研修は行っていないも同然である。研究授業はあるが、やるだけやって事後研はない。

先日、ある近くの大学の教授が学校に来て講演をしていった。その中で振り返りの重要性を語り、授業では必ず子供に今日の学びを振り返らせろと言っていた。それを聞いてこの言葉を思い出した。

「人は経験から学ぶのではない。経験を振り返ることから学ぶ。」

これはジョン・デューイが子供の学び様から見出した言葉である。振り返りによって人がどれだけ多くの学びを得るのかは近年、学習科学の研究者によって再発見されている。


もし、私が研究主任になったらしてみたいことがある。

①研究授業の回数を増やす。②指導案(研究授業の前に配る授業の計画案)を失くす。③子供の学びに関与しない行事をなくすor変えるよう求める。④その代わりに授業参観を増やす。

まず①から。とにかく教師同士が学び合える機会を増やす。研究授業というよりも、公開授業といった感じか。教室を開き、気軽に見合うのである。月に1人1回はできるだろう。研究授業が気楽で日常的なものになってくると職員室の会話も変わるのではないだろうか。自然な形でその日の授業のことが話題になり、それが事後研・振り返りになる。教師は当たり前のように授業を振り返るようにならないだろうか。

②は、研究授業のハードルを下げる試みである。指導案を作るのはそれなりに時間と労力がかかり、研究授業の敷居の高さの一つになっている。分析対象は子供の学び様なので必須のものではないだろう。最低限、課題や活動、教材がわかればいいのではないだろうか。

③ 今の学校には子供のためではない行事が多すぎるように感じる。学習発表会(学芸会)は保護者のためになっていないだろうか。本当に子供の学びの発表の場になっているだろうか。教師のシナリオ通りに練習し、それを保護者がお客さんになって見ているだけではないだろうか。運動会はかけた時間と労力に見合う子供の学びがあるだろうか。足をそろえ、手を高く上げて行進できるまで厳しく指導することにはどんな意味があるのか。こうした行事をなくせといっているわけではない。あり方を変えていこうと言っているのだ。

④学習発表会や、運動会が変わっていくと保護者は子供の姿が見にくいだろう。そのために授業参観を増やす。というか保護者にも子供の学びを見てもらうのである。保護者はお客さんではない。教師も保護者も子供の学びを促進する導き手である。教師にとっては授業参観も研究授業と同じになるということである。


先日、こんなことがあった。

授業参観の前日、隣の先生が授業構想に困っていた。その先生が広げていた単元を見て、あるアイデアを思いついたのでそれをもちかけて一緒に形にしていたところだった。

「私は授業参観用に準備をするのはかなり前からやめた。普段の姿を見てもらう。」

素晴らしい心掛けだと思う。普段の授業が手抜きでないのならば。

要するに私は、普段の授業と研究授業、授業参観の違いをなくしていきたいのである。それが子供にとっては有益なことだろうし、教師が一生懸命教材を作っているところに水を差されることもなくなるだろう。